(2)
ストライクはその時とても急いでいた。
だが急いでいるといっても油断してはいけない。いつどこから細い鋭い矢が飛んできても不思議ではないのだ。この街もそろそろ出なくてはならない。でもその前に一仕事しなければ。まだもうしばらくは大丈夫だろう。
大通りは夕暮れの薄闇の中、活気に満ちていた。あと一週間で新年を迎えるとあって、街には新年の飾りや縁起物のクッキー、魔よけのヒイラギの枝なんかを売り歩く人々とそれらに足を止める人々、あるいは足早に歩き去る人々が溢れていた。忙しそうなトレンチコートの男。まつげの優雅な獣人の占い娘。親とはぐれて泣いている子供。ころころと太って買い物袋を胸に抱えたウサギ顔のおばさん。長く白い耳がスカーフからはみ出ている。
その隙間を縫うようにストライクは歩いていた。遅くもなく早くもなく、誰からも注目されないように。
と、その時前方に一人の男が見えた。こちらに向かって歩いてくる。
いかにもひょろひょろと歩いている。背が高いので余計にふらふらとして見える。これからパーティにでも行くみたいにシルク・ハットを被っている。あとは黒尽くめだ。何か考え事でもしているみたいに目深に帽子を被った上に俯いている。
ストライクはきゅっと紺色のフード付きのマントを引き締めると、その変な男に軽くぶつかった。
「すみません!」
あくまでも自然に謝罪してそのまま直進する。あくまでも歩調を変えない。男はぶつかられたことさえ気がつかない様子でそのまま歩いて行った。
──鈍い!
笑いを押し殺して小さな路地に入ると、ストライクは自分の手に残ったものを取り出した。
結構入っているな。
…………結構どころじゃない。
ちょっと信じられないくらい入っている。
紙幣をいちにいさんと数えているとあたりが騒がしくなった。でもストライクには関係ない。100パーセントあの男は自分が俺に財布をすられたことに気がついていない。気がつくにはもう暫くかかるはずだ。だから今ここで起きている騒ぎにはとりあえず自分は関わらなくてもいい。
さて、金だけ頂いてこの財布を早く川かどこかに捨ててしまわないと。
と顔を上げようとした瞬間、ストライクは路地から少しばかり広い通りに引き摺り出された。
「こいつだっ!」
掴まれた手首が痛かった。見ると大きな黒い猫の手がツメを出して自分の手首を掴んでいる。その黒い手の主を見ると、やはり黒猫顔の獣人の青年?で(獣人の年齢は人間からはわかりにくい)、その黒猫はもう片方の手でさっきの黒い服でシルクハットの変な男を捕まえていた。
どうやら見つかったらしい。
おまけにちょうど掴まれたその手に、今まさにその黒服男の財布まで持っているのだ。ストライクはいろいろと諦めてため息をついた。
やっぱり俺にはこんな大金縁がないのかあ。
「わっかったよ……うっせぇな。返せばいんだろ?」
とっとと次の街に行っておきゃあよかったよな。
財布を黒服の男につき返しても、男はなんだかぼんやりしていた。記憶喪失にでもなったみたいに不思議そうに財布を見て、ゆっくりと手を伸ばした。苦労してなさそうな細い綺麗な指だった。ストライクにはなんとなく癪に障った。
「もういいだろ。じゃーな」
黒猫から手を振り切って走る。なんだよ。持ってるやつからもらって何が悪いんだ。あんな……のほほんと生きてる金持ちのボンボンから取って何が悪いんだ。…………悪いことなんかわかってるよ。でも俺は……。
かなり滅茶苦茶に走っていた。気がつくと街のはずれの森の近くまで来ていた。ちょうどいい。このままこの森を抜けて隣の街まで行ってしまおう。
日はすでに落ちていて、森の中はぞっとするほど暗かった。街の明かりが見えなくなるとあたりは真の闇に包まれ、さすがにストライクは進むのをやめた。焚き火を始めても食べるものも飲むものもない。少しくらい何か揃えられるだろうと思っていたのに、あの黒い服の男と黒猫面の青年のおかげで、本当に体一つで逃げる羽目になってしまった。
死にはしないけどさ……。
森の中は静か過ぎる。冬だからなのかふくろうさえも鳴かない。雪の中にいるふくろうの絵を昔見たような気がするのに、冬はほんとうはふくろうはどこかに行ってしまっているのだろうか。マントを体にしっかりと巻きつけても、寒気はじわじわと染み込んで来る。寒さにあまり気をとられないように、ストライクは耳を澄ますことに集中した。
枝が風に煽られざわざわと揺れている。風の冷たさを思うとその風に吹かれているわけでもないのに体がすくんだ。パキ、ポキと軽い音が混ざる。風で枝が折れているのだろうか。まだ木にしがみ付いていた葉が落ちる音だろうか。
ちがう。何かが近づいてきている。
ストライクはそれに気がついた瞬間に飛び起きて焚き火を踏み消した。あたりは真っ暗の闇に戻る。
まだそんなに近くには来ていないはずだ……。
でもストライクは油断するわけにはいかなかった。この暗闇の中でもあるいは細い矢が過たず飛んでくるかもしれないのだ。そうであっても不思議ではないのだ。音のしたほうとは逆の方向に手探りで数メートル移動し、もう一度耳を澄ました。人の話声がする。
「ここら辺だな」
どこかで聞いたことのある声だと思った。
タンと何かが地を蹴る音がした。
と同時にドカンと自分の頭の上に何か大きなものが落ち、木全体がわっさわっさと揺れた。
「うわっ!」
ストライクが思わず腕で頭を庇うと、その腕にまたツメが食い込んできた。
痛い。
「よ。さっきのスリ師。焚き火消しちゃったりして無駄だから。俺夜目が利く生き物。わかる?」
暗闇の中に緑色の大きな目がきらりきらりと光って見えた。