(2)
箱のスイッチは緑色で、まるでつぎはぎをあてたみたいな銀色の立方体に控えめに付いていた。
「俺はパンドラ・ボックスと言ったらもっとゴテゴテしてるもんだと思ってた」
とチップが言った。
スゥも頷いている。「かなりシンプルね」。
ハロウが少し逡巡した後スイッチに触れると、パンドラ・ボックスは一瞬全体を白く光らせ、「パスワードをどうぞ」と機械的な女の声で言った。
「…………」
「………………」
「……パスワード……は?」
「わかりません」
「そこは隠さなくてもいいだろぉ?」
「はっきりと聞かなかったので……たぶんこういうパスだろうな、というくらいしかわからないんです」
暫くするとパンドラ・ボックスは怒ったように赤く一瞬光り、「パスワードエラー」と言って沈黙した。
「それがお前の欲しかったもの?」
ストライクが呆れて言うと、ハロウは真顔で「そうです」と言った。
「あら。もう少しでお店の時間だわ。片付けてくるね」
スゥがティ・カップやポットや、ほとんどストライクが空にしたクッキーの小鉢やらを持って階下に下ってしまい、チップは猫らしくうまく木箱の上で丸くなった。すぐに寝息を立て始める。ルーはとても優しくチップの頬を撫でた。
「スリ師で泥棒だって。珍しいな。こいつはそういう人は連れてこなかったんだよ。そっちのお兄さんみたいなのばっかりだったんだ」
「金持ちしか連れてこなかったのか?」
ストライクが憮然として言うと、ルーはまあそうかもな、と笑って言った。
「スレてない人間が好きなんだなこいつ。そういうイキモノって人間の中にしかいないって前に言ってた。何もできなくてお人よしで世間知らずで頭悪いイキモノが人間の中にはいる、それでも生きてる、スゲー! って」
「それって人間ってバカだって言ってね?」
ストライクも笑ってしまったが、ハロウだけ微妙な顔をしてチップを見ていた。
「弱くても生きていけるのは人間だけだって。だからそういう人間を見ると感動するんだと」
「ふうん」
「これ見てみな」
ルーが眠るチップのあごに指先を突っ込んだ。よく見るとチップの首に、ふさふさの真っ黒な毛に埋もれるようにして、これまたふさふさのベルベットの真っ黒な首輪が巻かれていた。今までチップが首輪をつけてることなんて全然気が付かなかった。ルーがちょっとそれをずらすと、首輪の下はすっかり禿げ上がって、ピンク色の柔らかそうな皮膚が露出していた。
「この首輪……外した方がいいんじゃねえの? 禿げちまってるぜ」
「この首輪は俺が買ってやったんだ。このハゲ隠しに」
チップがうるさそうに耳をぱたぱたと振ったので、ルーは首輪から手を離した。
「俺んちにこいつが転がり込んできた時もうこうなってた。いろいろあってそう思うようになったんだろ。詩人の兄さん、気を悪くしないでくれよ。こいつは別に馬鹿にしてるわけじゃないんだ」
ハロウは眠っているチップをじっと灰色の瞳で見ていた。相変わらず何を思っているのかわからないような無表情だったが、どういうわけか悲しそうに見えなくもなかった。
「雪がな」
チップは自分のことが話されてるなんて気が付かない風に、ルーの手が頬に触れるたびぴくぴくとひげを動かし、くの字に曲げた腕の中に鼻先をきゅうっと抱き込んだ。
「ある日の朝起きて雪が積もってて、もし足跡一つついてないなら、そのままにしておきたいんだーって言ってた」
「俺は喜んで一番最初に足跡をつけるな」
ストライクが言うと、ルーは「どっちの気持ちもわかる」と言ってまた少し笑った。