惨劇の夜
大陸歴319年11月23日。
この日は、冬も近いというのに、やけに生ぬるい風が吹く夜だった。
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ドサリ。
重く、にぶい音をたてて、豪奢な衣をまとった人影が一つ、床に沈んだ。
灯り一つない巨大な空間はとても寒々しい。ただ一つの光源は、ガラスのはめ込まれた窓から射しこむ、冷え切った月明りのみ。
ざり、という、重い靴が絨毯にこすれる音。
音もなく床に広がっていく赤い海を、別の誰かの靴が踏みつけ、ばしゃり、という水音と、盛大なしぶきをたてた。
「あ……ああ……」
その一部始終を見ていたのは、物陰にいた少年ただ一人。口から、わずかに喘ぎ声がこぼれ落ちた。
見つかってはいけない。逃げなければ。
そう思っているのに、体がいうことをきかない。
広い室内を、何人かが動き回っている足音が、コツコツと響く。そのうちの一つが、急に少年の方へ向けられた。
「……っ!」
口をおさえ、柱の陰に隠れて、必死に息を殺した。
足音は、少年が隠れているすぐそばにまで近づき。
「――!」
――それほど時間をおかず、離れていった。
ほっと、全身の息をはきだし、よろよろと尻餅をつく。
「陛下!」
バタン、と荒々しく大広間の扉が引き開けられる音がして、新しい靴音がかけこんできた。その後にも、何人分かの足音と、金属の鳴る高い音が続く。
ああ、この声は知っている。物静かで優しい、けれどとても強い、あの人の声だ。
息をのむ音。続けざまに聞こえてきた、怒声。刃の交わる音。
駄目だ。だめだ。ダメだ。
逃げて。
あんなの、どうやって戦うのか、どうしたら勝てるのか、わからないよ。
それからしばらくの間、耳をふさいでその場にうずくまってしまった少年をよそに、新たな血戦が繰り広げられた。
どれほどの時が過ぎたのか。
後ろから、わずかに光が射しこんできた。
少年は、はっとして顔を上げ、後ろを振り返った。
大広間の壁の一部に作られた隠し部屋。その扉がわずかに開き、そこから、血まみれになった一人の男が、痛々しい笑みを浮かべて少年の姿をとらえていた。
「……殿下。ご無事、で」
少年は、男の姿に悲鳴を上げかけたが、続いておこったことにあわて、今度こそ悲鳴を上げてかけよった。
傷だらけ、血まみれの男が、少年の目の前でゆらり、とよろめき、そのまま倒れてしまったのである。
「ジェームズ! しっかり……しっかりして!」
まだ幼い声は、十歳くらいだろうか。今にも泣きだしそうに顔をゆがめているが、一生懸命に我慢して声をかけてくる少年に、男が微笑んだ。
「……私のことは、ご案じめされますな。この程度、どうということもありませぬ」
「そんなこと、あるわけないだろ! すぐに、誰か……」
「……いえ。それよりも、殿下」
男を心配し、励ます少年に、男はかすれた声で告げた。
「今すぐに、ここからお逃げください」
「え……?」
少年は、うるんだ目を見開いた。
「ここから逃げるって、どうして? ぼくは……」
男が荒い息の中、少年が言いかけたことをさえぎって言葉を続けた。
「このままここにおとどまりあれば、いつまた、奴らの仲間が現れるか、わかりませぬ。今ならばまだ、逃げられます。……生憎と、私はお供することかないませんが、私の部下が、信頼できる者を連れて、こちらへ向かっておりますから」
「そんなの、いやだ! あなたも一緒に……」
「殿下!!」
静かな、しかしそれでいて腹の底に響く声が、少年の全身を打った。
その口調で、少年にも、これ以上時間を無駄にする余裕がないことが、いやでもわかった。
まもなく、数人の足音と共に、複数の人影が隠し部屋に転がりこむように現れた。
「団長! 殿下は!?」
「……ご無事だ。……早く、安全な場所へお連れしてくれ」
部下たちだろう、男たちが血相を変えて走りよったが、床に倒れたままの男の言葉と、そのかたわらにいる少年の姿を確認して、ほっと胸をなでおろす。
「さあ、殿下。今はただ、私どもを信じて、ついてきてください」
年若い男が二人、少年と男に騎士礼をしたのち、少年の傍に膝をつく。
騎士たちに連れられるがまま、立ち上がった少年は、立ち去る間際に、とうとうこらえきれなくなった涙の粒を、二つこぼしていった。
「……行かれたか……」
少年が立ち去ったのを見届け、つぶやいて目を閉じようとした男の横っ面を、一人残った同年配の騎士が、ぴしゃりとひっぱたいた。
「コラ、寝るんじゃねえぞ、ジェームズ! 今寝たら、確実にあの世行きだ。再びあのお方にお会いする日まで、死ねんだろうが!」
「……そう、だな……」
乱暴な言葉に微苦笑しながら、男は体を起こそうとしたが、ピクリとも動かせなかった。
舌打ちした騎士が、素早く男を担ぎ上げ、落ちていた剣を拾って隠し部屋を出ていく。
惨劇の跡だけが、月光に照らされてその場に取り残されていた。
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―― 大陸歴319年11月23日
西の大国、エストレリアの王都にてクーデターが勃発。一連の騒動で、宰相以下何人もの重鎮がその職を追われ、落命する。また、その最中に王位継承権第一位、ローラン王子が行方不明となり、妹姫が世継ぎ候補となる。
クーデターを主導した革新派は、またたくまにエストレリア国内の全権を掌握。現在も、政務のほとんどを執り行っている。