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アマネセル紀行録  作者: 氷室零
第一章 事の起こり
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旅の始まり


「どうしたの、フィル?」


 声をかけられ、フィルは、はっと顔を上げた。


「ごはん、おいしくなかったかしら?」


 悲しそうな顔をしてたずねてくるアリーシャに、急いで勢いよく首を振る。


「そんなことないよ! すごくおいしい」

「そう? よかった」


 母が食卓の向こう側で、にっこりと微笑んだ。その顔を見るのが少しだけ辛かったけれど、フィルは必死に押し隠して、にこりと笑い返した。




 あれから、一日がたった。

 昨日、あのあと四人はノルンから、当分の間困らないようにと多少のお金をもらい、それを懐に隠して自分たちの家へ帰った。

 戻る道すがら、今後のことを話し合った。途中、村はずれの夕日が見える丘にまで遠い寄り道をして、どうしようか悩んだ。

 結果、ぐずぐず残っていると心残りが出て旅立ちにくくなるので、早いうちに、準備ができ次第、出発しようということになった。


 身の上を伏せる以上、出所が特定されるようなものは持ってはいけない。護身のために武器だけは持っていくが、そのほかは衣服も最低限で済ませる。あとは、食糧や薬草を集めればすぐにでも、出発の用意が整ってしまう。

 そうして、あっという間に一日が過ぎ、準備が全て終わっていた。


 エリザとヘレナは、畑の手入れがてらこっそりある程度の薬草を調達していたようだし、レオンは水を確保するための魔法を普段より多く使って、持っていくための飲料水を確保しておいてくれたらしい。

 フィルも、今日は一日山の中を駆け回って、数日分の食糧を集めまくっていた。人間、肉だけでなく葉も食べないと、病気になる。狩りの合間にこっそり採っておいた山菜を、下山するためのルートに隠しておいた。あとは、出ていくときに回収するだけでいい。

 その分、いつもよりちょっと獲物が少なくなったが、おやじたちは、そんな日もあるさ、と笑ってくれた。


 だが、そんな人たちを見ることも、もうない。


 目の前のごちそうも、もう食べられなくなるんだよなあ、と思いながら、フィルはしみじみと最後の夕食を味わった。

 なぜだろう。昨日より、ずっとずっとおいしい気がする。


 パリッと脂ののった鳥肉と、甘辛いタレの味。根菜と葉物のスープ。雑穀のパン。

 でも、こんなに、しょっぱい味だったっけ?


 フィルは、落ち着け、と深呼吸した。しばらくそれをくりかえしていると、やがて突然やってきた衝動の波は、ゆっくりと引いていった。



 

 食事が終わると、フィルはいつも通りに食器を下げ、日課になっている弓矢の手入れにかかった。食器を洗うために水をひしゃくで移していたアリーシャが、そんなフィルの様子を見守る。

 しばらくの間、食器を水で洗う、ちゃぷちゃぷという水音と、矢羽を固定し、切りそろえる音だけが、聞こえていた。


 母と子の二人しかいない家の夜は、静かだった。


 やがて、食器が片付き、弓と矢の手入れが完全に終わってしまうと、もうあとはやることがなくなる。

 村の朝は早い。


「それじゃあ、お休みなさい」


 フィルは、いつもと変わらずそう言って、寝床の準備にかかろうとした。母の寝床は、もう片方の部屋だ。フィルはいつも、手前の部屋に寝ている。

 だから、さっさと寝床を敷いてしまおうとしたのに。

 その日は、母は一向に動こうとしなかった。


「待って、フィル」

「え……?」


 いつもと違う母の様子をいぶかしんだフィルが顔を上げると、目の前に母の姿があった。


 無言だった。


「母さん……?」


 アリーシャが、静かにフィルを抱きしめていた。

 力強く、しかしそっと。


「……気をつけて」


 耳元でささやかれた言葉に、フィルははっと凍りついた。


 母は、気づいていたのだ。自分の息子が、自分の手の届かないところに行ってしまうことに。

 フィルはただ、力の限り、精一杯のありったけの気持ちを込めて、抱きしめた。


「ありがとう……」


 ただ、それしか言えなかった。それ以上は、限界が来てしまいそうだった。


 アリーシャが、優しくその背をなでた。

 それだけで十分だった。






 その日の夜は、新月だった。

 月の光はなく、星明かりだけが頼りになる道しるべだった。


 寝静まった村の入口に、四人は静かに集まった。準備しておいた荷物を背負い、武器を身につけ、山歩きしてもいいような恰好に着替えている。


 集まったところで、四人は誰からともなく、村の方を振り返った。

 当然、灯りは一つもついていない。


 フィルは、静かに家のある方向に頭を下げた。


(今まで、本当にありがとう、母さん。……さよなら)


 ほかの三人も、しばらくの間、そこから一歩も動かず、黙って村の方を見つめていた。


 どれくらい時間がたっただろうか。


「……それじゃあ、行くか」


 ようやく、レオンの小さな声で、四人はきっぱりと踵を返した。

 村に背を向けて、出口になる坂道を登っていく。


 四人の姿が森の中に消えていくのを見た者は、一人もいなかった。


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