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棚田の風太

作者: 里山 根子君

棚田の風太


湧き水

ここは、昭和の頃まではどこの山間にもあった、小さな棚田の湧き水のある水路です。四月、山の雪どけ水をたくわえて、普段は微かな湧き水も、少し豊かに湧きだしてきました。日ざしもうららかになり、湧き水を温めてくれます。

キタテハが、この日を待ていたとばかりに、せわしなくも楽しそうに飛び回っていた。かなり鱗粉がはがれて色あせて、ところどころ羽が裂けてはいたが、元気いっぱいに飛び回っていた。この山間の寒い冬をどこでどう越冬したのか、見ているだけでも勇気がもらえるような気がします。

 サワガニは、獲物をもとめて這い出し、カワニナが小石についた藻を、ゆっくりゆっくり舐めています。ホトケドジョウはお気に入りの場所を行ったり来たりして楽しそうに遊んでいます。セリの芽が伸びはじめて良い香りがしてきました。

西には、軽自動車が一台通れるほどの道があり、その道を隔てて、ヒョウタンを縦に切って伏せたような山があって、ダンコウバイと純白のコブシがあちこちに咲いていました。棚田の東側には小さな川が流れていて、ネコヤナギが花の先端に、黄色い花粉を付け初めました。

 そんな、豊かな自然のなかの湧き水のある水路で、アキアカネの風太は生まれました。小さい卵から、元気いっぱいに、はじけるようにして生まれた風太は、それはまだ小さなヤゴでした。目だけがくっきり黒い点が二つ付いていて、体はまだ透明で、北の海で流氷と一緒にやってくる小さな妖精のようでした。何もかもが、初めて見るものばかでしたが、なぜか以前にも見たことがあるような不思議な気がしました。

 風太は、同じ仲間のヤゴにも行き合いました。それは大きさもほとんど同じ、ナツアカネの昇太でした。風太と昇太はすぐに仲良しになって、一緒に湧き水の中の散歩を楽しんでいました。まだ、言葉は交わせないけれども、セリの間をくぐり抜けたり、小石の藻をなめているカワニナをずっと長い間、楽しそうに眺めていました。

 高い土手には、フキノトウがところどころに開いていて、ニリンソウの群落では、白いかわいい花がそよ風にゆれています。タンポポもあちこちで咲き始めました。その高い土手の上は、昨年塗った畦で、まだ葉の枯れた野芝に覆われていて、その中にオキナグサが、高山植物を思わせるような淡い赤紫の花を下向きに咲かせていました。

 五月、春の日ざしを浴びて、草や木や多くの虫たちや水棲動物たちが、長くてきびしい冬から目覚めて、活き活きと活動をはじめました。湧き水の周りでは、水かさも増えてセリも緑の葉を広げ、元気よく上に伸びてきました。 山ではカラマツが芽吹き、コブシ・ダンコウバイが散るか散らないかのうちに、あちこちにヤマザクラが咲き、黄色のヤマブキが山裾一面をかざっています。日当たりの良い斜面には、ウグイスカズラの、小さなピンクのラッパのような花が風にゆれていました。

 棚田では、水口から水が入れられて、代かきがはじまっています。手畦がきれいに塗られて、水路も水の流れが良くなるように手入れがされていました。風太と昇太はセリの林にかくれてじっと見ていました。恐ろしい機械を農夫が操っている。風太と昇太はあの車輪に踏みつぶされたらひとたまりもない、人間とは何と恐ろしい動物なんだろうと思った。この頃、風太と昇太の体は生まれたころより五倍ほども大きくなって、うす茶色に変わっていました。体はまだ小さいけれども、りっぱなヤゴの形になっていました。

 風太と昇太は、湧き水からはなれて、代かきの終わった田んぼに行ってみることにしました。行きは流れる水の力をかりてスイスイ進むことができました。田んぼの水口まで来ると風太と昇太は、水路と田んぼの落差で勢いよく流れる水に足をとられて、体がふわっと浮いて何回もひっくり返ったかと思うと、目の前が全く見えなくなった。

 風太は、水の流れをたよりにして、思い切り足をふんばって上流へ進むと、泥水と透明な水が混ざり合っているところまで来ることができた。そして、できるだけ流れの緩やかな脇を進み、やっとの思いで大きな落差を乗り越えて、湧き水のある水路へとたどり着くことができました。

 自分のことで必死だった風太は、急に昇太のことが心配になって、辺りを見回すと水路から棚田に入る大きな落差の下に昇太がいた。風太は大声で、「昇太がんばれ」と叫んだ。昇太は流れの中央で足をふんばっていたので、流れにあおられた体が、前に後ろにゆれていた。

 風太は「もっと横によけて進むんだ」と大声で叫んだ。昇太は言われたとうり流れの脇に注意深く移動して、足をふんばって大きな落差を乗り越えることができた。

 そこへ、上流から下ってきたホトケドジョウが「君たち田んぼへ行ってきたのかい」と聞いてきました。

 風太は、「広くて、さぞかし気持ちが良いだろうと思って行ったんだけど、急に目の前は何にも見えなくなってひどいめにあったよ」と言った。

ホトケドジョウは「それは無理だよ、何日かたてば水も澄んで行かれると思うけれどね」

「田んぼに行ったことはあるの」と昇太が聞いた。

「ぼくたちは、この湧き水の水路がいちばん好きなんだよ、たしかに、田んぼの中は広いけど水の流れがないところは、ぼくたちは苦手なんだ。それに田んぼの中は、気をつけないと危険もいっぱいだしね」

今度は風太が、「それじゃまた明日、気をつけて行ってみよう」昇太もうなずいたが、ホトケドジョウは「おいおい水が澄んだからってまだまだやめた方がいいよ、身をかくすところがないからね」風太は、昇太の方を見て不安そうな顔をした。

 ホトケドジョウは「そんなに田んぼに行ってみたいんなら、もう少し待ってせいぜい田植えが終わってからにした方がいいよ」

風太と昇太は、「わかったありがとう」と言ってホトケドジョウと別れて、湧き水のある上流に向かった。

 上流では、カワニナが小石の藻をなめていた。風太と昇太は、カワニナに聞いた。「君は田んぼに行ったことはあるかい」

カワニナは「いやないよ」と答えた。

昇太は、「行ってみたいと思わないかい」と聞いてみた。

カワニナは「あそこには行きたくないよ、僕たちは、きれいな水と小石がないと生活できないんだ。タニシは田んぼが好きだけど、同じ巻貝でも好きな場所が全くちがうからね」

風太と昇太は、ふうんとうなずくと、いつの間にか日がかげっていたので、いつものセリの林に戻ってゆっくり休むことにした。

 夜になると、水の入ったたんぼでは、カエルの合唱が賑やかだった。これが風太と昇太にとっては、この上ない子守唄に聞こえた。それから、いく日かたって、田んぼでは、田植えが始まっていた。山を彩っていたヤマザクラは散り、山すそのヤマブキの花も色あせて、まばらになっていました。それに代わって、桜の花とも思えないウワミズザクラが、ブラシのような白い花を咲かせ、爽やかな香りを漂わせている。スイバはすっかり伸びて、地味な花を咲かせている。

 田植えが終わって、数日すると田んぼの水もすっかり澄んで、水口の水も緩やかになっていた。風太と昇太は、湧き水の水路を下って田んぼの水口まで行ってみた。怖い思いをした段差は、ほとんどなくなっていました。わずか段差の名残のある水路のむこうには、タニシがゆっくり地面を這っていた。

 風太は、大声でタニシに聞いてみた、「そっちは気持ちいいかい」

タニシは「広くて気持ちがいいよ、それに暖かいしね」

風太と昇太は、互いに「ヨシ」と声をかけ合い、水口からゆっくり田んぼに入ってみた。たしかに、湧き水のある水路とは違って、そこは暖かくて気持ちが良かった。

 昇太が、タニシに聞きました。「君は、湧き水のある水路に行ったことはあるかい」タニシは「いやないよ、僕たちはあまり冷たい水は苦手なんだよ、それに田んぼの中の土にはご馳走がいっぱいだしね」

「どんなご馳走なの」と風太が聞きました。

 タニシは、「君たちとは食べるものが違うからね。目で見てもわからないけど、藻と呼ばれるものの仲間や小さな生物が沢山いるんだよ」

「なるほど、それは僕たちが見てもわからないや」と風太が言った。

 昇太は、みんなそれぞれ好きな場所があるんだと思った。自分たちも、たしかにきれいな湧き水も気持ちが良いけれど、田んぼの中も暖かくて気持ちが良いと思った。

 水路の向こうの高い土手では、フキノトウは間伸びして綿毛もすっかり飛び、その周りからは沢山のまあるい葉が開いていました。ニリンソウ・オキナグサの花は咲き終わり、すっかり葉だけになっていた。それに代わって、ウツボグサがかわいい紫の花をいくつも咲かせていました。

 山では、ブラシのようなウワミズザクラに代わって、ニセアカシアが咲き始めて甘い香りを放っています。フジの花も咲き始めました。ウスバシロチョウがハルジオンの花をもとめて、風の妖精さながらにヒラヒラと優雅に飛んでいます。とても同じ仲間とは思えない姿形をしていますが、立派なアゲハチョウの仲間です。この辺りには幼虫の食草になるムラサキケマンが沢山あることから、優雅なこの蝶も沢山みられるようです。

 田んぼの中は、たしかに広くて気持ちが良かった。風太と昇太は、イネの株の間をおもいきり走り回って遊びました。上を見るとミズスマシが輪をえがいて楽しそうにスイスイ泳いでいる。アメンボも大勢で、水面の競争を楽しんでいるようです。

 日がかげっても、昼間暖まった田んぼの水は暖かくて気持ちが良かった。風太と昇太は昼間おもいきり遊んで、夕闇にお互いの姿を確認すると、稲の株に隠れてぐっすり眠りました。夜はあいかわらずカエルの合唱に加えて、フクロウの声やアカショウビンの声をよく聞くようになりました。

羽化

 季節は梅雨、風太と昇太のいる棚田の道ばたでは、アヤメが目の覚めるような青色の花を咲かせています。ウグイスカズラはピンクのラッパのような花から、美味しそうな赤い実をつけていました。

 近くの山では、日の出前から鳴いていたホトトギスに続いて、カッコウ、ウグイス、の鳴き声がなんとも陽気に聞こえます。滅多に姿を見せないアオバトがワーォワォと何とも不思議な声で鳴いているのも聞こえます。梅雨の時期でも前線が南下して、天気が良くなると昼間はかなり気温が上がるので、カラマツの林からは賑やかなほどハルゼミの声が聞こえてきます。

 この頃風太は、気のせいか体を動かすのが窮屈になったような気がした。昇太も風太のことが心配になった。同じアキアカネのヤゴたちも同じことを言う仲間がいることがわかった。

 ある日の、夜明け前のことだった。風太は、心なしか呼吸も楽ではないような気がして、誰かに招かれるようにいつも休んでいる稲の株を登り始めた。昇太はいつもの稲の株に寄り添うように眠っていた。昇太とはこれで最後になるかも知れないので、声をかけてから行こうと思ったが、心のどこかでまた会えそうな気がして、そっと寝かせておいてやることにして、風太は上に向かった。

 水面に出ると、水の中とは全くかってが違う、水の中では猟をするときだけ、忍び足で這うように歩く風太たちにとって、上に登ることは大変なことだった。水面からわずかに登ったところで、風太は諦めてしまいたくなった。すると、どこからだか「頑張って登りなさい」と言う声が聞こえた。確かに聞こえた。風太は、また頑張って登りはじめたが、十センチほど登ったところで、葉が邪魔をしていてそれ以上、上に進むことは困難であった。それに風太、は体を動かすのが既に限界だった。そのかわり、稲の茎を6本の足でしっかり掴んだ。あのうす茶色の体に緑色が透けて見えるようになった。

 まだ夜は明けていない、風太の身にまとっていたものの背中が縦にパックリと割れて、全く別の生き物の様な胸部が現れた。ちぢれた羽が4枚ついた胸部に続いて、立派な複眼をもった頭部が現れた。その後、足を伸ばしながら長い腹部が少しずつ出てきたて、すっかり全身が現れて立派なトンボの姿になった。ちぢれた羽も少し伸びました。

 今までまとっていた、キチン質のヤゴの抜け殻からは全く想像もつかないような姿だった。体全体がまだ淡い緑色をしていて、頼りなくも若々しい立派な姿をしています。しかし、この羽化の時間は完全変体をする昆虫たちにとっては、もっとも天敵に狙われやすい瞬間です。

 空がすっかり明るくなりました。もうじき東の山から朝日が昇ってきます。風太の羽もすっかり伸びましたが、羽も体もまだ固まってはいないので、いちばん天敵に狙われやすい状態には間違いなかった。

 風太は、水の中から必死に稲の株に登って、羽化するのに大変な体力を使ったので、周囲のことは全くと言っていいほど目に入りませんでした。東の山から、まばゆいばかりの朝日が昇り始めました。

 風太は、やっと我にかえって辺りを見回した。すぐ横にはあの湧き水のある水路があった。いつものように、カワニナが小石の藻をなめていた。ホトケドジョウは、気に入ったところを行ったり来たりしている。田んぼの水面では、ミズスマシやアメンボが楽しそうに遊んでいる。

 風太は、急に湧き水や田んぼが、離れがたい場所のように思えた。昇太はどこだろうと眼をこらしたが、水面は梅雨の晴れ間の抜けるような青空が反射して、水中の様子は全くと言っていいほどわからなかった。

 けして広くない農道の、背の低いシロツメクサのジュウタンは、小さなヤマトシジミたちの遊び場になっていた。湧き水の辺りでは、セリが小さな白い花を咲かせていた。その少し上の土手にはウツボグサの群落があって、濃い紫の花が沢山咲いていた。

 はるか北の方角には、緑も鮮やかに山々が堂々とそびえていた。一番右の高い峰は、すそ野を優美にのばした活火山のようで、峰からはわずかに煙のようなものがみえた。左に連なる山々も個性的で、くっきりとした稜線がきれいだった。

 ミスジチョウがリズミカルに羽を動かして飛行を楽しんでいる。ミドリヒョウモンがネコ科の動物から抜け出したような、みごとな模様を見せびらかすように花をもとめて飛んでいた。風太の仲間たちのトンボの姿もありました。

 風太は、なんてすばらしい世界だろうと思った。しかも、いま頃のこの地方の季節は、暑くもなくまた寒くもない。湧き水の水路や、田んぼの中も楽しかったが、ここはまた別世界のような気がしました。

 時間がたつにつれて、風太の体も淡い緑色からきれいな黄土色に変わり胸部にはトラ模様のような黒いしま模様が斜めに現れました。羽もすっかり透明に変わっていました。

命の恩人

細い農道に軽トラックが止まって、棚田の持ち主と思われる農夫が草刈を始めまた。恐ろしくかん高いエンジンの音が近づいてくる。風太は、あの回転している刃に巻き込まれたらひとたまりもないと思った。それに、ここでは羽も体もまだ固まっていないので、天敵に狙われる危険がある。

 風太は、思い切って飛び立ってみようと思いました。誰から教わったわけでもなく、前羽と後羽を交互に動かして、体が軽くなってきたのを感じた頃、掴まっていた稲の茎から足を離してみまた。風太は飛べたと思った。自分にはこんなことが出来るのかと、驚くのと同時に関心していた。

 しかし、あまり遠くへは行かれない、羽と体がしっかり固まるまでは、近くの草むらでじっと待たなければいけない、飛び方はまだぎこちなくて、風に流されたが何とか東の山裾のクロモジの木の枝にとまることが出来た。直射日光を浴びないように、できるだけ葉陰をさがして休むことにした。この間は、アリなどの外敵にも注意しなくてはいけない。

 どんな昆虫でも、羽化や脱皮には相当な体力を使う、風太も真夜中から動き始めて、クタクタに疲れていた。今日は、本当に良い天気なので、風太の羽と体は、午後にはだいぶ固まってきたような気がした。この分だと明日には、先に羽化した仲間たちのように飛べるかもしれないと思った。

一夜が明けると、風太の体も羽も固まって、体力も回復したようだった。早く動き出したくてしかたなかった。天気は下り坂のようだが、朝のうちはまだ良い天気だった。棚田の持ち主が、昨日の続きの草刈をしている。

 先に羽化した仲間たちも、棚田の上空を楽しそうに飛んでいた。風太も飛んでみたいと思って、前後の羽を交互に動かし、クロモジの木から足を離した。今日は、少しは上手く飛ぶことができたと思ったので、棚田の上に飛び出して、更に上空に上がってみた。ところが、上空は風が強かった。まだ完全に固まっていない体がきしんだ。風太は咄嗟に、自分の今の体ではまだ高いところは無理だと気づいて、慌てて急降下した。

 湧き水の、水路の少し上の土手に大きな石をみつけた。そこでひと休みしようと思って、更に降下したところ、急に全身が何かに捕まったように動けなくなった。何かにひっかかっている、よく見ると背の高いヒメジオンの間にかけられたジョロウグモの巣だった。

 ジョロウグモは思わぬご馳走に興奮して、風太を威嚇して糸をゆする。しかし、すぐに向かっては来ない、風太たちトンボの顎は強靭でうかつに近づけばジョロウグモでさえやられてしまう。風太は、油断したこれで最後かと思った。

 羽を動かしても、粘っこいクモの糸は体にまとわりついてしまって、更に自由がきかなくなってしまった。ジョロウグモは激しく糸をゆすり風太が疲れて動けなくなるのを待っているようである。しかも風太との距離を少しずつ詰めて来るのである。

 風太は、もう助かる方法はないと諦めかけたとき、ふと気がつくとあの恐ろしい、草刈機のエンジンの音が止まった。クモの巣に捕まってはいるものの、トンボの複眼はかなり広い範囲を見ることができる。草刈をしていた農夫が、草刈機を置いて風太に近づいて来るのがわかった。これから何が起きるのか、風太には見当もつかなかった。

 農夫は、手を伸ばして風太の四枚の羽を上にたたむようにして持って、ジョロウグモの巣から静かに引き出した。そして、もう片方の手の指先が頭部に近づいて来るのがわかった。風太はもうだめだと思った瞬間、近づいてきた農夫の人差し指の腹に大顎をあてて、思いきり噛みついた。農夫の全身が一瞬ピックと震えて、人差し指からは血が出た。

 しかし、農夫は羽や頭や足の先までまとわりついたジョロウグモの糸をやさしく、きれいに取ってくれた。それから風太のかじったほうの人差し指に掴まらせてくれて、羽を持っていたほうの手をはなしてくれた。この農夫にとっては、人差し指を風太に噛みつかれたことなど何でもないことで、とるに足らないことだったのだ。

 風太は、あっけにとられて、ただボーっと農夫を見つめるだけだったが、しばらくこのまま、この棚田の持ち主の指に掴まったまま休みたい気もした。けれど、この棚田の持ち主はまだ仕事を始めて間もないできごとだったので、この棚田の土手草を全部苅り終えるのは容易ではなっかた。

 風太は、命を助けてもらったのに、何もできないのが悔しかったが、これ以上この棚田の持ち主の仕事の邪魔も出来ないので、軽く飛び立ってホバリングして、命の恩人の顔を良く見てお礼のつもりでこの命の恩人の頭の上を三回旋回して、さっき休もうと思った大石の上にとまって休んだ。

 この石は、色々な仲間たちの休み場らしく、花をもとめて飛んでいたミドリヒョウモンが、風太の近くに止まってひと休みしている。間近で見るこの蝶は、目が覚めるような橙色と黒のコントラストが鮮やかで、羽の裏面は銀色を施した絹織物のようだった。まさに貴婦人のような風格である。

 風太は、ミドリヒョウモンに話しかけた。「あなたたちは、なんてきれいなんだ。しかも、夏が良く似合うし、まるで神様がこしらえてくれた宝石のようだね」

 ミドリヒョウモンは「そんなことはないわ、あなたたちこそ、その立派な複眼を持った頭部と、強靱な筋肉をもった胸部で、速く、また遠くまで飛ぶことができるからうらやましいわ」

「だけど今朝、羽化したばかりだから、まだ遠くに行ったことはないよ、それに飛び立って間もなく、ジョロウグモの巣に気が付かないで、あの農夫が助けてくれなければ死んでいたよ」

「鳥やクモの巣も気をつけないといけないけど、人間はもっと怖いわ」

「自分もそう思っていたんだけど、そんなことはないよ、事実さっきジョロウグモの巣にかかった自分を、あの農夫が助けてくれたんだ」

「私は先日、この下の集落まで行ってみたの、子供たちがトンボを捕まえて羽をちぎって池に放ったり、腹部をちぎって、そこにちぎった草を刺して飛ばして喜んでいたわ」

「まあ、それを言ったら自分たちだって肉食だから、小さな虫たちにすまないと思うけど」

「それとは違うと思うわ、あなたたちは、生きるためにどうしようもないことだけど、人間の子供たちは自分が生きるために虫たちを殺しているわけではないのよ、ただ遊んでいるだけなのよ」

「確かに、子供たちのほうが残忍かもしれない、自分たちも水中にいるときは、意味もなく自分より小さな水生動物を殺してしまったことはないけど、あなたたち蝶は、生き物を殺したりはしないからうらやましいよ」

「それは食べるものが違うわけだから、生きていくためには仕方のないことだわ」

 二頭は、そんな話をしているうちに日が高く上がって、かなり暑くなっているのを感じたと同時に、東と西の山からは、破れんばかりのセミの合唱が聞こえてきた。風太はさすがに暑いと思った。

「それじゃまたいつか」と言ってミドリヒョウモンは飛び立って、いちばん上の棚田の土手にあるキリンソウの花に吸い寄せられるように小さくなっていった。

 風太も、石の上は暑いのでまた少し飛んでみようと思ったところ、風太と同じアキアカネが羽を休めに舞い降りた。

早速、風太に聞いた。「君はいつ羽化したんだい」

風太は、「昨日だよ」と答えた。

「自分は一昨日だから、似たようなものだね。君も感じたと思うけど、晴れた日は暑くてたまらない、もう少ししたらみんなで一緒に高原へ行こう」

「そんな事が出来るのかい」

「自分たちは暑さに弱いんだ、夏の間はここでは暮らしていけない、今のうちにいっぱい食べて、体を鍛えておくといいよ」

「わかった、それじゃまた後で」そう言って風太は暑くなってきた大石から飛び立った。

風太は、 さっきの仲間に言われたとうり、小さな羽虫を追いかけて食べたが、ふとミドリヒョウモンから聞いた、この下の集落の子供たちの話を思い出した。自分たちも、あの子供たちと同じ残酷な生きものだとつくづく思った。風太は日陰の枯れ枝の先に止まって休んで考え込んでしまった。

 すると、さっきから棚田の上で、たくましく飛び回っては羽虫を捕らえていた仲間が、風太を見て近づいてきて、風太の前でホバリングしながら言った。

「あまり休んでいる暇はないよ、今のうちに食べて体力をつけなくちゃ駄目だ」

「自分たちと同じ生き物を食べてしまうのは残酷だよ」と風太は言った。

「そんなこと言ってる場合じゃない、長旅になるからとにかく食べておけ」

「だけど自分には、この羽虫の命を奪う権利はないよ」

「それじゃ聞くけど、水中にいるときもそんなことを考えていたかい」

「そりゃその頃は、そんなことは考えてはいなかったと思うよ」

「自分も同じだ、何も考えずに食べていたよ、あまり考えるな今だって同じだ。ただ、遊び半分に虫を捕ったりしてはいない、だれだって生きていくためには、必ずいろいろなものの命をいただいていかなくちゃいけないんだ、わかったら食べろ」そう言って、その仲間は飛行を楽しむように、棚田の方に旋回して行った。風太は正直なところ、ジョロウグモの巣にかかたときから体力を使っていたので、お腹はぺこぺこだった。

 風太は、体も羽も固まって、空を飛ぶのも少しは上手になったような気もした。他の仲間たちも、棚田の上空の飛行を楽しみながら、小さな羽虫を捕食している。とりわけ、この棚田で目立つのはシオカラトンボだった。羽は少々短めだが、そのおかげですばしこく方向転換をする。たくましい胸部の筋肉は、ものすごいスピードで飛行するのに役立っている。風太も暑いのを我慢しながら、さっきのアキアカネに言われたように、時々小さな羽虫を食べた。

旅立ち

 それから五日がたった。昨日の晩は雨がはげしく降った。風太は東の山の茂ったクマザサの葉の下の茎に掴まって雨をしのいだ。日の出の少し前に雨は上がって、北の方角に見える山々も鮮やかな緑色をして、稜線もはっきり確認できる。

 空はぬけるように青く、遠出には絶好の日だった。その日は、朝から仲間たちが棚田の上空に集まって、何やら相談をしているようだった。風太が日陰の木の枝に止まって休んでいるとき話しかけてきた、たくましい雄が中心になっているようだ、どうやら彼がリーダーのようである。

 近くにいた雌のアキアカネが話しかけてきた。「今日、出発するかどうかということだと思うけれど、もうじき梅雨も開けるので、ここでは生活できないはずだわ、あなた体力に自信はある?」

「先日、あのリーダーに言われて、それでも食べるものは食べたつもりだけど、実際はまだそんな遠くへ行ったことがないから不安もあるよ」

「それは私だって同じよ、長旅は不安だけど、どんなところへ行くのか楽しみだわ」

 そこへ、上空で話し合っていた仲間の一頭が降りてきて、風太とその雌に話しかけてきた。

「あまり暑くならないうちに、もう少ししたら出発するので、少し休んでおくといい、他の仲間に会ったら伝えておいてほしい」

風太たち二頭は、承知して頷くとあの大石まで降りて行った。

 雨上がりだけに、空気はひんやりして気持ちが良かった。風太は「さすがに少しは不安もあるけどやっぱり楽しみだね」「そうね、いよいよね」二頭はそんな話をしながら、まだ冷たくて気持ちの良い大石の上で、棚田の風景を眼にやきつけていた。

 リーダーと他の雄たちが、みごとな編隊を組んで急上昇してから、かなり高いところでホバーリングして下を見下ろしていた。しばらくして、旋回しながら降下して棚田の上から下までくまなく回り、出発の合図が告げられた。リーダーたちの群れは、いちばん下の棚田のほぼ中央にホバリングして四方を見回していた。一頭また一頭と、アキアカネがそこに集まって行った。

 風太たちも、大石から飛び立ってその群れに加わって行った。いちばん上の棚田からも、東を流れる川からも、山に遊びに行っていた仲間も、次々群れに加わった。

 けして、早起きではないミドリヒョウモンも、虫が知らせたように起きて飛びだし、大石の上に止まり風太たちアキアカネの群れに見入っていたが、そのうち風太をみつけると、いちもくさんに舞い上がり八の字をえがいて風太たちの群れの下を飛び回った。

 風太も気が付いて、ヒョウ柄がきれいな貴婦人のそばに、群れから離れて急降下していった。二頭は、いちばん下の棚田の、湧き水のある水路の、すぐ上にある大石に降りたった。

風太は、「これからもっと高いところへ出発するんだ、この棚田が好きだけどこれからもっと暑くなったら、自分たちはここでは暮らせないんだ」

「やっぱりあなたたちはたくましいは、気をつけてね」

「君こそ元気で、クモの巣にはくれぐれも気をつけて」

「そうね、お互い元気で、それじゃまた」

ミドリヒョウモンは、何となく風太にまた会えるような気がした。風太が群れに戻ると、群れは川沿いに降下して行った。オニヤンマが、川に沿って上ったり下ったりしているのがみえた。おそら、く小さな羽虫を捕まえているのだろう。川幅が小さければ小さいほど、それに沿ってほぼ直線的に上ったり下ったりするので、この習性を知っていれば、小学生でも以外と簡単に捕まえることができる。

 アキアカネにとって、オニヤンマは怖いが今日のような長距離の移動は、高度を高くとるので何ということはない。大きさのわりには、オニヤンマは思ったほど高いところは飛ばないからだ。羽を休めるときも普通のトンボのように、枯れ枝の先や石の上、棒の先に静止するのではなくて、木の枝の下などに上を向いてぶら下がるように休んでいるのを見かけますが。同じトンボとは思えないような習性を持っているようです。

 更にしばらく下ると、表面のゴツゴツしたお饅頭のような形をした、見たこともないような大きな石があった。その下には、にはこの辺りでは比較的広い田んぼが何枚かあった。そこに、草刈りをしている人影を風太は確認した。(あの農夫はつい先日、ジョロウグモの巣にかかった自分を助けてくれた人だ、ここもあの人の田んぼだったんだ)と風太は思った。群れから離れて降下していって挨拶をしたいと風太は思ったが、今この群れを自分勝手に離れるわけにはいかない。農夫も風太たちには気が付かずひたすら下を向いて黙々と作業をしている。リーダーは、この田んぼの上を大きくゆっくり旋回した。すると、あちこちからアキアカネが集まってきて風太たちの群れに加わった。

 その下には集落があった。風太は、民家を見るのは今日が始めてでした。黒光りした瓦で覆われた屋根と、大きな建造物はかなり怖いもののように思えた。風太たちの群れは、上から五軒目の家の上を左に大きく旋回しはじめた。

 西側の小高い山と山の間が開けて、さっきの場所とはまた風情の違う田んぼがあった。その田んぼの右側にはホップの畑があって、高い棚にホップの蔓が沢山絡みついていた。風太は後を振り返ると集落から少し離れた、東の山裾に昔話に出てくるような、赤い屋根の小さなお堂があった。ここでもまた別のアキアカネたちが、風太たちの群れに加わっていた。

 田んぼとホップの畑の間には農道があって、ほぼ直線に南西に向かった登りになっていた。風太たちアキアカネの群れは、その上を一気に飛び越えた。すると、その道の両側には大小いくつかの棚田が現れた。右手の奥の山ぎわには、南北に細長い池があり、池の南には、大きな赤松が一本あって池にほどよい日陰が出来ている。池の水はこの南側から田んぼにそそがれていた。

 赤松のおかげで、ほどよい半日陰のところに、ウツボグサが咲いていた。日当たりの良い高い土手のあちこちには、キリンソウやオカトラノオが咲いていた。その花を巡って、ヒョウモンチョウの仲間・ジャノメチョウの仲間やミスジチョウが飛び交っていた。この棚田も、昆虫たちの楽園のようなところだった。更に上の田んぼの山ぎわにサルモモの木が一本あった。

 風太は、生まれ育った棚田も良いところだけれど、ここはまた楽しそうなところだと思った。この棚田まで来る間に、大勢の仲間が風太たちの群れに加わって、群れは大編隊になっていた。   赤松のおかげで、ほどよい日陰のあるその池には、風太たちが止まるにはちょうど良い枯れたヨシが何本も立っていた。

 リーダーはここで、少し休憩することを指示した。風太も早速、池の中の枯れたヨシの先に止まって休むことにした。水面を爽やかな風が吹きおまけに半日陰なので、暑いのが苦手なアキアカネにとっては、最高の休憩地でした。

 しかし、さすがに枯れたヨシの数は多いといっても、群れがこれだけの数になれば、みんながそこに止まれるわけではない。風太は、自分がジョロウグモの巣にかかったとき、あの農夫に助けてもらったときのことをふと思い出した。そこで、しばらく休むとほかの仲間が休めるように、その場所を空けてやった。

 池の下には、細長い田んぼがあってその田んぼの山ぎわには、きれいな清水が湧き出していた。その清水の上には数本のクヌギの木があって、クワガタムシやカブトムシやカナブンが樹液を吸っていた。時々コムラサキやオオスズメバチもやってくる。風太は大きくてしかも強そうな体をした、カブトムシやクワガタムシが樹液を吸っているのをみて驚いた。

 それから風太は、高い赤松の木で鳴いているエゾゼミに興味があった。風太は赤松の幹に沿って上昇して行って、鳴いている雄のエゾゼミをみつけた。さすがにここまで近寄ると、耳が張り裂ける思いがした。エゾゼミは、風太に気がついて鳴くのをやめた。

「君たちはいつも立派な鳴きかたができてうらやましいよ、自分たちは君たちのようにきれいな声で鳴くことはできないからね」風太が言った。

エゾゼミは、「自分たちはこうしている時間は短いんだ、一週間もすればもうこの世にはいないよ、今朝だって何頭も仲間が亡くなったよ、もっとも、土の中にいる時間は驚くほど長いけどね」

 風太は、「それでも一度でいいから、君たちみたいにきれいな声で鳴いてみたいよ。ところで君たちは何を食べているんだい」

「自分たちは、このストローのような口で樹液を吸って生きているんだ。幼虫のときも同じなんだけど、幼虫のときは土の中にいるから、木の根から吸っているんだけどね」

風太は、「僕たちは、ほかの昆虫の命をもらって生きているんだ、君たちは僕たちのように残酷じゃないから幸せだと思うよ」

「そんなことはないよ、自分たちだって植物のもってるものを横取りしているんだから、みんな同じようなものだと思うけどね」

「いや決定的に違うのは、相手の命を奪ってしまうかどうかということだけど、君たちはそこまではしていないはずだよ」

「まあそう深く考えないほうがいいよ、君たちだって無駄に相手を殺しているわけではないし、肉食の動物もいれば草食の動物もいる、自分たちみたいに樹液だけ吸うものもいれば、花の蜜だけもらっているものもいる、みんな生まれつきで仕方のないことだよ、大事なのは、自分たちの食べるものに感謝する気持ちだと思うけどね」

「生まれつきだと言われれば仕方ないかもしれないけど、時々自分がいやになるときがあるんだ、それにヒョウモンチョウのような貴婦人はきれいで、自分たちの目を楽しませてくれるし、君たちはいつも立派な声で鳴いて、季節を感じさせてくれているけど、自分たちは目立つわけでもなければ、きれいな声で鳴くこともできないよ」

「いやいやそれは考えすぎだよ、君たちトンボの仲間がいなかったら、この棚田も殺風景で仕方ないよ」

 風太に、一頭のアキアカネが近づいてきた。そろそろ出発するので、集合しろとの合図であった。風太は、エゾゼミに「今日はありがとう、だいぶ気が楽になったよ、それじゃまた」

「あまり悩まないで元気に生きていこう、君とももう会えないと思うけどね。自分はせいぜいあと三日生きていられるかどうかだからね。羽化したときから爺さんみたいなもんだよ、けれど、こんな天国のようなところに生まれてくることができたんだから、本当にありがたいと思ってるんだ、それじゃ気をつけて」

 風太は、時間があればこのエゾゼミともっと話をしたいと思ったが、これも仕方のないことだと思った。そして急いで集合している群れに戻った。この棚田でも、たくさんのアキアカネたちが風太たちの群れに加わったので、最初に風太たちが棚田を出発したときの五倍以上の大編隊になっていた。

こうして、仲間が増えた風太たちアキアカネの群れは、農道に沿って上って行った。農道の右手のフキが、青々と大きな葉を広げていた。キンポウゲの黄色い花、がところどころに咲いていた。いちばん上の田んぼを過ぎると、農道は山道に変わった。

 この山道の、右手の尾根にも平行する山道が確認できた。そして徐々にこの二本の道は近づいているようだった。道は左に曲がってすぐに右に曲がった、道の脇にはツリガネニンジンのうす紫の花が風にゆれていた。そのまままっすぐになだらかに上ると小さな峠になっていて、峠のわずか手前で右手の尾根づたいの山道と一緒になっていた。

二本の道が交わる少し手前に、大きなカラマツの木が三本あって、その内でもいちばん大きい真ん中の木は、この世のものとは思えないような有様だった。木の先端はへし折れていて、そこから大きくらせんを描いて帯状に樹皮が剥がれている。

 とても、人や動物の仕業ではないことは誰が見ても分かる。死神や悪魔と呼ばれるものがいたら、こんなこともできるのかも知れないと風太は思った。それにしても恐ろしい光景だ、この世には、こんなことができる化け物のようなものがいるのだろうか、風太は、群れから少し遅れてまじまじと、このカラマツの大木を眺めていた。

高原へ

 小さな峠で、風太たちの群れは山道沿いに下った。道の両脇はきれいな赤土で、ドヨウギノコまたはゲンスイとも呼ばれる、うす紫やら水色またはうぐいす色に色を変える、カワリハツというキノコがきれいな傘を広げていた。

 道はなだらかに左に曲がって、また右に曲がったところで、急に視界が開けて田んぼがたくさんあった。左手奥の広い丘は、一面が桑畑だった。ここには、風太たちと同じころ羽化したと思われるアキアカネはいなかった。たぶん、今日すでに集団で旅立ったのだろうと思う。コシアキトンボやシオカラトンボ・ハラビロトンボの姿があった。田んぼも棚田ではなく、平らで四角く区切られていた。どうやら水も豊富なようである。

 風太たちの群れは、この農地を西に横切って、西の山ぎわの田んぼの上に出た、そのまま南に進むと前方にため池が見えてきた。この下の田んぼをう潤しているのは、このため池にちがいなかった。高い土手には赤松が二本あって、その左の木には大きいアオサギが身動きもせず、水面を見つめていた。おそらく、獲物にする魚をみつけているところだろう。風太たちはため池の上まできた。水面には幾匹かのマガンやカイツブリの親子の姿もあった。

 風太たちの群れより下には、シオカラトンボやコシアキトンボの他にギンヤンマやコヤマトンボが池の上を飛んでいた。オニヤンマは、池より西側の道を行ったり来たりしている。彼らは、ふだんあまり高いところは飛ばないが、お腹がすいているときだけ、風太たちのような小型のトンボをみつけると、猛スピードで急上昇してくることがあるので、気をつけなければいけない。

 池の上空からは、あの優美な裾野の活火山かきれいに見えた。水面にはコブナの群れがいくつか見える。池の西側の土手ぎわには、ミソハギの細かい赤紫の花が咲いていた。

 池の上空を過ぎる頃、オニヤンマが風太達の群れの後方に急上昇して襲いかかってきた。一頭の雌とオニヤンマは巴戦になっていた。近くにいた雄たちは、オニヤンマめがけて突進した。風太も思いきりとびついて、大顎を開けてオニヤンマの腹部に噛みついた。一瞬オニヤンマの動きが止まって、少し降下したと思うと慌てて、もといた農道のほうに逃げていった。襲われた雌にけがはなかったが、よく見ると出発前に話しかけてきた一頭の雌だった。

「今日はありがとう、あなたは命の恩人だわ」

風太は、「いやみんな同じことだよ、いつ立場が逆になるかわからないから」

「でも助かったは、あの大きな顎で噛まれていたらひとたまりもなかったは、あなたはとても勇敢なアキアカネよ」

「とにかくケガがなくてなによりさ、さあ行こう」

「そうね・・・」雌のアキアカネは、同じ棚田で生まれた同士のこの群れにいることが、とても心強い気がした。

 池の脇の農道は、少し急なる手前には両側に畑があって、のどかな雰囲気があった。そこから農道は少し急坂になって、左に曲がって下ると南北に伸びた道路につながっていた。この農道のいちばん高いところの来たとき、民家が点々と見えて平で広い開拓地のようだった。

風太たちの群れは、ここを南に貫くように進んだ。この開拓地の上空に入ったとき、南にはひときは高い山々が連なっていた。このいちばん右には、鏡餅のような形をした山があった。一度見たら忘れることのない、かなり特徴のある山だと風太は思った。

 この開拓地には、桑畑や牧草畑・馬鈴薯・大根・トウモロコシや家畜用のモロコシなどの畑があって、牧草畑には牛の姿があった。風太は初めてこんな大きな動物を見たが、ただ恐ろしさは少しも感じなかった。のんびり草を食べてている姿は。どこか癒される気さえした。風太は、のどかで良いところだと思った。それにしても見れば見るほど不思議な形の開拓地である。いちばん北方がカカトで、南に向かって徐々に扇を少し広げたような、まるで巨人の足の形のようである。しかも、ツチフマズの痕にも見えるこんもりとした丘まである。

 風太たちの群れは、開拓地の南部で道路沿いにやや左に少し下った。その前方には、あまり大きくはない人造湖がみえた。手前には、テニスコートや野球のグランドがあった。風太たちは湖水を東に横切ると、北から上ってきているかなり広い道路の上空に出た。リーダーはこの道にそって上を目指すことにした。カラマツ林の中には別荘がいくつかあった。

 しばらく進むと、道は左に右にカーブしながら上って行くと、風が爽やかで気持ちがよかった。たぶん標高は徐々に高くなっていると思われる。道路の脇には、風太が今まで見たことがないヤマオダマキのうす黄色の花が風にゆれていた。

 北西に視界が開けると、まだ雪の残る今までに見たことのない、険しい山々の姿がはるか遠くに見えた。それに、風太のいた棚田から北方に見えた活火山に連なる峰々よりも更に標高も高いようで、スケールもお驚くほど大きかった。どちらかというと、人を寄せ付けない男性的なイメージがあった。それと比較すると、北方に見えるきれいな裾野を広げた活火山は人を包み込む女性的なやさしいイメージであった。

 空気がこの高原特有の良い臭いがした。木々も植林されたものではなくて、この高原に永い年月自生しているものに違いなかった。年数の経ったカラマツには、うす緑色の長いヒゲのような、サルオガセがたくさんからみついていた。

 暑いのが苦手なアキアカネは、長旅で少々疲れたものの高原の涼しさで、風太たちも元気が蘇った。更に進むと別荘地があった。この別荘地を過ぎると、針葉樹もカラマツの他にシラビソ・モミ・コメツガが目立つようになってきた。林道は、右に左にカーブしながら上ると平らになって視界が開けた。合掌したように尖った赤い屋根の山小屋と、売店やトイレがあった。駐車場には、何台か車が停っていてリュックを背負った人が何人かいた。ここは峠で、登山口になっているようだった。

 目の前を見ると、あの開拓地から南西に見えた鏡餅のような山が目前に迫ったいた。近くで見るとかなり形は違うが、鏡餅の上の部分は後方にあって、大きな岩が重なり合って、目の前に迫って迫力があった。

 登山者は、ここからあの山を目指して登っているようである。左手にも登山道があって、緩やかな上りにになっていて、その先は、立木は全くな平でいきれいな山頂があった。この高原には、別の場所から来たアキアカネたちもたくさんいた。風太たちも長旅で疲れていたので、リーダーの合図でみんなそれぞれに、適当な石をみつけて一休みした。鳥には注意しなければいけないが、どうやら他の外敵は少ないようだし、風太たちが休むのに必要な、木の枝や石はたくさんあった。

落雷

 風太たちは、この広い高原で遊ぶのが楽しかった。あの鏡餅のような山の頂上にも行ってみた。途中のやや平らなところには山小屋があって、一気に頂上を目指すと木々が徐々に背の低いものだけになっていた。空気はひんやりして、まだ雪が残っていた。頂上にも山小屋があって、神社もあった。天気の良い日は、三六〇度の大パノラマを見ることができた。

 南には、見事な裾野をのばした独立峰がみえた。その手前はこの峰から東に連なる山々で、どうやらいちばん南に位置する峰が最高峰のようである。北西にはこの高原に来る途中に見えた、残雪もくっきりとした険しい峰々が続いていた。中でも目を引くのは、左手からそそり立つ四つの峰と、それに続く槍の穂先のような峰である。北東には風太たちのいた棚田から見えた活火山が遥かに小さく見えた。改めて風太は、この小さな体で遠くまで来たものだと感じた。高原と反対側の眼下を見ると、大きな湖が見えた。湖の周りには、大きな建物や民家もたくさんあった。その右手には少し離れて湖水が二つあった。風太はとりわけ、この峰から南に連なる山々と、棚田から見える活火山から連なる峰々と、北西に見える険しい峰々が好きだった。

 さっきまでは、雲ひとつない快晴だったのに、急に雲がかかってきて視界が悪くなってきた。山の天気は変わりやすいので、注意しなければいけない、ここでは雨になったら身を隠す場所が少ないので、風太は、近くにいた仲間たちに声をかけて、大急ぎで登山口のある峠の方に急降下していったが、急に辺りは暗くなって、遠くで雷が鳴っていた。

 大粒の雨が、ところどころに叩きつけるように落ちてきた。風太たちは、高いカラマツのあるところまで下りてきていたので、みんなその下の深いクマザサの下に身を隠した。雨はすっかり激しくなって、雷の音もだんだんと近づいてきているようだった。稲光がするとしばらくして、生木を引き裂くような音とともに地響きがした。

 風太は、湧き水や田んぼの中にいるときも、雷とともに雨が勢いよく降ってきたときのことは覚えているが、その頃はまだ羽化する前のヤゴだったので、芹の間とか稲の株に身を寄せていれば、水の中ではそれほど怖いとは思わなかったが、こうして成虫になって肌で感じるとそれは恐ろしい光景だった。稲光が縦に光るとほぼ同時に、ものすごい音とともに地響きがした。風太は、もう少しあの峰から降りるのが遅かったら、と思うとゾッとした。

 今度は、かなり近くのカラマツの木のあたりで、大きな卵型のようなピンク色の光とともに、ドカーンというけたたましい音と、地響きがした。何やら重いものを、思いきり地上に叩きつけたような衝撃だった。風太は、一瞬気を失ったような気がした。もうだめかと思ったが生きていた。

 しかし、だんだん雷も遠ざかって、雨もすっかり上がり、真っ暗だった空は徐々に明るくなって、日がさしてきた。南東に見える山に、日が当たると黄色い色に染まった。風太は羽がびしょ濡れだったので、笹の葉のすき間からしばらく、この不思議な光景を眺めていた。

 しばらくして、仲間たちが笹薮から、陽の当たるところに移動して行ったので、風太も元気を取り戻して、笹薮から飛び出した。風太はさっき卵型の光とともに、大きな音のしたカラマツの方を見ると、ひときは高いカラマツの木の先端がへし折れて、そこから下に向かって、帯状にらせんを描いて樹皮が剥がれている。

 風太は、これだと思った。ここに来る途中の山道と山道が交わる間にあった、大きなカラマツの木と全く同じ状態だった。松ヤニ臭い匂いと、こげ臭い匂いが鼻を突いた。あの卵型の光の仕業に違いない、それにしても、こんな恐ろしいことが一瞬のうちにできるとは、なんという底知れないものなんだろうと、風太は思った。

 たぶん、この木の下あたりにいたら、ひとたまりもなかったに違いないと思った。しばらく眺めていたが、ふと我にかえって仲間たちと一緒に、陽だまりに行って冷えた体を温めることにした。

高原の仲間たち

 あの夕立の後、何頭かの仲間の姿が見えなかった。夕立に台風、その度に何頭かの仲間が帰ってこなかった。この楽園とも思える高原だが、自然の力は怖い、風太たちは、いつも死と隣り合わせにいることも自覚しなければいけなかった。

しかし、夕立や台風の度に皆、怖い思いもしたけれど、風太たちにとってこの高原は、第二の故郷とも言える楽園のようなところだった。梅雨が開けて、気持ちのいい晴天が続いた。草原には、アカバナシモツケソウやクガイソウ・ヤナギランが咲き始めた。

 湿地には、たぶん棚田では咲き終わっているだろう、ウツボグサが咲いていた。峠から東にある、頂上が平らな丘のような山を超えると、眼下には二つの大きな池があった。手前の池には魚もいて、キャンプをしている人達と、ルリボシヤンマの姿があった。

 奥の池は、手前の池とは全く雰囲気が違って、水は底まで見えるほど澄んでいて、小さいサンショウウオの姿がはっきり見えた。手前の池と奥の池の間には、何ともこの景色にあつらえたような風情のある山小屋があった、その山小屋の前には、登山者が休めるように広場があって、その広場には丸太で作った、テーブルや腰掛けがあった。その広場の中程にも登山道があって、お地蔵さんが一体据えられていた。

 この池から、わずか西にも池があった。この二つの池よりは小さくて、底もかなり浅いようで、水のないところは亀の甲羅のようなひび割れがみえた。それにしても神秘的なところである。

 さっきの二つの池と、この池は登山道でつながっていて、この池から南に一気に登っている登山道もあった。たぶんこの真上の高い頂まで続いている登山道に違いないが、この池から西にも道があった。しばらくは平らに進むが、すぐに緩やかな下りになる。

 しばらく下ると、野生動物の糞に、ベニヒカゲが三頭群がっていた。地味なジャノメチョウの仲間では、おそらくクモマベニヒカゲと並ぶきれいな蝶だった。ジャノメの周りに朱の色をあしらった、少々小型の妖精のような彼女たちが、動物の糞に群がるとは意外な光景だった。

 風太は、登山道の上を行き来する仲間たちをやり過ごし、ベニヒカゲたちの近くの石の上で休むことにした。登山道のわきには、ツヤツヤした小さな丸い葉をつけたコケモモが小さな花を咲かせていた。

 風太は、ベニヒカゲに聞いてみた。「ねえその糞は美味しいの」

「あなたたちには、動物の糞にしか見えないと思うけど、私たちにとってはこんなご馳走はないわ」

「みんなそれぞれ好きなものが違うんだね」

「この糞には美味しい木の実がいっぱいで、とっても甘いの」

「そうだよね糞だなんて言っちゃいけなかったね」

「それは本当だから気にしないけど、私たちはときには登山者の汗もいただくこともあるわ」

「自分たちは生まれつき、自分たちより小さい小動物しか食べないけど、あんなに強そうなクワガタやカブトムシは樹液が好きなんだから、少し驚きだったけどね」

「それにここでは、よくシデムシに行き会うけど、彼らは森のお掃除屋さんのようだわ」

「自分たちにが見ればそう思うけど、彼らにとってはご馳走のはずだと思うよ」

「それはそうよ」

「それに彼らは偉いよ、自分たちとは違って生きている動物を襲ったりしないからね」

「それはしかたのないことよ、みんな食べるものが違うんだから、ここでは時々オコジョが、小動物をくわえて行くのを見ることがあるけど、彼女たちだって生きるためには必死のはずよ、それから徒に動物を殺すわけではないしね」

「それはそうだね。それから、あなたたちは遠くには行かないの」

「私たちはここで生まれて、ここで死んでいくの、長旅はしたことはないわ。それにこの高原がいちばん好きなの、ほかに行ったことがないのに、そういうのも変だと思うけど」

「自分たちは、小さな棚田で生まれてここまで来たけど、ここは本当に別世界だと思うよ、とくにこの高原には特有な臭いがあって、それが何ともいえない良い臭いなんだ」

「同じくらいの高さの所には同じ臭いがあるのか、それとも全く別の臭いがあるのか分からないけど、私もこの高原の臭いが好き」

「自分と同じことを感じていた仲間がいて嬉しいよ、日の高いうちにもうひと回りしてきたいから、それじゃまた」

「はい、それじゃまた、気をつけて」

 季節は移ろいで、高原の仲間たちの顔ぶれも違ってきた。あのときのベニヒカゲの姿はなく、クジャクチョウとアカタテハによく会うようになった。花も咲いている種類が変わりました。タカネナデシコやワレモコウ・ミヤマアキノキリンソウ・ノアザミなどが沢山咲いています。

 中でも、淡い紫色のマツムシソウが風にゆれている姿は、夏の終わりを告げているような気がします。朝晩はすっかり寒い程になりました。低いところで目立たない花を咲かせていた、コケモモが赤くてかわいい実をつけていました。シラタマノキも白い実をつけて風にふわふわゆれています。

 気が付くと、風太たちアキアカネは、胸部と腹部の上半分が赤くなっていた。暑いのが苦手な風太たちアキアカネもそろそろこの高原から帰る時期が近づいてきたようです。

 春、棚田にたくさんいたウスバシロチョウが春の風の妖精ならば、秋の風の妖精のようなアサギマダラがヒヨドリバナの花に群がっていました。風太はそのうちの一頭の近くに行って、ホバリングしながら聞いてみた。

 「君たちは最近みかけるようになったけど、ここで羽化したの」

「いいえ私たちは遠い南の島で羽化して、何日もかけてこの高原にやってきたんです」

「へーそんなに遠いところからきたんだ、その小さな体で何日もかけてね」

「そう、体は小さいけど、風を上手く利用するの、海の上も飛んだわ」

「海、それはどんなところなの」

「見渡す限り広くて青い水で満たされていて、とてもきれいなところだけど羽を休める場所がないから、乗る風の方向を間違えるととんでもないことになってしまうの、そこで命を落とす仲間もたくさんいるわ」

「それは大変な苦労をしてきてるんだね。いつも死と隣り合わせなんだね」

「それは仕方のないことだけど、みんな覚悟はしているようね。海の上では、時々あなたたちと同じトンボにも出会ったわ、ただ、あなたたちとは種類は違うようだったけど」

「自分も、二度も死にそうな思いをしたけどね」

「リスクの大きさは、みなそれぞれ違うかも知れないけど、いつでも死と隣り合わせということは言えるようね」

「本当にそうだと思うよ、いつも覚悟していないといけないことかも知れない、ここに来る途中の棚田で、エゾゼミに行き会ったんだけど、彼らは成虫になって一週間で死んでしまうそうなんだ。彼はそのことをけして嘆いてはいなかった。むしろその棚田に生まれて来たことをありがたく思っていたくらいでね、でも死ぬってどんなことなんだろうか」

「海を渡る途中で死んだ仲間もたくさんいたけど、海に落ちると二度と動くことはなくて、そのうち波に揉まれて海の藻くずとなって、見えなくなってしまったわ。もうその仲間の一頭は何もかもがそこで終わりのようなものに思えたの」

「本当にそうだろうか、自分は時々はきりした感覚というわけではないけど、過去にも同じことが起きたような、同じ場面を見たような、初めて嗅いだ臭いが妙に懐かしかったりすることがあるんだけど、まあそれがどうと言うわけではないんだけど、はっきり言えなくて頭がモヤモヤしてきた」

「何となくわかるような気もするけど、大変な思いをして海を渡った先に、こんなすばらしいところがあるんだから、それだけ考えても生まれ変わったような気がするわ」

「そうだね、実際生まれ変わるかどうかは分からないけど、自分たちもそういう感覚はわかるようなきがする。話は違うけど、最初からこの高原を目指してきたの」

「私たちはこの花が好きで、この花の香りに誘われてたどり着いたのが、この高原だったんです」

「自分たちはもうじき、生まれた棚田に帰らなくてはならないけど、君たちはまだここにいるの」

「いいえこの花ももうじき終わりになるから、また、次の花を求めて長旅をするの」

「それは大変だね、自分達とはずいぶん生き方が違うようだけど、どうか気をつけて」

「どうもありがとう、あなたもお元気で・・・」蝶の中では大型の方で、アゲハチョウのように派手ではないが、清楚で気品のある彼女達がそんな長旅をする体力持っていることに、風太はとても驚いて、かなりの時間アサギマダラたちを眺めていた。

再会

 九月も下旬、この高原の朝晩はすっかり寒いほどになった。白樺や柳の木の高いところには、ヌメリスギタケモドキという大きい笠のキノコが、かたまって生えているのをみかけるようになった。路傍のきれいなところには、リコボウのきれいなぬめりのある笠が大小いくつも並んでいます。

 風太たちアキアカネは、いよいよこの高原ともお別れしなければなりません。日が昇り、気温も上がってきたころ、リーダーから集合の合図が出ました。風太は、この高原の臭いが大好きでした。風太はリーダーに、一度この高原の上を旋回してから帰りたいとお願いした。リーダーも仲間たちも大賛成で、みんなひときは高く旋回した。合掌したように尖った赤い屋根の山小屋と売店・トイレがみるみる小さくなっていった。その代わり、鏡餅のような山の中腹の平地にある小屋も、山頂近くにある小屋もよく見えた。天気が良いので、あちこちに登山者の姿がみえる。

 峠の上空から、半時計回りに旋回すると峠から南に下って、いちばん手前の池までつながる登山道がよく見えた。まだ暑い時期、ベニヒカゲに行き会ったのはこの道だった。前方には、その神秘的な三つの池がきれいに見えた。いちばん手前の、比較的小さい池の右手の峰の頂上まではっきり見えた。三つの池の、更に南にも神秘的な池がいくつか見えた。それぞれが個性的で、独特な雰囲気を漂わせている。ここは、本当に天国のようなところだと風太は思った。

 風太たちアキアカネの群れは、この三つの池の上空から峠を東に登った、立木のない平らな山の峰に向かった。高度を下げてこのなだらかな稜線の三メートルほど上を飛んだ。この峰はひときはこの高原特有のあの良い臭いがした。登山道の両脇には、コケモモがたくさんあって、実は赤く色づいていた。

 風太は、この高原の中でも陽あたりの良い、この峰が特に好きだった。風太は稜線の登山道すれすれに飛んで、大好きなこの高原の臭いを思いきり吸い込んだ。登山道に沿って、峠まで下る途中は、草原と大小の石とモミの木がきれいだった。群れはしばらく登山口の峠でホバリングしていたが、道沿いに別荘地の方角へと下り始めた。

 別荘地を過ぎて、しばらく下ると風太の好きな、あの高原の臭いはなくなっていた。注意してみると、この辺りの土は黄土色で小石まじりだった。今までいたあの高原の黒い土とは全く違うようだった。やはり、あの特有の良い臭いはあの土なのでは、と風太は思った。

 広い林道沿いの、林の中で蔓がからまったところを見ると、マタタビの実やサルナシの実が下がっていた。更に下ると、すぐにあの人造湖がみえてきた。この人造湖を過ぎると、あの巨人の足の形をした、開拓地の上空だった。畑の作物の様子もだいぶ変わっていて、トウモロコシは収穫を終えて、枯れた幹だけが残されていたし、家畜用のモロコシは、人の背丈の二倍ほどの高さになっていた。

 この開拓地にも、たくさんのトンボの姿があった。この、のどかな開拓地でも、少し遊んで行きたい思いもあったが、群れの仲間たちは今はとりあえず、懐かしい棚田に帰りたかった。

 開拓地の上空からは、あの活火山が今日もきれいに見えた。あの高原からは、遥かに小さく見えただけだったが、見慣れた堂々とした形でそびえていた。開拓地より北の外れにあるため池の上空に来たが、あの頃いたギンヤンマやオニヤンマ・シオカラトンボ達の姿はなく、風太たちより先に帰ったアキアカネやナツアカネ・ミヤマアカネそして何といても集団で行動して、繁殖力も大盛なウスバキトンボが圧倒的に多く、空を埋め尽くすほどだった。

 水鳥の数は、行きの時より増えていてカイツブリの姿はなかったが、その代わり雌雄仲良しの見事なオシドリのペアが何組かいた。ため池の下の田んぼでは、稲穂が垂れて黄金色に変わっていた。風太たちの群れは、林道沿いにあの小さな峠を目指した。

 この峠から、あの見るも恐ろしいカラマツの大木が見えた。やはり同じだった。あの高原に行って間もなくしてから遭遇した、夕立で大きな卵型の光とけたたましい音と同時に一瞬にして、あの大木の皮を帯状に剥ぎ取ってしまうようなものはいったい何なのだろう。風太はあの卵型の光の中に、とてつもないバケモノがいるのだと改めて思った。

 小さな峠を過ぎて、林道沿いに下ると左手に田んぼが見えた。ここでもやはり稲穂が垂れて、まぶしいばかりの黄金色に輝いていた。その反対側の山際の少し高いところには、あのサルモモの木には黒い実が熟していた。

 今はもう、あのエゾゼミたちの声はしなかった。みんな短い成虫の時期を、一生懸命生きたのに違いないと風太は思った。咲いている花もすべてが違っていた、アザミにフジバカマそして、ノコンギクが何ヶ所かの群落で咲いていた。ツリフネソウの花にはベニスズメがホバリングしながら、器用にこの花の蜜を吸っていた。あの清水の上のクヌギの木にも虫たちの姿はなかった。ここの棚田生まれのアキアカネ達とはここで別れた。

 この下の田んぼまで下ると、左手のホップの棚には、花が重たいほど咲いていた。正面の東の山すそには、あの昔ばなしに出てくるような赤い屋根のお堂が見えた。風太たちの群れはこころなしか、我先にと言わんばかりに速度を上げていた。

 あの高原も、天国のようなところだったが、みんな生まれ故郷も大好きなようである。民家の上を旋回して、風太の命の恩人の下の田んぼに出た。ここでも稲穂はたわわに実り、収穫を待つばかりになっていた。この続きの最後の南側の田んぼの上には、あのおまんじゅうのような形をした大石が、相変わらずどっしりと座っていた。

ここまで来ればもう少しだ、風太は何をおいても、昇太とあのミドリヒョウモンの貴婦人のことが気になって仕方がなかった。元気でいるだろうか、あの夕立のときの落雷や台風で、何頭かの仲間が帰って来なかったことを思い出した。

 そして、もうみんなの生まれた棚田が見えてきた。東に高い山、西にはヒョウタンを縦に割って伏せたような山、あの湧き水の水路の上にある、みんなの休み場になっている大石もあった。何もかもが懐かしかった。ここでも稲穂は見事に実っていた。ここでリーダーも、役目を終えてほっとしていた。風太は、あの大石で長旅で疲れた体を休めてから、また、高く飛び立ち、上空からあの貴婦人をさがしたが、ウラギンヒョウモンの姿はなかった。

 しかし、顔から胸部から腹部の上半分まで真っ赤なナツアカネは、風太たちアキアカネとは違って区別がつくので、みつけるはじから声をかけてみたが昇太ではなかった。しかも、もう既にナツアカネの個体数自体が少なくなっていた。

 あの大石の上でひと休みして、田んぼの中を見るとナツアカネの亡骸が、地割れした地面に貼り付くように落ちていた。昇太も、もう既に死んでしまったのかも知れない、しかし、風太は羽化する晩、眠っている昇太を見て、また会えるような不思議な安心感があったので、昇太を起こさないことにしたのは、昨日のことのように覚えている。

 今日は、既に日が陰ろうとしているし、風太たちはぐったり疲れていた。今の時期は、日が陰ると一気に気温が下がるので、体が冷えて飛べなくならないうちに、夜露をしのげる場所を探さなければいけない。風太は、こんもりと茂って実がパックリと口を開けた、甘味な臭のするアケビのドームを見つけて、今夜はここで休むことにした。

 風太は、疲れきっていてぐっすり眠ったので、あっという間に朝がきたのだが、まだ、辺りは霧がたちこめていた。次第に霧も晴れて、東の山の峰より日が差して、抜けるような青空が広がった。気温も徐々に上がり始て、風太の湿った羽も乾いてきたし、何より嘘のように疲れがなくなっていた。

風太は、陽あたりの良いところに枯れ枝を見つけて体を温めた。風太は、かなり長い時間この枯れ枝にとまって休んでいた。仲間のアキアカネが何頭か棚田の上を飛んでいたが、ナツアカネの姿はなかった。

 すると、何頭かのトンボが川沿いに下って来るのがわかった。まだ離れているので、種類までは確認できないが、風太は急いでその群れに向かって飛び立った。お互いの距離がつまると、風太たちとは違って、顔も胸部もアキアカネより、ひときは赤いトンボであることがわかった。群れの数は七頭であった、風太はすれ違いざまに「昇太」と大声を出した。

 すると、その内の一頭が風太の方に向きを変えて近づいてきた。その一頭が「風太かい」と嬉しそうに大声をあげた。二頭は驚いたのと、嬉しいのとで、しばらく空中で向き合ったままお互いを見つめたいたが、二頭は絡み合うようにして猛スピードで、らせんを描きながら垂直に上空へ飛んで行ったかと思うと、今度は、垂直に急降下して、地面に衝突するかと思うほど降下して、また空中で向き合った。二頭はそれからあの大石の上に羽を休めた。

 風太が先に聞いた。「どこへ行ってたんだい」

昇太は、「ここは陽が陰ると急に寒くなるから、この山の上の林道ぞいにある陽だまりに行ってたんだ風太たちは」

「ここから遥かに遠い高原なんだ」

「どうしてそんな遠くまで行ったんだい」

「あの時期は既に暑くて、ここでは生活できなかったんだ自分たちは暑いのが苦手のようだ、それに、きれいな花があって、神秘的な池がいくつもあって素晴らしいところだったよ」

「自分たちは寒いのが苦手のようだ、それに、この棚田は自分たちにとっては楽園さ、こんな素晴らしいところはないよ、でも、風太の見てきた高原も行ってみたいとは思うけどね」

「いや自分たちもそうだよ。暑いのさえしのげればずっとここにいたいんだ、わざわざ怖い思いをして遠くに行くこともないし、何しろ生まれ故郷だからね」

「そうだね、とにかくお互い元気で何よりさ」

「それから、ヒョウ柄の貴婦人を見なかったかい」

「ヒョウ柄の蝶も自分たちのいた陽だまりの花に集まっていたよ」

「今日も行くの」

「西に陽が傾いたころは、あそこが暖かいからね」

「自分も連れてってくれないかい」

「もとろんさ一緒に行こう。今日は一日風太と一緒にいたいと思っていたんだ。ただ、ここのところの朝晩の寒さで、だいぶ仲間も死んでいったよ、自分ももう時間の問題だ、やはり自分達は寒さに弱いようだ。それでもまだ上手く寒さをしのいできた方だと思うけど」

「自分たちもそうは変わらないよ、暑さに弱いだけで寒さに強いわけではない、それに、長旅のせいもあってか、羽も傷んできたし、筋肉も思うように動かなくなってきたような気がするよ」

「日もだいぶ高くなってきたから、そろそろ行こうか」

「よし、行こう」

 風太と昇太は、川ぞいに高度を保って上った。しばらくしてから、昇太は左手の急な斜面を一気に上昇すると、きれいな林道の陽だまりに出た。何頭かの、ナツアカネやアキアカネの姿があった。道路脇には、背の低いセンボンヤリの地味な花に、鱗粉も剥がれてヒョウ柄も色あせたミドリヒョウモンが、残り少ない蜜を吸っていた。風太はもしやと思って、近くの地面に降りてみた。

ミドリヒョウモンは風太には気づいたけれど、とくに気にした様子もなく蜜を吸い続けていた。風太は、(そう簡単に行き会えるはずもないか、それにあの貴婦人だって生きているとは限らない)とも思ったがこの鱗粉も剥がれて、羽もところどころ裂けている蝶を見て、彼女達のたくましさを感じたのと同時に、いや、まだ生きているという予感がした。

 それから、昇太は林道沿いにさらに南西に上ると、急に開けた場所に出た。トンボの姿も多かったが、蝶の姿も確認できた。モリアザミの群落には、テングチョウが二頭いた。花も終わりかけたフジバカマには、やはり鱗粉も剥がれて羽も傷んだ、ミドリヒョウモンが三頭いた。

 風太は、急いでその三頭の近くでホバリングして、三頭の顔をのぞき込むように見ていると、その内の一頭が、突然花から飛び立ち、大喜びした様子で八の字を描くように、風太の周りを飛び始めた。それから、風太を案内するように陽あたりの良い地面に降りて、羽を開いたり閉じたりしていた。風太も近くに降りて顔を向き合わせた、間違いなくあの貴婦人だった。

 ミドリヒョウモンは、「あなただったの、よくここに気づいたわね驚いたわほんとに」

「いやいや気づいたわけではないよ、彼に案内してもらったのさ、それに元気でいるような気もしたしね」

「それにしても嬉しいは、あなたたちは集団で出かけて行ったけど、もう帰って来ないかと思っていました」

「それにしても元気で何より」

「そうでもないわ、もう羽はボロボロだし鱗粉も剥がれて色あせてしまって、恥ずかしいほどです。」

「いやいやそんなことはないよ、かえってたくましさを感じるよ、必死で生きようとしている姿が美しいと思う」

「まだ花があるうちは頑張れるような気もするけど、ここのところ朝晩寒くなってきたので、さすがに辛いときもあるけど、ここは暖かくて気持ちのいいところだわ」

「そうだねここはいいところだ・・・」風太と昇太に貴婦人は、ゆっくり秋の陽を全身に浴びて楽しんだ。

 ここには、風太たちとテングチョウのほかに蜂の種類もたくさん集まって来ていた。それから驚いたことに、西の方角を見ると木立の向こうには、あの高原に行くとき通った開拓地がすぐそこに見えた。日が西に傾きかけたころ、昇太は、この辺りで暖かい茂みをみつけて泊まっていくというのだが、風太は棚田に帰りたかったので、その日、昇太とはそこで別れた。

 次の日も、昇太は仲間たちと一緒に川に沿って棚田に下ってきた。しかし、七頭いた仲間は五頭に減っていた。風太と昇太は、昨日の林道沿いの陽だまりでいっぱい遊んだり、日光浴を楽しんでいた。回りの広葉樹は、赤や黄色に染まって秋の深まりを感じる。林道の開けた陽だまりから、開拓地の牧草畑にも行ってみた。広くて気持ちの良いところだった。あの、ため池の少し上の開拓地に出る手前の農地にも行ってみた。ここも何故だか心が落ち着く気がした。それに、くぼ地のため強い風が吹かずに、今日のように天気が良い日は陽だまりで暖かかった。風太と昇太は毎日、お互いの無事を確かめながら、陽だまりの散策を楽しんでいた。

そんなある日、隣にいた昇太が真剣な顔になって、風太たちの行っていた高原に行ってみたいと言い出した。風太も帰ったばかりだが、今いるところが、あの開拓地ということもあってか、はるか昔のような気がして何だか懐かしくなった。しかし、(今はあの高原で泊まりは無理だ、夜は寒くて死んでしまう。天気の良い日に行って、その日に帰ってこなくてはいけない、大丈夫まだ行ける)と風太は思った。それに、ナツアカネ達の数はかなり少なくなっているようだ、風太は自分だって、いつ死んでしまうか分からないから、昇太の願いを叶えてあげたいと思った。

 十月上旬、朝の棚田は稲穂が一段と黄金色に輝いて、まぶしいほどだった。風太と昇太は、いつものように棚田で落ち合った。天気は良くて、風も穏やかだった。いちばん下の田んぼの湧き水の水路の上にある、あの大石で二頭は羽を休めながら話した。

風太が「今日はあの高原へ行ってみようか」

「え、ほんとかい」

「今日は天気も良いし、風も穏やかだから大丈夫と思うよ」

「そうだね、それに今日は、いつもより暖かいし、何だか急にワクワクしてきたよ」

「よし、もうひと休みしたら出掛けよう」

 そこへ、一頭のアキアカネが同じ大石にとまった。その一頭は、あの高原に旅立つ直前に風太に話しかけてきた雌だった。

そして、二頭に「何の相談ですか」と聞いた。

風太は、「自分たちは今から、あの暑い間過ごした高原に行ってみようかと思っているんだ」

「へー、それはいい話ね、行ってみたいけど・・・」

「それなら一緒に行こう、今日は穏やかな日だから早く帰ればきっと大丈夫だよ」

「私たち雌は、産卵を終えたら急に体力がなくなった気がします。だから一緒にはとても無理だと思うので、どうか気にしないで下さい、それより気をつけて」

「そうですか、わかりました。でもどうかお元気で」

風太と昇太は雌の一頭を見守るように静かに飛び立って、大石の上を何回も旋回してから川沿いに上っていった。

 昇太に教わった林道に出れば、あの開拓地まではかなり近道のようだ。それにしても今日は、穏やかな日だった。しかし、標高の高いところは侮れない、いつ天気が変わるか分からない、ガスが出たら方向も分からなくなって、帰ることが出来なくなってしまう。それで暗くなったらおしまいだ、この時期あの高原で泊まりは無理だ、ちょっとした異変に気づいたら、すぐに引き返そうと風太は思った。

 林道の開けた陽だまりを過ぎると、すぐにあの開拓地の牧草畑に出た。この牧草地に出るとすぐに目に入ったのは、あの鏡餅のような何とも特徴的なやさしい稜線である。紅葉と針葉樹の濃い緑色が混ざり合って、一段ときれいに見える。今日は、空気も澄んでいて、峠の下の別荘地の建物までがくっきり見える。

 近くを見ると、開拓地では色々な野菜の収穫時期で、農家の人達は忙しそうだった。上空から見ると、やはり巨人の足跡に似た平地だった。開拓地の上空を一気に飛び越えて、あの人造湖も過ぎてしばらく上ると、あの高原特有の針葉樹が見えてきて、この高原特有の良い臭いがしてきた。風太はとても懐かしかった。

 昇太は「ここは今まで見たこともない世界だ、清々しい良い臭いがする、今日はありがとう」

「いや、自分もまたここに来られるとは思っていなかったよ。こっちこそお礼を言いたいくらいだ」

風太と昇太は、合掌したように尖った赤い屋根の山小屋と、売店とトイレのある峠まで来た。今日も、駐車場には何台かの車があって、登山者の姿もあった。ここまでひたすら飛び続けたので、二頭は売店のトタン屋根にとまって、ひと休みした。ゆっくり日を浴びて休んだ後二頭は、あの鏡餅のような山の峰を目指すことにした。シラビソの白い樹皮と葉の緑色が一段とはっきりしたような気がした。これより上は広葉樹の葉はほとんどなくなっていた。頂上付近は天気が良くても、さすがに風が強くてしかも冷たかったので長居はできなかった。それから二頭は、あの神秘的な三つの池の方向にいっきに下った。

 池に向かう登山道に蝶の姿はなかった。一番手前の池を過ぎて、その奥の二つの池の間にはあの山小屋があって、ここにも何人かの登山者がいた。二頭はその山小屋の前の広場にある大石に下りて休んだ。

 昇太が、「ここは暖かくて気持ちがいい、しかもなんて神秘的なところなんだろう」と呟くように言った。

「夏には色々な花が咲いていて、トンボや蝶の種類も多かったけど、この時期はまたひっそりとしていて違った世界のようでいいよ」と風太が言った。

 風太と昇太は、そこからこの北側にある頂上の平らな、風太の一番のお気に入りの山を目指した。ここにも何組かの登山者の姿があった。二頭は、頂上付近の石にとまって景色を楽しんだ。北西には、既に雪をまとったあの険しい峰々が遥か遠くに見えた。北東には、棚田から見える、あの活火山を主峰とする峰々が小さく見えた。更に東には、上の平らな船のような形をした山や、この峰から東に続く峰々と、様々な形の山がきれいに見えた。

 風太と昇太は、一瞬この石と一体化して、ここに留まってしまいたいような気になっていたが、風太は、ふと我に返って、あまりゆっくりもしていられない、秋は日が短くなっているので、帰りに日が暮れたら大変だ、なごりおしいがそろそろ戻らないといけないと思った。

 風太と昇太は、この山の頂上と思われる上空を何回も大きく旋回して、登山口の峠に下って行った。すると、駐車場の下の谷底からガスが峠に向かって湧き上がってきて、あっという間に峠の周囲に漂ってしまった。風太はこれはまずい、周囲が見えなくなったら大変だ、それに小さな水滴が体にまとわりついたら、飛ぶことも出来なくなってしまう。昇太に離れないように言って、大急ぎで下り始めた。林道はかろうじて確認できるから、昇太を見失わないようにして低空で必死に飛んだ。羽が湿って陽が遮られたので体温も下がってきたせいか、気だけ焦ってもスピードが出ない。この高原の良い臭がしなくなった辺りで、ガスが切れて更に下ると青空が見えてきた。昇太も必死について来たようで、無事を確認したが危なかった。

風太と昇太は、羽も湿って体も冷えきってしまったので、陽だまに石を見つけて体を温めることにした。二頭は長いこと休んで、やっと羽も乾いて体も温まったので、一気に開拓地まで下った。昇太はいつもの林道の開けたところまで来ると、「今日は本当にありがとう、おかげで楽しかった。」と一言いうと、いつものようにここで泊まっていくと言うので、風太は、承知して棚田まで帰った。昼間は天気が良かっただけに、陽が陰ったらかなり寒くなったような気がした。

 風太は、その晩不思議な夢を見た。棚田には花という花がいっせいに咲いていて、湧き水からは豊かな水がどんどん湧いていた。田んぼはきれいな水で満たされて、七色に輝いていた。きれいな水鳥が楽しそうに泳いでいた。この夢は何かの知らせのような気がしてならなかった。しかし、けして恐い夢ではなくて、むしろ、生まれて初めて観た美しい夢だった。いったい何を知らせてくれたのだろうか?その日以来、昇太とは会えなかった。そればかりか、ナツアカネの姿自体を見かけなくなった。

 あの高原の、夕立や台風の日も仲間の何頭かが帰ってこなかった。こう寒くなると、昨日まで一緒にいた仲間が、もう生きていないことなどいつもある。すぐ隣でも起きることなのだが、昇太とはもう少し一緒に遊びたかった。しかしナツアカネにとっては、寒さも限界だったのに違いない、昇太をあの高原まで連れて行ってやることができたのが、せめてものすくいだった。昇太はたぶん、あの高原から帰った晩の寒さで死んでしまたのに違いないと思った。それに自分だって、あと幾日生きていられるのかもわからない。

あの世とこの世

 幾日かたって、棚田では風太のあの命の恩人の家族が集まって、稲刈りが始まっていた。風太の命の恩人は、稲の株をいくつか苅っては束ねる機械を操作していた。風太は、命の恩人の帽子の上にとまってみた。そして、顔をのぞき込むようにして、ホバーリングしてから命の恩人の肩にとまった。彼は一生懸命に機械を操っていたが、風太に気が付いて嬉しそうにニコッ  と笑った。彼は、トンボが肩にとまってくれたことが嬉しかったに違いない。やはりこの人は虫が大好きに違いないのだと風太は思った。

そして、稲刈りの終わった田んぼは何だか寂しかった。さすがに陽だまりも少なくなってきた。風太はいつものアケビのドームで一夜を過ごした。夜にぎやかだったコウロギの声も、この頃は疎らになったような気がする。少し前まで草薮で聞こえたウマオイの声は今はもう聞こえなくなってしまった。ある晩、コウロギノの声を聞きながら、風太はまた夢を見た。昇太が、クマザサの茂みの中で、茎に掴まってふるえている夢だった。

 風太は羽化して、高原に旅立つときは、昇太には、また会えるという予感がしたので、眠っている昇太を起こさないでおいた。そして、事実、高原から戻ると、昇太にはまた会えた。しかし、今は、二度と昇太に会えないと思うと、やりきれない寂しさがこみ上げてきた。

そして、このところの朝晩の冷え込みで、自分にも間近に感じるようになった死が、急に怖くなった。しかし、自分に食べられた小さな羽虫たちは、そんなことを考える隙もなかったに違いない、それはそれで、何とも哀れに思えてならなかった。けれど、あのエゾゼミは、死が間近に迫っていることを知りながら、怖がってはいなかった。何故だろうか?・・・。そんなことを考えているうちに、日の出前までは、寒かった棚田にも暖かい陽がさし込んできた。

 東と、西にある山のおかげで、朝日のさし込むのが遅いかわりに、冷たい風が吹かないのがありがたい。風太は、しばらく朝日で体を温めてから、あの林道の日だまりに行ってみることした。

 今日も、何頭かのアキアカネが、暖かい陽を浴びて楽しんでいたが、蝶や他の種類のトンボの姿はなかった。風太も体全体に、ここで陽を浴びていると、このところの朝晩の寒さも忘れる思いがした。

そして、風太はあの高原で会った、アサギマダラたちのことを思い出した。彼女たちは、花を求めて遠い旅をするのだと言っていた。だとすると彼女たちのように、暖かいところを求めて旅をすれば、まだまだ生きていられるのかなと、風太は思った。もしそうだとすれば、太陽の方向をめざして旅をすれば、いつでも暖かいところにいられるのではないだろうか・・・。

 そんなことを考えている間に、陽が西に傾いていることに気がついた風太は、よし行ってみようと思いたち、林道からあの開拓地をまっすぐ西に横切った。開拓地の西の山を越えると、南北に延びた深い沢にも集落があった。その沢を飛び越えた西の台地は、更に広い開拓地が広がっていた。それからいくつもの山や沢や峠を越えて、それでも風太は、太陽を追いかけるように西へ、西へ向かった。

そして、標高は、徐々に高くなっていると思われる辺りで、風太はおやと思った。これだけ太陽を追いかけて西に進んだのに、陽は西に傾いていた。そのうち周囲には、広大な高原が広がり、遊歩道が四方にあって、ハイカーたちの姿もあった。

円盤のようなものが付いた、高い塔がいくつも立っていたり、ホテルや山小屋があった。南東の方角には、風太たちが夏の間過ごした、あの高原と鏡餅の様な山が、はるかに小さく見えた。この高原をまっすぐ西に横切ると、人の鼻のように突き出した、岩山の先端に出た。その上空から眼下には、風太が今まで見たこともない広大な平地に大きな街が広がっていた。更にその奥には、すでに雪をいただいた山々が屏風のように横たわっていた。何とその奥には、あの高原からはるか北西に見えた、ドーム型の四つの峰から、U字型に切り立った鞍部に続いて、槍の穂先のように尖った峰へと、特徴的な山々が続いていた。

風太は、この鼻先から垂直に切り立った絶壁に沿って、降下していった。その下辺りには、街に向かってなだらかに裾をのばした山があって、風太は、その日だまりに降りようとしたとき、一頭のアキアカネが、ほぼ垂直に猛スピードで風太に向かって来た。風太は、降下をやめてホバリングしていたが、身の危険を感じて咄嗟に身をかわした。そのアキアカネは、上空で向きを変えると、再び風太めがけて降下してきた。今度も上手く身をかわしたと思ったが、右の後羽に衝撃があった。

風太は、大急ぎでその場を離れて、大きな石碑をみつけて降りて羽を休めた。風太は、ここまで必死で飛び続けただけでも疲れているのに、ひどい目あったものだと思った。あの棚田でも、別の種類のトンボに追いかけられたことはあったが、同じ仲間のアキアカネに襲われたことはなかった。

 しばらく体を休めて、陽を浴びていた風太は、あれだけ必死に太陽を追いかけて、西に向かったのに、更に太陽は西に傾いていた。風太は、アサギマダラたちの話を思い出した。彼女たちは、風を利用して次の花のある所に向かうということだった。しかも、おどろくほどの長旅だった。これは彼女たちが生まれ持った生き方なのだ、性質の違う自分たちが、真似をしようと思っても無理なことかもしれない、それに、今からあのそびえ立つ険しい峰々を超えようとしても、到底無理なことと思えた。

 ふと我に返った風太は、無性にあの棚田に帰りたくなった。石碑から飛び立って、ほぼ垂直に近い絶壁に沿って一気に超えようとしたが、どういうわけか体が右に旋回して、上手く上昇できない。そこで何とか岩肌に止まることができたので、少し落ちついてみようと思った。そして風太は、眼をこらして自分の体をみると右の後羽が裂けていた。あのアキアカネが攻撃してきたとき、ちょうどあのあたりに衝撃があったのを思い出した。

 風太は、この状態で棚田まで帰れるかどうか不安になった。もう一度飛んでみたけれど、やはり、右に旋回してしまう。そこで、今度は左右の羽の往復する幅やスピードを変えてみることにした。すると、蛇行はするものの思った方向に何とか進むことができた。やっとの思いで、垂直の絶壁を越えて、あの広大な高原の上空に出た。しかし、もうしばらくすると太陽はあの険しい峰にかくれようとしている。ここは、標高が高いだけに日没を迎えると途端に気温が下がると思われる。風太は蛇行して速度も出ないぎこちない飛び方で、早く棚田に帰りたいと思った。

 いくつかの、沢や峰を越えたころ、とうとう太陽があの西の険しい峰々にかくれてしまった。風太は、裂けた羽で飛ぶのもだいぶ上手にはなったが、それでもまだあの開拓地すら見えてこない、時々スズメバチがまっしぐらに、ねぐらに帰るのを見かけるくらいで他の虫たちの姿はすっかりみかけなくなっていた。

 風太は、暗くなっていくのも怖かったが、それ以上に、この時期特有の日没後の寒さが怖かった。何とかまだ視界が効くうちに、あの開拓地の更に西にある広い開拓地の上空に出たが、気温が下がったうえに、これ以上飛び続けたら方向すらわからなくなって、ねぐらを探すこともできなくなると風太は思った。何とかこの開拓地の東の沢の集落まで行きたいと思った。

 それにしても広い開拓地だ、風太はやっとの思いで、開拓地の東のはずれまで来て、ひと山越えると、眼下の薄暗がりの中にあの沢づたいの集落が確認できた。風太はその中央を走っている道路をめざして降下した。その東には田んぼがあって、道路と平行して川があった。その先の山ぎわに広い石段があって、その上の大きな杉の木立の中にお寺があった。

 既に風太は、体力的にもその他の条件を考えても、飛ぶことがやっとだったので、そのお寺の外灯を頼りに、高い縁の下の柱につかまることができた。クモの巣には気おつけなければいけないが、荒れ寺ではないので、掃除がされていてきれいだった。風太はクタクタに疲れていたので、柱につかまると同時に眠ってしまった。

次の日、風太はそのお寺に遅い朝日が差し込んでからゆっくり目を覚ました。お寺の裏の山道に沿って飛んで、小さな峠を越えると、あのため池に出た。ため池にはたくさんの水鳥の姿があった。

風太は天気も良いので、陽だまりで体を温めようと思い、池の上の開拓地の手前の農地に出た。陽が当たって風もなく、気持ちの良いところだった。農夫が大型の機械で畑を耕していた。

 あの、ため池の下の田んぼにいた、仲間のアキアカネたちが何頭もここに集まっていたが、やはり、ナツアカネの姿はなかった。この時期にしては暖かい日で、キタテハとオツネントンボの姿もあった。枯れ草の上にとまって、日を浴びていると、雌のアキアカネ一頭が、風太の頭部を覗き込むようにホバリングしていた。風太もその雌の一頭の頭部を良くみていたが、急に飛び立って、二頭はうれしそうに追いかけっこをするように、小さな円を描いて飛び回った。その一頭は、棚田からあの高原に出発する前に話をした、雌の一頭だった。二頭は、枯れ草の上に下りて、風太が先に話しかけた。「ずいぶん久しぶりだけど、元気で良かった」

「この頃は、朝晩すっかり寒いほどになってしまったので、赤い屋根のお堂の近くで、寒さをしのいでいたの」

「それは、良いところをみつけたね」

「民家が近くて、最初は怖かったけど、あの棚田より少し下っただけで、かなり寒さが違ったような気がするし、あなたに命を助けてもらったのだから、大事にしなくてはいけないと思ってね。夕立のときも台風のときも、必死でクマザサの茎にしがみついていたの」

「いや、実はあのとき自分ももうだめかと思ったほどだから」

「でも、本当に嬉しかったんです」

「それにしても良くここへ来たね」

「そうよね、わざわざこんなところまでと思うけど、あの高原に行く途中、何とも気が休まるところだろうと思ったの、何故かはわからないけど」

「ここは日だまりで冷たい風が吹かないしね」

「今日はお友達は・・・」

「あの日高原に行って、次の日からはもう会えなくなってしまったんだ」

「そうですか、そう言われればナツアカネの姿はすっかり見なくなってしまったわね」

 風太は、大型の機械で農地を耕している、あの農夫のところにいってみたいと思った。雌のアキアカネは人間は恐いから、やめたほうが良いことを伝えた。それでも風太は、自分が羽化したばかりのころ、ジョロウグモの巣にかかってしまった風太を、あの棚田の持ち主に助けてもらったことを話して、その農夫の帽子の上を注意深く旋回した。そして、その帽子のてっぺんにとまった。当然、農夫は全く気づいておらず、時々後の様子を確認しながら機械を操っていた。

 風太は、次に農夫の肩にとまってみた。さすがに農夫も気が付いたようだったが、追い払おうとはしない、しかも、暖かくて気持ちが良かった。さらに大胆に農夫の膝にとまって、農夫の顔を覗き込んでみると、農夫はニコニコしていた。この農夫も虫が好きのようだった。上で見ていた雌の一頭も、最初は恐る恐る見ていたが、いきなり農夫の肩にとまったので、さすがに今度は風太ほうが呆れていたようだった。しかも二頭は、枯れ草の上よりも暖かくて気持ちが良かった。このまま眠ったらどんなに気持ちが良いだろうかと思った。二頭は天気が良いとこの農地に来て遊ぶのが好きだった。

十月下旬、棚田では脱穀が始まった。この時期ともなるとカラマツも紅葉して早いものは葉が落ち始めている。コナラやクヌギも紅葉していて山桜やニセアカシヤは既に葉が落ちていた。花はさすがに少なくなっていて、アザミにノコンギクそして細かい黄色のキクタニギクが微かに咲いていた。ホウノキの大きな枯葉が、微かな風でバラバラと落ちる音が聞こえた。

 休憩時間になたようで、脱穀の作業をしていた命の恩人の家族は、下から二枚目の田んぼの入口で、お茶を飲んだり、おにぎりを食べて休んでいた。風太も、一緒に近くに積まれた藁の上に止まって休むことにした。稲藁の上は暖かくて気持ちが良かった。この頃では、アキアカネの姿も少なくなってきた。高原に旅立つ前に話をした、雌の一頭もとうとう見かけなくなってしまった。

十一月も下旬になった。風太は、いつものアケビの蔓の重なり合ったドームで一夜を過ごしたが、この時期ともなると、さすがに日の出前後の寒さがいちばん辛い。

夜は星もきれいに見えていたので、その日の朝は、気温も一段と下がって霜がきつかった。風太はさすがに寒いと思った。体中が痛くて、凍えていくようだった。東の空はかなり明るくなってきたけれど、日の出はまだだった。風太は、早く陽があたってやくれることを祈ったが、意識が遠くなっていくような気がした。昇太と遊んだ湧き水や、田んぼの中のこと、あの高原で遊んだこと、林道の日だまりや貴婦人、雌の一頭と話したことなど、色々な記憶が蘇った。

 アケビの蔓に掴まっている足の力が抜けた。その瞬間、アケビのドームに風が吹き付けた。霜にあったアケビの葉が、バラバラと舞い散るのと同時に、風太の体もアケビの蔓から離れて、稲の切り株だけが残った田んぼの上に飛ばされた。そのとき風太は、ヤゴから羽化したときと同じような感覚で、しかも一瞬にして体が抜け出したような不思議な体験をした。

 風太は棚田の上で、アケビのドームから吹き飛ばされて、田んぼに落ちた自分の体を不思議そうに眺めていた。風太は我にかえって、自分の体を見ると光輝いていた。そして、今は寒くもない、体が痛いとも思わない、いたって楽である。すると更に上から、もっときれいに光り輝いたトンボが降りてきて、風太を誘うように、近づいて上に行くよというように頭を振った。風太は、自然に声にもならないような声で「お母さん」と呟いた。

上から降りてきた美しく光り輝いたトンボは、「風太あの世で頑張って生きたね。ここはあなたが生まれる前にいたところ、今までいた世界では、こちらをあの世と呼んでいるようだけど、元々どの魂もこちらの世界にいたわけだから、こちらの世界がこの世で、今までいた世界があの世ということになるの。そしてこの世に来た時は、そのことを自覚して、いつまでもあの世のことに執着してはいけないんです。この世に来た魂はもっと成長しなくてはいけないので、あの世のことばかり考えていると、上の世界へは行かれなくなってしまうんです。けれど、今はしばらくの間、風太の好きだった場所に行かれるから良く見ておくといいわ」

風太は、「何だか混乱してきたけど、分かった気がする」

「それじゃ好きな場所を思い出してみて」

風太は、あのミドリヒョウモンの貴婦人と再開した、山道の開けた陽だまりに一瞬にして行くことができた。そしてやはり体は楽である。あの時よりも更に明るい陽気な場所のような気がした。あの天国のような高原にも、やはり一瞬のうちに着いた。風太の好きだった、峠の登山道から東に上った立木のない、頂上の平らな山の上にいた。眼下にはあの神秘的な三つの池が輝いていた。棚田から見えた、活火山に連なる峰々もはっきり見える。それから、更に上へ上がった気がする。あの鏡餅のような山の頂上も手に取るように見えた。その西の眼下にある大きな湖も輝いて見えた。

 それから、あの開拓地の西の沢にある農地の上に来た。今日も、数頭のアキアカネとのオツネントンボの姿があった。風太はこの農地の上を何回も旋回した。そして、エゾゼミに行き合った棚田を胸に刻むように眺めてから、風太の生まれた棚田の上に戻った。色々な仲間たちと話をした、あの大石が何故か急に懐かしく感じた。朝は、寒かった分だけ棚田には暖かい日がさして、数は昨日よりはるかに少ないが、アキアカネやキタテハが陽だまりで、楽しそうに遊んでいた。風太はこの世のことを、まだあの世にいる仲間たちに伝えたいことをお母さんに言うと。「今、風太が何かをあの世の仲間たちに伝えようとしても無理よ、もっともこの世で色々な経験を積むと伝えられるようになるらしいけどね」

「それじゃ、自分が羽化する前に稲の株を登ろうとしたとき(がんばって登りなさい)と言ったのはお母さんだったの」と風太が言うと、お母さは、驚いたような顔をして「あなたには聞こえたの、確かに私は大声でそう叫んだけど、あなたに伝わるとは思っていなかったから、それは驚いたわ」と本当に信じられない様子だった。

 風太は、朝晩寒くなって、へばりつくように田んぼに落ちている、トンボや蝶の姿を思い出して、体が二度と動かなくなって、その体が朽ち果ててしまったからといって、死んでしまったわけではない。そして、そのことは不吉なことでもなくて、忌み嫌うものでもない。玉子から生まれてきたことや、水中でしか生活できなかった幼虫から、成虫になって空を飛べるようになったときと同じこと、いやもっと素晴らしいことだ。魂の本来いた世界、そして本当の意味でのこの世に戻ったことで、今までいた世界が、やはりあの世のことであると改めて思った。

 アケビの葉と一緒に、力尽きて飛ばされたあの体は、抜け殻のようなものだったのだ。多少のいとうしさは確かにあるが、色々なものにしばられない今の方がずっと楽であった。そして、お母さんに言われたように、あの世のことにいつまでも執着していてはいけない。あの世は苦しいところだけれども、楽しいことももちろんある。その楽しいことだけを考えて、未練を残してははいけないのだ。この世に来たことを、自覚しなくてはいけないのだと、自分に言い聞かせた。

 ただあの世で、体が二度と動かなくなったからといって、死んでしまったわけではないことを、まだあの世にいるたくさんの仲間たちに、大声で伝えたかったけれど、風太の今いるこの世と、今までいたあの世では、簡単にコミュニケーションはとれないらしい、それから風太は、先に来ていると思われるエゾゼミやベニヒカゲ、雌のアキアカネ、ミドリヒョウモンの貴婦人それから昇太にもいつか会えるという予感がした。そして、風太の大好きだった棚田から、二頭は上をめざして上がって行った。

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