人間をやめた日
気づけば、何もない所にいた。
見渡す限り灰色の世界。
地面はあるけどそこも灰色。光源がどこにあるかも分からないが、足元に影はある。
自分の身になにが起きているのかまったくわからない。
いつものように朝起きて、家族に今日は出かけるからと言い残し、家を出て門を通り過ぎた瞬間、目眩がしたと思ったらこんなとこにいた。
しばらく呆然と突っ立っていたが、我に返り状況を整理しようと身の回りを確認してみる。
汚れや外傷は無い。
腕を抓ってみる。痛い。夢ではないらしい。
携帯電話は、やっぱり通じない。
腕時計を確認したが、家を出たあたりの時間で止まってる。携帯電話の時間も同じあたりで止まっている。
地面をおもいっきり踏みつけたり、大声で適当に呼びかけても変化はない。
「さて、どうするかね」
そう呟いて座り込む。
不思議と焦りは無かった。だが何も無いのは気が滅入りそうではあった。
一度寝てみて、起きたら元に戻ってるかもしれない。と気楽に思って横になって目を閉じる。
なにかしらの音すらも聞こえない灰色の世界は不気味ではあるが寝やすかった。
起きたけど何も変わってなかった。
「とりあえず動くか」
荷物からボールペンを取り出して放り投げる。なにも目につくものがないので、それで歩く方向だけ決める。
指し示した方向に向かって歩き出す。体感的に1時間ほど歩いたあたりでなにか感じる。
微かにだが、何も無い灰色の世界に甘い匂いが漂ってくる。
やっと状況に変化があり、期待を込めて匂いがするほうへ走ってみた。
見つけたのは、大体両手を水平にあげた幅くらいの直径の円で縁取られた土に生えた一本の樹だった。
それほど大きくはなく大体私の身長くらい。おおよそ170cmくらいだろうか。
青々とした葉が茂り、そこにひとつだけ赤いリンゴが実っていた。
リンゴにしてはもの凄い甘い匂いがたちこめている。
変化があって嬉しいことには嬉しいが、さすがに妙だとは思った。
これからどうしようかと思っていたら、匂いに釣られたのか思い出したかのように腹が鳴った。
「そういえば朝起きたあとからなーんも食べてなかったなぁ」
元々起きたのが昼より少し前で朝ごはんにしようにもタイミングとしては遅く、出かけた矢先で外食でもしようと思ってたのでなにも食べてない。
ここに来てからどれだけ時間が経ったのかは分からないが、そろそろお腹になにか入れたかった。
躊躇はしたが一瞬だけで、リンゴをもぎ取って袖で拭って見てみる。
いい感じに熟れている。匂いから察するに蜜も多くて美味しそうだ。
「いただきます」
しっかりと食前の挨拶をしてから皮のままかぶりつく。
美味い。
齧った瞬間から果汁と蜜が溢れ、瑞々しい果肉が口の中でシャリシャリと踊る。
濃厚な甘みが広がり、しかし微かな酸味があってくどくない。
面白いことに種がないらしく、芯まで蜜で詰まっているため美味しく全て平らげてしまった。
「ごちそうさま。あーおいしかった」
実はひとつしか無かったが、お腹は満ち足りたようだ。
その場で座り込み、手についた果汁を舐めとりながら余韻に浸る。
とはいえそうもいかない。舐め取りながら今後のことを考えてみるが、この場を見渡しても相変わらず灰色の世界が広がっているだけだった。
何かしようにも取っ掛かりが無さそうなので思いつかない。
さっきのリンゴを消化するのに胃に血液が回って考えが鈍いのかも。
そう思って考えるのを放棄し、しばらく上を向いて何も無い灰色の空を見つめる。
変化はまた唐突に起こった。
「あああああああああああああああああああああっ!?」
びっくりした。
いきなり後ろから絶叫が聞こえる。恐る恐る振り返ると、呆然と実がなくなった樹と私を見ている女性がいた。
腰まで届くウェーブかかった金髪で整った顔立ちをしており、布を巻いたかのようなゆったりとした服を着ている。
顔は少々幼いように感じるが、身体自体は中々に豊かであった。出ているところは出て引っ込むところは引っ込んでいる。背は私と同じくらいありそうだ。
「アンタなにしてんの!というかなんでここにいるの!どうやってここに来たの!この木にあった実はどうしたの!まさか食べた!?」
可愛らしい顔に怒りを滲ませてきたが、最後の方は泣きそうになりながら問い詰めてきた。
自己紹介もなくいきなり怒鳴りつけて最後は涙が出そうになっている姿に唖然としたが、聞かれた順に答えてやった。
「どうもしてない。ここに来たのは偶然だし、どうやって来たのかは私も知りたい。そこにあった実は食べてしまった。君の物であったのなら謝る。すまない」
最後の方は立ち上がって頭を下げた。
顔を上げると女性の顔からは涙は引っ込んでいたが、怪訝な顔をして訪ねてくる。
「ねぇ、アナタ人間よね?体になにか感じるものはない?痛みとか熱とか出てない?」
妙なことを聞いてくる。
まさか、あのリンゴ毒でもあるのか?
と思ったが特にどうなってるわけでもない。
「いや、とくには・・・」
と言い出したあたりで急に頭痛が出始めた。
「っぐぁ・・・」
頭を押さえると女性が慌てて近づいてくる。
「ちょっと!大丈夫!?」
こちらの肩を掴んで聞いてくるが、頭痛はさらに酷くなってくる。立っていられない。
すると今度は胸のあたりから急にこみ上げるものが来た。
「かっ!かはっけはっ!」
えづいても何も出てこないが、ものすごく気持ちが悪い。
「ああもう!間に合わなかった!体が崩壊し始めてる!」
女性が何か言ってるがよく聞き取れなかった。
霞んでくる視界の中で手がボロっと崩れた気がした。
「とりあえず魂と肉体を分離させる!アタシの体を貸すからなんとか持ち堪えてよ!」
痛みと気持ち悪さで何を言ってるのか頭に入ってこない。
すると急に体が楽になった感覚がして、すぐにまた重くなった。
だけどもう意識が耐えられなくなったのか、すぐに気絶した。
「これでなんとかなったかな・・・。にしても貧相な身体になったこと」
すぐそばで崩壊した私の身体を見て、さらに横で気絶している私を見て女性が呟く。
「苦情は起きてからしてあげましょうかね」
苦笑しながら私の頭を撫でる。私がちゃんと生きているのだけ確認すると微かに微笑んだ。
まるで女神のようであった。
こうして、私は人間ではなくなったのだった。
異世界を旅するのはもう少しだけ先です