再生――Anastasis
いつだったか またどこだったか
わたしは大海の中に向かって
虚無への捧げもののように
少しだが貴重なワインを注いだ
J'ai,quelqe jour,dans I'Ocean.
(mais je ne sais plus sous quels cieux),
Jete comme offrande au neant,
Tout un peu de vin precieus…
(「 Le vin perdu」 Paul Valery)
*
ある夏の夜のことである。暗い空に浮かぶ月を見上げると、私の瞳から一粒の雫が、頬をつたって流れていき、渇いた掌に落ちていく。だが、そこには生命の影はなく、ただ雫は渇いてまるで存在していなかったかのようにその姿を消した。
風も吹かないのに このすすり泣く音はなんでしょう?
この時刻 ひっそりと 星空の下で泣くのは誰?
泣こうとしている私の傍で……。
草むらから泣き続ける鈴虫の声だけが小さな庭を充たしていた。「リィィ」と鳴くその声は何処か寂しげで、何かを求めているようで……。
しばらく縁側で浮かぶ月を見ていた。少し欠けた月から放たれる光芒が私の漆黒の瞳にすうっと入ってくる。その光は私の心の傷にまで浸み込んで、くっきりとその痕を浮かび上がらせた。心には何もないはずなのに、傷だけは確かに残っているのである。
痛みに耐え切れず、私は重い身体を横にした。痛みから逃れるために、私は眠りに就こうとしたが、その痛みはそれを許さなかった。
そこで少しでも眠れるようにと、目の前の光り輝く小さな星々を数え始めた。
一つ、二つ、三つ……。
不思議なことに、数えている間だけは痛みが心地よく感じられるのだ。小さな星々の光彩はいずれも異なり、いずれも私の心を充たしていく。いつの間にか私は白い闇の中に身を委ね、静かに眠りについていった。
*
深い闇の中で私は自分の姿を捉えることができなかった。どちらが上か下かそれすらも分からない。広い宇宙の中に投げ出された私の魂は、いったい何処へ向かうのでしょう? 眼を開いても耳を澄ましても、何も見えない、何も聞こえないこの世界に私以外、何があるのでしょう?
私は静かにその眼を閉じる。
あのとき見た小さな星々の虚像が瞼に映る。私はそれをもう一度数え始めた。
一つ、二つ、三つ……。
風も吹かないのに このすすり泣く音はなんでしょう?
この時刻 ひっそりと 星空の下で泣くのは誰?
泣こうとしている私の傍で……
その中で一つの小さな星が光を差し伸べる。私は無意識のうちにその星に向かって手を伸ばしていく。暖かく懐かしい掌に導かれるように私は深い眠りから眼が覚めた。
*
縁側に寝転がる私の身体を月の光が包み込んでいた。ふと立ち上がり、小さな庭に足を運んであの星を探す。だが、あの星は何処にもなかった。心に残る深い傷痕から雫が浸み出し、私の瞳から溢れ出る。その雫に映る小さな星々が無限の宇宙のように感じられた。生命が巡る血い(あかい)頬をつたって大地に雫は落ちていく。
あのとき「リィィ」と鳴いていた鈴虫はいったい何処へ行ったのだろうか? 無限に広がる静寂の中に小さな生命の姿だけが佇んでいた。
「再生――Anastasis」を読んで頂き心より御礼申し上げます。この作品は私の二つ目の作品であります。文中にはフランスの詩人でありますポール・ヴァレリー氏(1871〜1945)の詩を引用しています。いつも感じていることですが、偉大な詩人の詩には生命の影が感じられます。言葉に生命を吹き込むのが詩人であるのかもしれません。私と致しましても、一つの小さな言葉たちに生命を吹き込むような作品作りをいたさねばならないと思っております。この作品から「何か」が感じられましたら、私にとってこの上ない喜びでございます。