遠い日、近い日
全部全部、決められていた。
生き方も未来も、何もかも。
それはたったひとつの偶然から始まった、運命。
たった一度の出会いから定められた、必然。
私は、最初は普通の女の子に過ぎなかった。
妖精界には何処にでもいる女の子で、特別な一族に生まれたわけでも、特別な集落の生まれでもなかった。
普通に同年代の友人たちと遊び、はしゃいで、大人に怒られて。
そんな風に過ごしているだけだった。
私がまだ少女と呼ばれていた頃、世界はもっともっと若く、幼かった。
人間界は漸く人が文明を進め始めたところで、他の世界―――精霊界や妖精界は、人間界ともっと近い場所にあった。
それは、その2つの世界だけではない。
もうひとつ、人間が今では知ることはもちろん信じることもほとんどない世界。
そんな世界にも、私たち妖精や精霊は自由に出入りできたのだ。
今の人間は、いつの間にか精霊が全ての世界で最も上位の種族だと信じているけれど、本当は違う。
この世界にも、いるのだ。
『神』と呼ばれる、種族が。
神界と呼ばれるそこへは、精霊界や妖精界からならば自由に出入りすることが出来た。
扉を向ければ、その前に広がるのはこの当時の人間界と変わらないように見える光景。
違うのは、そこにいる人々の背に翼が見えることだった。
翼を常に背に持っているのは、下級の神族だ。
上級になればなるほど、翼は見えなくなり、必要なときに具現化出来るのだと聞いた。
だから目の前にいるのは、下級と位置付けられる神族だ。
下級と上級の神族には寿命がある。
人間や私たちと同じように、両親から生まれ、途方もなく長い寿命を全うして、永遠の眠りにつく。
では、その上は。
その上、つまり上級の上級。
私たち妖精が、便宜上『最上級』と呼んでいる神族こそが、本物の神。
彼らには寿命がない。
世界の創世記に誕生し、以来ずっと生きている。
様々な元素を司り、全ての世界を維持していく、いわば『柱』のような存在。
それが人間界では認知すらされていない、この世界の一番上。
神界の中でも『聖域』と呼ばれる場所に住まい、そこから出ることがほとんどないと言われる存在。
そんな存在と私が出会ったのは、本当に全くの偶然。
私の生まれた集落が、たまたま精霊神―――精霊の中で最も力の強い、精霊たちの長に当たる方―――と結びつきが強く、よく神界に使いに出されていたから。
私がたまたまそのとき、精霊神の御用聞きをすることになったから。
そして、たまたま初めて行く場所で道に迷ってしまったから。
そんな偶然が積み重らなければ、出会うはずもなかったのだ。
あの、深い海のような色を持つ、あの人に。
たまたま出会ったその森は、その人が住んでいる区域の一部だった。
その偶然の出会い以降、私はたびたびその人に会いに行った。
最初はその深い藍の瞳に惹かれた。
会っていくうちに、その人柄に惹かれた。
人として、強い憧れを抱くくらいに、強く。
だから周囲に怒られても神界に行くのをやめなかった。
その人は自分の住んでいる神殿への行き方を教えてくれたから、私はいつでも遊びに行けた。
そんな生活で、一度だけすごく驚いたこともあった。
普段はその人しかいないその神殿に、別の人がいたときだ。
憧れの人とは対照的な、燃えるような赤い髪。
炎を思わせる紅の瞳を持つその人は、私をじっと睨みつけていたと思う。
その頃から、憧れの人も、もう来ない方がいいと言い出して。
それが悔しくて、私は意地でも遊びに行ったのだ。
今では、強く思う。
あのとき、あの人の言葉を聞いていればよかった。
私に来るなと言ったとき、その人たちは本当は私なんかに構っている場合ではなかったのだ。
直接神殿に行って、そこから外に出ずに帰っていた私は知らなかった。
その人たちがそのとき、とても大きな戦争をしていたことを。
その後の世界を揺るがすほどの戦争をしていたことを、知らなかった。
知らずに私が神殿に行った日、それまでは安全だったそこは戦場になっていた。
そして、あの人は、敵から私を庇ったのだ。
私はいつもの入口から区域の外に追い出されて、いつもあの人のところに導いてくれていた道は、きっとあの人が閉じてしまったのだろう、二度と開くことはなかった。
それから、暫くして。
私は、精霊の長であり、女神と呼ばれる精霊―――マリエス様に呼び出された。
マリエス様に伝えられたのは、私が憧れていたあの人が死んでしまったという事実。
あの人は教えてくれなかったけれど、実はあの人は神界でも偉い神様だったのだという。
世界が生まれたのとほぼ変わらない頃から存在し、世界を支えていた『柱』の神。
寿命という概念を持たず、悠久の時を生き、世界の安定を司るはずだった人。
この世界には、不死などない。
先に口にしたとおり、最上級の神族や一部の高位の魔族のように、寿命を持たない命は存在する。
けれど、それは刻限が決められていないだけ。
どちらも外的要因で命を落とすことは普通にあって、あの人はその外的要因で死んだ。
つまり、あの時戦争をしていた敵に、殺された。
その話を聞いたとき、私は酷く後悔したのだ。
だって、それはきっと私のせいだ。
マリエス様ははっきりとそうは言わなかったけれど、間違いなかった。
だってあの時、私は『敵』の攻撃から庇われたのだから。
私があの時あそこに行かなければ、あの人は死なずに済んだかもしれない。
私が忠告を聞いていれば、今もあの人はあの神殿にいたのかもしれない。
そんな想いが、私に刻まれて、消えなくなった。
だから、私は断ることなんて出来なかった。
マリエス様に、あの人から貰った知識や物を全て引き継いで世界を支える力となれと言われて、断れるはずもなかった。
私は精霊神と、死んでしまった『柱』の神の代わりに世界を支える『柱』となった七大精霊から洗礼を受け、下級神族になった。
下級神族と言っても、神界の人たちのそれとは違う。
世界を支える『柱』としての神族―――つまり、私は最上級の『神』と同等の生命に変化し、寿命という概念は意味を失くした。
私はもう老いることはない。
精霊神であるマリエス様にちなみ、『妖精の女神』という役目を背負い、人間界から世界のバランスを探り、支える。
外的要因がなければ、このまま死ぬこともない。
万が一のときのために跡継ぎを用意した方がよいと言われたけれど、きっとそれも無意味なものに終わるのだろうと思っていた。
だから、私に与えられたこの神殿から出る日が来るとは思わなかった。
「―――あなたは、本当にそれでいいのですか?」
私にそう尋ねたのは、マリエス様の導きで私の元にやってきた青年だった。
精霊神であるマリエス様と、七大精霊の選んだ『勇者』。
そう呼ばれていた青年は、真っ直ぐに私の目を見て尋ねたのだ。
「あなたはそこで、ずっとそうやっていて、本当にいいのですか?」
迷いのない琥珀の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
その瞳は、誰かに似ているような気がした。
けれど、最初は誰だか思い出せなかった。
「そうやって、ずっと罪の意識に押し潰されたまま生きていくのですか?」
彼は、私の事情など知らないはずだった。
なのに迷わずそう尋ねられて、私は最初びくりと肩を震わせた。
感情の制御には、すっかり慣れているはずだった。
それなのにそれが抑えられなかった。
僅かな震えだったけれど、それで彼には全てを悟られてしまったようだった。
琥珀の瞳は真っ直ぐにこちらを向けられている。
その手が、不意に動いた。
「え・・・?」
私は驚いて目を瞠る。
だってそれは、私に向けて伸ばされていたのだから。
「一緒に行かないか?」
彼は、私から目を逸らすことなくはっきりとそう告げた。
口調は尋ねているようだったけれど、違う。
あれには、何が何でも私を連れ出すという、強い決意があった。
それでも、私は最初はその誘いを断った、否定した。
だって、怖かったのだ。
私が一緒に行くことで、今では人間界の運命を背負っていると言っても過言ではない、その青年の未来を閉ざしてしまうかもしれない。
憧れだった、私を逃がしてくれた人の死が、私にそんな恐怖を与えていた。
けれど、彼は諦めなかった。
私が了承するまで、ずっとそこに居座って、ずっとずっと手を伸ばしてくれていた。
彼が、どうしてそこまでしようと思ったのかわからない。
けれど、あんまりにも諦めないから、私も手を伸ばしてみようと思った。
その手を取ってみたいと思った。
だから私―――あたしはその手を取った。
それが、旅の始まり。
ずっと変化のない時を過ごしていくのだと思っていたあたしの、新しい時間の始まりだった。
「そう考えると不思議な人なんだよなー」
「何がですか?」
宿に向かう途中、ぽつりと呟いた言葉に、すぐ前を歩いていたアスレイドが反応する。
こちらを向いて首を傾げる彼に目配せをして、1人怒ったように肩を怒らせたまま先頭を歩くミルザを見れば、彼は納得したように頷いた。
「確かに不思議な人ですね」
「アスレイドもやっぱり心当たりあり?」
「あなたが聞くんですか?ユーシス。あなたは見ていたでしょうに」
「だってほら。人がその時何を考えていたかまでは、いくらあたしが女神でもわからないもの」
「そういうものですか」
「そういうものなんです」
本当にそういうものなのかはわからない。
かつて私が憧れた『あの人』なら、人の考えまでも理解できたのかもしれない。
だって、あの人は世界を支える『柱』だったのだから。
それでも、と思う。
あたしは、そんなこと分からなくてもいいのだ。
全部が全部理解できる万能な命なんかじゃ、決してない。
たまたまあの人と接触したから、今の役目を仰せつかっただけなのだ。
かつてはできないことに焦燥やら不安を感じていたけれど、今はどうでもいいと思う。
そう、彼が教えてくれた。
そこまで考えて、あたしは思わず笑みを零した。
一応子供がいる身であるというのに、あたしはずいぶん彼に惹かれているらしい。
それでも、種族の違いとか立場の違いとか、どうでもいいと思ってしまうのは、仮にも女神失格だろうか。
「2人ともっ!!遅いっ!!」
ペースの落ちた自分たちに苛立ったのか、ミルザが大声で叫ぶ。
彼の苛々は、1人で仕事探しを押し付けせられたときから収まっていないらしい。
仕事はテスタが1人で行ってくれたのだから、それて収めればいいのに、どうやら今度はテスタが1人で行ってしまったことを怒っているのだから、まったくしょうがない人だと思う。
その苛立ちが純粋な心配から来ているのだから、仲間に対して過保護だというべきか。
そうやって怒る姿がなんとも可愛くて、ついついからかいたくなる。
そんな気持ちを押し込んで、あたしはにっこりと笑って見せた。
「はいはい。今行きますよー」
ぱたぱたと音を立ててミルザの傍に駆け寄って、その腕に腕を絡ませる。
さすがに予想外だったのか、ミルザはそんなあたしの行動に驚いたように目を瞠った。
「ちょっ!?ユーシ―――」
「はーい!さっさと宿に行くわよリフィス。アスレイドもはーやーくー!」
「はいはい」
ミルザの腕を拘束したままぶんぶんと片手を振れば、アスレイドはため息を吐き出し、苦笑を浮かべて返事を返す。
そんな彼に、訳のわからないという表情をしたミルザが助けを求めるように視線を送るが、アスレイドはそれを綺麗に無視した。
「さー!れっつごーっ!!」
「ちょっ!?ユーシス!待って!転ぶから!!」
ずるずるとミルザを引き摺って宿へと向かう道を歩く。
その姿を見てアスレイドが笑っていたことに、きっとミルザは気づいていない。
あたしは気づいていたけれど、教えてなんてあげない。
後で気づいて怒るミルザも、結構可愛いのだと知っていて、それが見たいから。
そんな自分の考えに『年』を感じたけれど、そんなこともどうでもいい気がした。
この人と一緒にいられるなら、この人と今まで拒絶していた世界を見られるなら、年なんか気にするより、それはきっとすごく楽しいことだと知っていたから。
だからあたしは、許される限り彼と―――彼らと一緒にいたいと思う。
それが、今のあたしの唯一の願いだと、今ははっきりと言えるから。