宿屋の朝の出来事
宿屋の階段を1人で下りる。
長い金の髪を掻き揚げながら、ユーシスは小さくあくびをした。
階段を下りた先にある食堂に着くと、顔を上げてきょろきょろと辺りを見回す。
一緒に旅をする4人のうち、ユーシスだけは女だ。
路銀が相当切羽詰っているとき以外は、基本的に彼女だけが別室だった。
今朝起きたら、扉の下にメモが挟まっていた。
そこには「先に食堂に行く」と書かれていたから、仲間たちはもう食事をしているのだろう。
暫くの間辺りを見回していると、ふと見慣れた宵闇色を見つけた。
近づいて髪の長いその人物の顔を覗き込んでから、ユーシスはにっこりと笑った。
「おはよ、アスレイド」
「おはようございます、ユーシス」
声をかけられたアスレイドも、手元の本から顔を上げ、にこりと微笑む。
その反応に満足したユーシスは、ふと周りを見回して気づいた。
この席には、彼1人しかいない。
てっきり他の2人の連れもいると思っていた彼女は、不思議そうに首を傾げた。
「あれ?ミルザとテスタは?」
「テスタは仕事を探してくると言っていたので斡旋所だと思いますが・・・、そういえば、ミルザは朝から見ていませんね」
朝から、ということは、アスレイドやテスタが起きたときには、もう彼は部屋にはいなかったということだろう。
「もう。朝っぱらから何処に行ったのよ、彼」
思わず盛大なため息を吐きながらそう呟けば、目の前のアスレイドがくすりと笑った。
「なんだかんだで彼は人里が嫌いですからね。人のいない場所を探しに行ったのかもしれません」
「それなら・・・まあ、仕方ないのかなぁ」
このパーティのリーダーであるミルザ。
彼の人嫌いは、実は相当なものだ。
彼が今でも旅をしている理由は、人里にいたくないからというのが大部分を占めるほどだった。
食料などの必要な物資が少なくなればこうやって町や村に寄るけれど、長期の滞在は望まないのだ。
まあ、それも、ユーシスが知っている限りの彼の過去を考えれば仕方ないことなのかもしれない。
公私混同だけはしていないから、いいとするべきとすら思っていた。
「それでも、仕事はしっかりしてもらわなければならないわけですし、テスタが戻ってきたらまず探しに行かないと、ですね」
「そうだよねぇ」
話をしながら、ユーシスはアスレイドの向かいの席に腰を下ろす。
ぱらぱらとメニューを捲って暫く考えてから、店員を呼んでモーニングを注文する。
「おっと、ここにいたのか」
運ばれてきたそれを食べながらアスレイドと今後の予定に話し込んでいると、ふと手元が陰って、耳に馴染んだ声が落ちてきた。
顔を上げると、そこには黒髪と真紅の瞳を持つ少年の姿があった。
目が合った途端、彼はにっかりと微笑んで片手を上げる。
「よっ!ただいまー」
「テスタ。おはようおかえりー」
「おかえりなさい。どうでしたか?」
「一応見つけてきたぜ。あいつには怒られそうなもんばっかりだけど」
そう言った彼がテーブルに並べた、斡旋所が紹介してくれた仕事の依頼書をアスレイドと2人で覗き込む。
斡旋所とは、旅をする冒険者向けに仕事を紹介してくれる場所だ。
冒険者向け、なのだから、当然危険な仕事は付き物だった。
「魔物退治かぁ。ミルザ、確かにこういう仕事、あんまり好きじゃないもんねぇ」
とは言っても、あそこに回ってくる仕事のほとんどは今回テスタが受けてきた魔物退治か護衛の仕事がほとんどだ。
治安の悪い街や自警団のない村などなら盗賊退治などもあったりするけれど、どちらにしてもそんな仕事ばかりだった。
その中から選べと言われれば、ミルザの人嫌いを知っているテスタがこの魔物退治の仕事を引き受けてくるのは当然だった。
「まあ、それしかなかったって言えば納得してくれると思うけどなー。で、当のミルザは?」
「朝から行方不明です」
「って、またかよ・・・」
アスレイドの答えにテスタは思わず額に手をついてため息を吐き出す。
ミルザが町にいたがらないのはいつものことなのだけれど、一番付き合いの浅い彼はまだそのことに慣れないらしい。
「お腹が空いたら戻ってくるわよ。来なかったらあたしたちだけでその仕事行きましょ」
あっさりとそう告げた途端、テスタは弾かれたように顔を上げた。
その真紅の瞳をまん丸にして、まじまじとユーシスを見つめる。
そして、ぽつりと呟いた。
「ユーシスって、時々すんげえクールだよな」
「はい?」
「ユーシスのはクールとは違う気がしますが―――」
テスタのその呟きに、意味がわからなかったらしいユーシスが首を傾げ、アスレイドが呆れたように呟いたそのときだった。
突然食堂の入口が騒がしくなった。
悲鳴まで聞こえるそれに、アスレイドは思わず口に仕掛けた言葉を飲み込み、振り返る。
「なんだ?」
そう呟いて、テスタは遠くを見るように目を細めた。
見れば、店の入口で中年の男が、店の中に向かって叫んでいた。
「おおーい!誰か来てくれっ!行き倒れだーっ!!」
その言葉に、サンドイッチを取ろうとしていたユーシスの手が止まる。
「行き倒れ・・・」
「それってまさか・・・」
アスレイドとテスタが、思い切り眉を寄せ、顔を見合わせる。
3人の頭に浮かぶのは、ある人物の顔。
「誰かああああっ!」
そんな3人の反応など知るはずもないまま、男は助けを求めて声を張り上げ続けていた。
「なあ、あれってもしかしなくてもさ・・・」
「ミルザですね」
「ミルザだわ」
行き倒れの姿は見ていない。
けれど3人は断言する。
「なんか・・・予想はつくんだけれど・・・」
はあっと、とても大きなため息をついたユーシスが、席を立った。
一瞬だけアスレイドとテスタへ視線を向けたかと思うと、そのまま食堂の入口に向かって歩き出した。
覗いてみれば、そこに倒れていたのは案の定、彼女たちの仲間である茶色い髪の青年だった。
「ミ―――リフィス、どうしたの?」
そこにいた人物の側まで行って、しゃがみこむ。
うっかり本名で呼ぼうとして、慌ててミルザが普段街中で使っている偽名を口にする。
彼は自身のその知名度から、町で本名を名乗ろうとはしなかったから。
「嬢ちゃん、こいつの連れかい?」
ミルザに向かって声をかけると、傍にいた男が声をかけてきた。
「はい。彼、どうしたんですか?」
「わかんねぇ。町外れの祭壇の前で倒れてたんだ」
「さい、だん?」
その言葉を聞いた途端、それまで感じていた嫌な予感が何倍にも膨れ上がった。
どうしようかと悩んでいると、突然がしっと腕を掴まれた。
何かと思って視線を向ければ、ミルザが必死に手を伸ばし、ユーシスの腕を掴んでいた。
「ゆー・・・しす・・・く、くすり・・・」
ああ、嫌な予感的中だ、と思ったのはこの瞬間だったかもしれない。
「・・・・・一応聞くけど、何したの?」
「祭壇の果物が、おいしそうだった・・・」
その言葉を聞いたユーシスは、わざとらしく盛大なため息をついた。
つまり、ミルザは町をうろうろしていて祭壇を見つけ、そこに備えられていた果物を食べたのだ。
いつからそこに備えられているかわからない、食べて大丈夫な鮮度かすらわからないそれを、いつもの拾い食いの癖を発動して。
震える手で自分の腕を掴むミルザを振り払って、ユーシスは立ち上がった。
ミルザの横に回って、片足を高く上げる。
そして、きょとんと自分を見上げるミルザの腹に向かって、ブーツを履いたその足を振り下ろした。
ぎゃっと小さな悲鳴を上がったが、気になどしない。
「ちょっ!?嬢ちゃんっ!?」
「路地にでも放置してください。そのうち回復して戻ってきますから」
驚く男にそれだけ言うと、腹を抱えてびくびくと震えるミルザを放置し、テーブルへと戻る。
席に座ることはせずに、優雅に紅茶を飲んでいたアスレイドに笑顔で声をかけた。
「アスレイド、食事は終わった?」
「ええ」
「そう。じゃあ仕事に行きましょう。いいわよね?テスタ?」
「は、はい」
呆然としていたテスタも、その笑顔のままで尋ねられたら拒否などできなかったらしい。
こくこくと頷いた彼を連れ、朝食分の会計を済ませると、3人で連れ立って食堂を出て行く。
「く・・す・・・ぐふ」
去っていく仲間たちに手を伸ばそうとした青年は、振り返ろうともしない彼らを追うことも出来ずに、その場で意識を失ったという。