面倒
ベルの鳴った音がした。風祭は家にインターフォンと言う物を付けていなかった。もともと付いていたものをわざわざ業者を呼んで取り外して貰ったのだ。顔を合わせずに人と話す、ということが元々嫌いな男だったし、そもそも風祭に用のある者なんてほんの僅かしかいなかった。
それでも、そのほんの僅かの人の為に、インターフォン以外の何か来訪者を知らせる為のものが必要だった。そこで風祭はどこか遠い国で楽器として用いられている金色の重いハンドベルをドアの前に置くようにしている。そのきらきらした音が、今鳴ったのだ。
一瞬、風祭はいつもの画商が訪ねてきたのだろうと思ったが、直ぐに首を横に振った。あの女はそういうところはよく気のつく奴だった筈だ。現にここ数年間共に仕事をしてきたが雨の日に仕事の話をしにきたのは一度も無い。そこが気に入ってその画商と契約しているのだ。
ならば一体誰が来た。
宅配便か。いやしかし通販で買い物をした覚えもないし、物を送ってくるような知り合いもいない。ならば新聞の勧誘か。それなら放っておいてもいいかと思った瞬間二度目のベルが鳴り、しぶしぶ席を立ち上がった。ああ、面倒臭い。
廊下を歩く度にぺたぺたとした素足特有の、足が床に張り付く音がした。廊下の床は冷たいがスリッパを探す気もない。電気を付けていない玄関は、暗かった。
「失せろ」
がちゃりとドアを開けて、それだけを言って閉めた。閉めようと、した。が、何故かドアは開いたままの状態から動こうとしない。ぐいぐいとドアノブを引っ張っていると頭上から声がした。若い男の声だった。
顔をあげてみると、そこには背の高い猫のような目をした男が居た。くるくるとカールした肩程までの黒い髪からぽたぽたと水滴を垂らし、ぐっしょりと濡れた真っ黒のシルクハットを被ったずぶ濡れの男だった。まとわりついている甘ったるい、どろりとした匂いから、それが今降っている雨のせいなのだということは容易に想像できた。
現に、男は傘を持っていない。
「顔すら見ずに追い返す事は無いだろう」
顔は美しく整っていて、およそハンサムと言っていいものだったが、浮かんでいる手品師のような笑みが全てを台無しにしていた。
けれどその気味の悪さはきっと風祭にしか分からないものだろう。何故ならその甘ったるい笑い方は雨の匂いにとても良く合っていたからだ。
「少しだけ、雨宿りさせてくれないか」