第32話
実に、久しぶりに陽のある間に帰宅出来た。
玄関で帰宅の旨を伝えると、待ち構えたかのように駆け寄ってレオの腰にぎゅっとしがみ付いたのは息子のフィルバートである。
「ちちうえーーーー、おかえりなさいませーー」
「ん。ただいま、フィル」
黒い髪に黒い瞳の母譲りの色を持つとは言え、顔の造作は父そっくりで極東人らしく輝く瞳を持つ息子を片腕に抱き上げると、いつもなら出迎えてくれるはずの妻の所在を訊ねる。
「母上は如何したの?」
「なんだか、おしごとがむずかしいって。おひるから、ずーっとおへやにおこもりです」
「そうか。フィルは、一日如何していたの?」
「サムおじさんからいただいたけんで、れんしゅうしていました。こんど、そうげんのおじいさまにうまくなったところをみせたいです」
「そう、頑張ったね」
「ちちうえー、ぼくとあそぼうー」
「うん、そうしよう」
家令に荷物を預け、レオはフィルバートを腕に、子供部屋へと向かう。
フィルバートが魔法使いでない事は良かったのかもしれない。
仕事にかまけていたら婚期を逃してしまったかもと、ぼやいているのか言い訳しているのかわからないサミュエル・ランド伯爵は折々に家に顔を出してはフィルバートを可愛がっている。
奥方を迎えるのに遅すぎるってことは無いでしょうよと言うが、俺ぁ一代限りの伯爵だからな、とあまり気乗りはしないらしい。南方軍と王都の行ったり来たりが多く落ち着いた生活では無いことと、おそらくそれが性に合っているというのが理由のようにも思えた。
まぁ、自分達より10歳は上の良い大人で、どうやらそれなりのお付き合いの方は居るようだからお節介はやめておこうとセオフィラスと意見を一致させてはいる。
そのセオフィラスは、まぁ実に堅実かつ打算的に妻を迎えた。
ますます、この国の中で発言権を強化しているようである。
親友は如才ない、の一言に尽きる、とレオは実感している。
「ちちうえ、あんごうぱずるをといてください」
「うん、一緒にやろうか」
「はい、まじゅつしょもみたいです」
「すごいなぁ、フィルは」
魔法使いでない、ということで草原の岳父は少々息子に入れ込んでいるようである。
何れは、草原の戦士として比類無き様に育て、彼の理想の"ハルフェンバック子爵"にしたいらしい。
ちょっと面倒くさいところがある親父殿ではあるが、草原部の者にとって心強い存在としてレオを見てくれており、また彼の息子も目に入れても痛くない孫として扱ってくれている。
それに、可汗の公主たる妻が、実父がフィルバートを好き勝手するのを許すはずは無いだろう。
草原の者としての良い部分は存分に学ばせ、だが決して可汗の言いなりにはならない、という矜持が見え隠れすることに、やはり妻は豪胆だと感服するより他は無い。
「・・・ここは何だろうか?」
「わかんない」
「ん、この暗号をもう一回一緒に読んでみようか?」
子供部屋で、息子を膝に乗せ、絵本代わりに魔術書を読んでやる。
暗号パズルは魔術師としての教育の第一歩であり、フィルバートには無用のものであることは承知しているが、息子との時間を過ごすのにこれは一役を買っている。
彼自身も、父である自分と共有出来る物として楽しんでいるようである。
ホント、可愛いなぁ。
自分の子供がこんなに可愛いものかと思うに付けて、己が養父に思いをはせることが増えた。
・・・あの人も、苦しかったのだろうか。
俺なんかが生まれてしまって、気の毒なことをしたのだろうか。
兄もまだ子供だったはずだから、周囲の大人の反応に敏感だったのだろうと思う。
フィルバートが成長するにつれて、年々、郷里の養父や兄に申し訳ないという気持ちの方が強くなる。
一度、詫びの言葉くらいは言っても良いのだろうか。
今日持ち帰った荷物に含まれている辞書を思い出す。
年月は、極東の言葉がすんなり出てくる事が難しくなっている程度には経っている。
西国の言葉と草原のそれが、レオの思考の中心に置き換わって久しい。
極東らしい格式を備えた手紙は無理でも、せめて生きている事だけは伝えて、もう自分のことは居ない者として扱って欲しいとは言えるのでは無いか。
父にとって、自分を西国式の修道院に入れるのにはそれなりに財力を必要としたはずだ。
母子を一緒に放逐するには外聞が悪いにしても、屋敷に閉じ込めること無く金をかけてまで自分の目の届かない所に置いたのは、せめて距離を取ることでなんとか自分の内面に折り合いを付けようとしたのかも知れない。
自分が記憶する冷淡さを持つだけの人では無かったのかもしれない。
「ちちうえ、どうしたの?」
「あ、ごめん」
少し思考にふけっていたら、パズルの答え合わせをしてくれない父を急くような息子の声に、気を持ち直した。
文字が綴られた魔方陣の上に手を置いて、軽く魔力をかけると。小さくも可憐な花が緑の茎や葉と共に、一瞬のうちに芽生えて成長し、消えた。
「成功だね」
「すごーい」
小さな手を叩いて、にぱっと幼く笑う顔。
その笑顔が今までに無い琴線を軽く刺激する。
自分によく似ている、と皆言うし、俺もそう思うけど。
・・なんだろう、"誰か"に似ているんだよなぁ。
草原の親戚の内の誰かだろうか、と天井を見上げる。
「あらぁ、あたしだけのけ者?」
いつの間にか、自分の隣に妻が座っていて少しへそを曲げていた。
「お帰りになったのに、なぁんにも言わずにフィルと遊んでいたの?」
「だって、君は仕事が忙しいって部屋に籠もっていたそうじゃないか」
「頭にくる手紙にどう返事してやろうかしらって下書きしてたんだもん」
んん?とレオは片方の眉をつり上げた。
今度は仕事を終えた母に甘えようと自分の膝から移動する息子を渡しながら、にこやかに念を押す。
「それ、そのまま出さないよね?」
「もちろんよ。リオンに見てもらって、振り上げた拳を下ろした内容にする」
ハルフェンバックの女主人を侮るかのような物言いをする者は稀にいる。
ふつふつとした怒りが文面に表れやすい妻の手紙を一度見て、おさめた内容に修正するのは領主として大事な仕事である。
「一度、こう振り上げた拳で思いの丈を書いたあとに、暫く置いておく」
「それが賢明だね」
「リオン、あたしがいつも商家相手に喧嘩売ってるみたいに思ってない?」
「思ってないよ? いつも、どんと構えてて格好いい奥さんだなーって、尊敬していますよ?」
「調子良いわねー、もう」
お前がぶち切れると被害甚大なんだよな、とはアマデオに指摘されてきたが。
妻が怒りの頂点に達すると、自分以上に大変だと思っている。
草原相手にふざけた商売を仕掛けてきた商家相手に、静かに激怒した妻の幽鬼のような美しさに何度か肝を冷やした上に、とばっちりの八つ当たりを喰らった身としては、そうなる前に調整をするのが"ハルフェンバック子爵"の最大任務と心に決めている。
手紙と言えば、レオは言葉にしてみる。
「極東に手紙を出すって難しいかな・・・・」
「え?」
「家の名前だけで届くものかな・・・」
草原部の東部には、極東の貴族とも姻戚関係を結んでいる者がいると聞く。
今でも中央に屋敷があるはずだから、京師に行くことがあれば届けてもらえるだろうか。
「あまり、詮索しないで届けてくれる人って、アーニャの知り合いにいる?」
「いるわよ。お父様の側近だけど、距離がある人」
可汗が滅ぼしたとある一族だと妻が言う。
「部族長はすでにお父様が殺してしまったけど、子供達や部下は良い配下として暮らしているわ」
何かを察したような妻の笑みが、大変頼もしい。
「あたしにお任せあれ、よ?」