第31話
「じかんちょー、じかんちょーーーー」
どこからかそんな間延びした声が聞こえてくる。
あぁ、あの見習い君だな、とその調子で判断する。
手元の書類をめくりながら、そんな間抜けな言い方は叱られるだろうと自分の思考の奥で呟く。
これは、新しい侍女見習いの紹介状だ。女官長に持って行って配属先を相談しないと。
リネン類の納品書・・・なんでここに来てるんだよ、しかも検収サインないし・・・。
あ、この発注責任者、新人のあの子か、やれやれ仕方ないなぁ・・・。
この辺片付いたら今日は早上がりだから、久しぶりに日暮れ前に帰宅できそうだ。
最近フィルバートの寝顔しか見ていないから、少しは遊んでやれるかなぁ。
その時、別のひときわ大きな声がレオの肩を揺らした。
「ハルフェンバック侍官長!!」
「え! あ、はいっ!!」
見ればと、見習い侍従と、本来なら先輩とも言うべき女官が困ったような表情で扉が開け放たれたままの執務室の入口に立っている。
執務室は、レオが在室していて対応可能な場合はいつも扉を開放しており、用事があれば声をかけてくるようにと周知しているので、どうやら何度か呼ばれていたらしい
自分が呼ばれていたのだと、ようやく把握してレオは素直に謝った。
「あ・・・すみません・・・・」
「まぁた、呼ばれても自分のことだって認識出来ていない」
「そろそろ慣れてくださいよー、じかんちょー」
手元の書類は、立派に王宮内の使用人を統轄する侍官長のそれだというのに、 一月経っても未だ呼称に慣れてくれない上司に二人はため息をついた。
「イェルヴァ様のご様子を見に来た侍医様が後で侍官長の執務室に寄ると仰っていたので、僕が先触れに来ましたぁ」
「あ、そうか。約束していたんだっけ」
「では、お茶のご用意を・・・」
「いえ、自分で用意しますから、お気遣いなく」
「乳茶なら厨房を借りられますか?」
「いえ・・・普通ので・・・」
「・・・・・・・」
そこで、なんとも微妙な顔つきになった二人に、レオはコホンと咳払いをした。
「侍医殿は、私の淹れた普通のお茶で良いそうです」
「随分酔狂な侍医様ですねー。じかんちょーの淹れたお茶で良いって」
「失礼なこと言わないのよ」
「だって、渋いか薄いかの二択じゃ無いですか」
見習いの忖度を一切感じない言葉に、渋面になりながらも女官は見習いに努めて丁寧に諭す。
「あのねぇ、上司で子爵様にそんな口効いて、いくらレオ様がお優しいと言っても・・・」
「じかんちょーにも苦手な事があるんだなーって思えると、僕らも頑張ろうって思えるじゃ無いですかぁ。三カ国語扱うし、宮廷魔術師並みの魔法使いで時折近衛騎士の手合わせのお相手に指名される程度ですし、あの陛下がたまに我が儘言うくらいに信頼されてるしって、ぱっと見なんだか隙が無いように見えるのに」
こういうのを如才ないとでも言うのだろうか。
なんだか過分に持ち上げられたような気がして、少々困った顔でレオは見習いを促す。
「そういう調子の良いことは良いから、君は持ち場に戻りなさい。それから、もう少し言葉遣いをしゃきっとしようか?」
「はぁい、しつれいしまーす」
聞いているのかいないのか。
のんびりした口調でそう返事をすると見習いは足早に執務室から出て行く。
その背中を一瞥して、女官は大きく息をついた。
「もう行った側から・・レオ様、少し甘すぎやしませんこと?」
「その分、貴女がいつも皆を厳しく指導してくださるから、私が少々抜けてても良いんですよ」
目を細めて、微笑みつつ首をかしげると、さらに女官の眉根が寄る。
「そういうお顔をされると、こちらも仕方がございませんわねぇって、なっちゃうじゃぁないですか、もう。はい、書類のご確認をお願い致します」
「はい、いつもありがとう。・・・・・貴女のお仕事は抜かりが無いですね」
「そうやっておだてて、人にお仕事させるの、本当お上手ですわねぇ」
呆れられたのか褒められたのかよくわからないが、レオはへへと肩をすくめる。
女官は、口元をそっと手で隠すような仕草と共に密やかに訊ねる。
「最近、あの侍女見習いが急にやる気を出して真面目に働くようになったんですけど、どうやったんです? ほら、少々見目の良い近衛騎士に目が行きがちな・・・」
「あぁ、あの子最近頑張ってるね。どうやったって・・・あぁ、あれかな? この間私に"男性は女性のどんなところを見て結婚しようって思えるのでしょうか?"って聞いてきたから、"他の人の事は知らないけど、私の場合は、奥さんが領地経営の仕事に打ち込んでいるのが格好良いって思ったからかな。こういうことは男女関係ないでしょう"って言っただけだけど?」
「あ、なるほど。だから、"あたくし、まずは仕事がんばります"って言い出したのか」
女官の得心がいったような表情を確認し、レオは笑顔と共に書類を返す。
「はい、サインしました。・・・まぁ、俺をダシにして皆がやる気になれば結構結構」
「本当、お上手なんですから」
そう言いつつ、渡された書類を確認し、女官は一礼すると執務室を去って行く。
その背中を確認して、レオは来客の為のお茶の準備をすることにした。
23歳でハーリヴェル家の女婿となり、ハルフェンバック子爵を相続してやがて5年にはなるかもしれない。数年前に息子が生まれ、まさかこの国で妻子を得るだけでなく爵位までくっ付いてくるとは露ほども思っていなかっただけに、今の境遇はなんとも不思議としか言えなかった。
ハールヴェル家の現当主・・当時はハルフェンバック子爵と呼ばれた男性に折り入って個人的な相談があるのだけれど、と言われ、いつもの草原部に関する勉強会の後に時間を取ることになった日のことを思い出す。じゃあ俺は失礼するよとその場に居た国王がさっさと退席し、本来の主人が居ない状態なのが少々居心地が悪かったのだが、街中で部屋を用意するよりはここの方がゆっくり話ができるという子爵が妹である令嬢を隣にして切り出した話に、レオは思わず手元の茶器をガチャガチャと鳴らしてしまった。
君、妹と結婚してくれない?
単刀直入な言葉に、動揺して茶器をぶつけるわ、はい?という返答すら声が上ずるわのレオに、ニコニコと笑みを維持したまま子爵がつらつらと割と勝手な事を言い出す。
私もね、そろそろ家督を継ぐ準備が出来てきたんだ。そうなるとハルフェンバックの方はどうしようかなって。実務はアーニャがずっとやってきているし、草原部の皆からの信頼も厚いし、態々私が口出すことは何も無いしね。妹に婿を取らせた方が領地は上手くいくんじゃ無いかなと以前から思っていたんだよ。で、婿になってくれる男性には、当主面してアーニャの仕事の邪魔をして欲しくないし。そういう意味では、何処かの貴族の次男坊とか三男坊とかだと都合が悪くてねぇ。君なら、妙なしがらみもない上草原部のことにそれなりに知識もあるし、王城での面倒見の良さで草原部のほうでも評判は悪くないしねぇ。あ、じゃあ、後は二人で話してみて。私も席を外すし。
と、あっという間に退室してしまった
令嬢と二人きりにされてしまい、ほとほと困ったという顔のレオの様子を、すこし上目のアニーシャがおそるおそる覗う。
「・・・ごめんなさい、急に聞こえるみたいだけど。・・その、前に兄様に"例えばどんな人が良いの?"って聞かれたときに、最初はね、具体的には言わなかったんだけど。・・・ぽろっとゲゼル侍官が良いなって言ってしまったら、それは良い案だって言い出してすごく乗り気になっちゃったの・・」
「貴女には別にお話あったでしょう?」
「陛下は、ご側室は要らないってずっと前から仰っていたの。あたしも、本音では嫌だったから、嬉しくて。それで、だったらあたしにゲゼル侍官を下さいって言ったら、"おう、許す。持って行け"だって」
俺はモノじゃねぇよ、と後で旧友に苦情は述べることにして。
レオは、やっと冷静さを取り戻し、腕を組む。
「だからって・・・俺は極東人ですよ?」
「あたし、半分草原の者よ?」
「俺は、王城で陛下の側で働く以上のことをやるつもりは無いですよ?」
「子爵の地位は、貴方が陛下の為に出来ることを増やすと思うわ」
「公爵・・・お父上や、草原の可汗はご納得なさらないのでは?」
「お養父様は、貴方のことを好意的に見ているわ。リッテンベルグ卿と仲良くされておいでなのはお茶会の時の様子でよくわかるし、それに陛下が貴方には我が儘を言うくらいにはお気を許されておいでだっていうのも耳になさっていて、他家の勢力に囲われる前に手を打つ必要がありますねぇって兄様に言われて少し気になさっておいでなの。それに、兄様が当主を継いだら、あたしの夫については兄様の一存で決められる。第一、草原のお父様が他家に養女に行ったあたしの結婚に口を出す謂れは無いわよ。・・・貴方の身元保証人のランド伯からは"本人次第です"とお答え頂いたし」
「それって、俺の外堀がほぼ埋まってるって言うことですかね?」
流石に苦言を呈すると、ご令嬢はほんの少々赤らんだ頬を手で挟む。
「流石にちょっと逃げ道なさ過ぎじゃないのかしら?って言ったんだけど。リッテンベルグ卿も陛下も、"それくらいしないとレオは駄目"ですって」
あの二人は、絶対シメル。
眉根を寄せて瞳を閉じ、腕を組んだまま、一見苦悶とも言える様子で内面の整理につとめていると、少しこちらを案ずるような幾分潜めた声が続く。
「・・・あの、でも、陛下は、"それでもレオが嫌だって言うなら無理強いしないで欲しい"とも仰ってるの。あたしも、貴方があたしの夫になるのが嫌だと仰るならもちろん引き下がるし」
「ちょっと待ってください。俺が貴女の事が嫌かどうか、って話だけ?」
「うん、そうよ?」
「身分がなんとか、って話ではないのですか?」
「陛下は、貴方が要らぬ苦労をするんじゃ無いかとご心配なさっているのはわかっているけど、そもそも貴方に"ハルフェンバック子爵"としてこの国で上手く立ち回って欲しいって話をしているのでは無いわ。あたしにとって、貴方はあたしが進もうとしている道の先をきっと一緒に見てくれるだろうと思える人なの。だから、あたしも貴方がこの国でどんな事があってもやろうと思っていることを一番近くで見ていていたいなぁと思っているの。・・・それでは、駄目かしら?」
と言う事で、何だかんだで"ハーリヴェル家のお嬢様"を妻とすることになってしまったのである。
妻は、やはり豪胆な女性であった。
商家の旦那衆も、草原部の荒くれ者の長達も、はたまた世の厄介親父の代表格のような実父にも、彼女は臆すること無く、言うべきことを自分の言葉で伝え・・、いや、たまに煙に巻いてのらりくらりとかわし、水を得た魚のように生き生きとハルフェンバック領の女主人をやっている。
結婚後、子爵位を得たという事からかはたまた別の理由か。
レオの身辺も少々変化してきた。
今までの王城の極々狭い空間だけの世界を中心としてきた生活から、家庭や領地、草原部と視界が広くなる。妻の仕事を手伝い、自分の目から見えることを彼女と話し、そして時にはどうにもならない鬱積したものを捌いたりとしている内に、どうやら自分の仕事の方にも少々影響が出てきたようである。
お前、意外と人をこき使うの上手いよな、と言ったのは、国王であったか、もと同僚の侍官であったか。
少々、王城へ出仕する動機が必ずしも仕事に向いていない侍従や侍女達をやんわりと方向修正するのに、それなりに自分は役に立っているかも知れないとは思えるようになった。
そのために多少妻をダシにしているのは、すぐに露見したが、"恥ずかしいわねぇ。ま、それで仕事が上手く回るんならいいわよ"とちょっと耳が赤くなったくらいでおとがめ無しだったので、臆面もなく"俺の奥さん格好良いんだよ"をやっている。結婚前から知っている同僚達からは"あのトンチキが惚気るなんて"と揶揄われるが、まぁそのくらいで仕事が回るなら結構結構というところだ。
そうやっていたら、いつの間にやら国王の側付の侍官の中で筆頭格になり、数ヶ月前に前任の侍官長がそろそろ職を辞するという時には、後任としてレオが推挙されたのであった。
「今日も目が覚める感じで良い渋さだなぁ、リオン」
「段々、当薬でも貴方ならわかんないじゃないかって気がしてきましたよ」
お茶の準備をして程なく、丁度良い頃合いで執務室に現れた侍医に茶を入れると、やはりちょっと蒸らしすぎたようで渋みの強い味になってしまった。
それを慣れたように一口飲んだ後、侍医は懐の袋から本を2冊取り出す。
「ほい、できたてホヤホヤだ」
「あ、出来たんだ」
医者の肩書きに加えて、最近では草原部や砂漠の言葉に詳しい学者とも言われるようになった侍医は、とうとう極東の言葉に関する辞書を作成するに至った。
王都内で東方の物産を扱う商会の使用人を始め、都内に極僅かいる極東人、そしてレオの力を得ながら、先ずは形にしたと言う事になる。
「レオの分は2冊な」
「1冊で良いのに」
「お前が一番の協力者だからな」
この国に居る極東人は、極東でも良家の出自というわけではないので、結局あちらの教養には暗い。
西国式の修道院育ちではあるが、極東の貴族階級の出自であるレオはそれなりに極東での教養も身についてはいるので、その意味では他の者よりは少々役割は大きかったようである。
東方王国の極東人はそれなりに事情を抱える者が多いので、互いに詮索をしないのが居心地が良い。
商売そのものも、草原部やたまに砂漠の者を仲介することが大半で自ら極東に出向こうと言う者は居ない程度には、郷里との距離を大事にしている。
だけど、ごく稀に、自らが極東の生まれであることを確認したくなる瞬間があるのだろう。
皆、侍医の辞書作りに、少々の高揚感を持って関わったのは事実だ。
「ま、草原や砂漠に比べて、この国で極東語の辞書なんてあんまり役に立つことは無いんだろうけど。俺の自己満足だよ」
数十冊程度しか作成していない上、結局自費による私家版でしか出せていないということで少々自嘲ぎみの侍医の言葉に、レオはいえいえと破顔した。
「100年後にはすごく役立つかも知れませんよ?」