奥村さん編・後編:ラスボス攻略の最終決戦
翌日、私は一枚の名刺をそっとポケットに忍ばせ、奥村さんのシフト時間に合わせてあのコンビニへと向かいました。
連日の激しい引っ越し作業による疲労も、慢性的な寝不足による体のふらつきも、今日ばかりはまったく気になりません。
名刺を渡すこと、それが今日の最優先事項でした。
まあ、なんだかんだで甘いものもついつい買い込んでしまうのでしょうけれど。
こういうしょうもないところで妙に見栄を張ってしまうのは、男の性というものでしょう。
ですが、そんなことは些細な問題に過ぎません。
私にとっては、これこそが自分なりの「ラスボス攻略の最終決戦」だったのです。
自動ドアが開き、意気揚々と店内へ足を踏み入れました。
ところが、店内を二周してみても、どこにも奥村さんの姿が見当たりません。
レジに立っていたのは、初見の店員さんでした。
私は会計の際、思い切ってその店員さんに尋ねてみました。
「あの、すみません。いつも会計をしてくださっていた奥村さんという方は、今日はお休みでしょうか、、、」
問いかけられた店員さんは、少しだけ首をかしげたあと、淡々とこう答えました。
「ああ、奥村さんなら、先月いっぱいで辞められましたよ」
その言葉は、たしかに耳に届いているはずなのに、頭がまったく理解を拒んでいました。
「そ、そうですか、、、変なことをお聞きしてしまい、申し訳ございませんでした」
頭が真っ白になりながらも、まずは理由もなく相手に不快感を与えていないかと店員さんに謝罪を口にしてしまう。それが身体に染みついた私の「紳士道」の性分でした。
あれほど意気込んでいた決戦は、あまりにも唐突で、思いもよらない形で終わりを告げたのです。
私は和菓子を虚しく腕に抱えたまま、失意の中で一人マンションへと戻るしかありませんでした。
マンションへと戻る道中、私の頭の中では脳内演算が目まぐるしく加速していました。
なるほど、なるほど、、、そういうことか。
「あの時、強引にお姫様抱っこをして店から連れ出せばよかったんだ!」
――いや、絶対に違う。
「そもそも、全部私の痛々しい勘違いだったんだ」
――いや、それも違う!
「これで結ばれたって、どうせあの頭痛のせいで捨てられる運命だったんだから、これでよかったんだよ」
――いや、それだって絶対に違う!
「そもそも、そもそもさ、ただ単にタイミングが合わなかっただけなんだ。釣りで例えるなら、アタリがあったのにアワセ(針がかり)損ねた。ただそれだけの結果じゃないか」
――いや、絶対に違う!
「見にいきたい!と言ってくれた時が最終決戦だったんだ。私は後出しじゃんけん的なズルをしたんだよ」
溢れ出して止まらない、自分を慰めるための必死な言い訳の数々。
涙は一滴も出てきませんでした。
ただ、重く冷たい溜め息ばかりが、何度も何度も胸の奥から漏れ出ていく。
けれど、こればかりはもうどうしようもありません。
それでも、あの時はお互いに小さな幸せを育んで共有していたはずです。
彼女のあの最高の笑顔が、私の心をどれほど救い、癒やしてくれたことか。
それなのに、私は奥村さんに何一つとしてご恩返しができませんでした。
後悔というのは、、、きっと、こういう体験のことを言うのだろうな。
和菓子の袋を抱えながら、私は深く静かにそう痛感していました。
マンションへ着くと、玄関先まで舞々が出迎えてくれました。いつも変わらぬ温もりでそっと寄り添ってくれる、本当に優しい子です。
この子に逢いたがっていた女性がいたというのに、もう連絡を取る術すら残されていません。
あの日「見に行きたいな」と言われたあの瞬間に、舞々をリュックに入れて、すぐさま奥村さんの元へ駆けつけるべきだったのでしょうか。
一体何のために、私はこれまで日々報われない努力ばかりを重ねてきたというのでしょう。
静まり返った部屋の中で、不毛な自問自答ばかりが激しく渦を巻いていました。
「私は人間ではないのかもしれない。家畜と同じ『ウシ・ウマ・ヒト』の類いであり、繁殖能力を持ち合わせない、雄・雌の区分で言うところの『カス』なのだろうな、、、」
激しい失意に呑まれかけたその時、俯瞰する心が、そっと諭してきました。
『カスにはカスなりの戦い方があるじゃないか。子孫を残せなくたって、今ここには大切な家族である社長や犬たちがいてくれる。それだけでも十分じゃないか』
『なんなら、落ちるところまで落ちたのだから、猫足キックでカスの最上級——トップクラスの最下位でも目指してみようじゃないか!』
努力というものは、目に見える形ですぐには報われないかもしれない。
そう思い至った時、玄関でしっぽを振る舞々の姿が目に入りました。
私はもう、今でも十分に幸せなのです。
◇
ため息ばかりをついてはいられません。
工房の引き払い期日は、刻一刻と迫っていました。
荷物を満載にしたハイエースを走らせ、真夜中の高速道路へ出ます。
次々と頭上を過ぎ去っていくトンネルの照明が、まるで終わりなき線路のように幻想的に眩く伸びていました。
ハンドルを握っていると、どうしても余計なことばかりが頭をよぎります。
「時間」というものは、時にあまりにも残酷です。
ですが、人生の分岐ルート選択時にスタートラインから同時に勝負をしない事には結果に結びつきません。
「勝負を諦めて妥協するくらいなら、敵わないとわかっていても諦めないで挑んだ方が経験になるし進む力になる」
いまこうして私がハイエースで夜道を疾走しているこの一瞬にも、どこかで誰かの物語が始まり、またどこかで終わりを迎えているのでしょう。
理不尽な残業で終わりの見えない戦いに身を投じている人だっているはずです。
人は過去に戻りやり直しはできないから、今までの経験で明日に備えるしかないのです。
人の性格を簡単に変えることはできませんが、モノの考え方や捉え方なら、いくらでも変えることができる。人生は実に様々です。
現代は誰もがコスパやタイパを追い求め、最短ルートで華々しく成功しようとする時代です。
ですが、私のやり方は少し違います。
私が割と気にかけてるのは、船舶航行理論でいうところの『スリップ率』という考え方です。
航海には追い風の時もあれば、荒れ狂う向かい波や嵐に見舞われる時もあります。推進力が空回りし、船が計画通りに進まないロスの時間――。
一見すると無駄で無意味に思えるその「空回り」こそが、実は人間における「努力の結晶」なのではないかと私は思うのです。
どれほど必死にあがいても、目に見える結果がすぐに付いてくるとは限りません。
けれど、そのスリップ(空回り)を泥臭い経験値として蓄積していくことで、目に見えない「隠れ属性」のパラメータは確実に上がっていくはずなのです。
SNSを開けば、眩しいほどのキラキラした世界が広がっていて、現実の自分と比べては自分の存在理由が途端に薄っぺらく感じられてしまう。欲しくもない情報が勝手に溢れかえり、知らず知らずのうちにメンタルが削られていく……そんな世の中です。
時代の荒波に呑み込まれそうになりながらも、沈まないように必死でもがき、その時々に足元へ落ちているアイテム(チャンス)を拾い集めては、その瞬間の最善を選択してきました。
上を見ればキリがない。下を見れば後がない。
だからこそ、結果として、細く長く、カビのようにしぶとく生きる。
それでいて、そこそこ楽しく毎日を過ごす。
派手さはありません。
だけど、これが意外と心地のいい「勝ちルート」であり、私なりの一つの答えなのだと実感しています。
◇
板橋の工房を綺麗に片付け、大家さんに挨拶を済ませまして、
北関東の地方都市にある新工房に向かいます。
ハイエースの荷台には後方が見えない程の荷物を載せ、社長と犬達と私で乗り込み出発です。
私は二度目の都落ちですから、喪失感などありません。
思えば、縁というのは不思議なものです。
舞ちゃんが遺していった温もりは、舞々という新しい魂に宿り、今もこうして私の隣にいる。
甥っ子達に教えた小さな処世術は、いつの間にか彼ら自身の力になって、また別の誰かへと巡っていく。
渋沢さんとのすれ違いでさえ、今振り返れば、誠実であろうとした証だったのかもしれません。
誰も見ていなくても、自分の「心の中の神」だけは、ずっと見守っていてくれた。
だからきっと、身近なご縁の全部に、意味があり導きがあったのだと思います。
俯瞰する心は、しみじみと呟いていた。
「なんやかんやと、修羅場を経験してきたし、頭痛(オスミウム・クローの呪い)も全く治らないけど、治らない病気は付き合って行くしかない。
努力の積み重ねと、その時々の判断は概ね正解だったのかもしれない。
振り返ってみれば、私の人生意外と楽しかったのかもしれない」
慎ましやかな生活だったけど、明日からは家賃が掛からない生活が始まります。
北関東の街で社長と犬達と私で、ゆっくりとのんびりと過ごそう。
そう、思うのでした。
私たちの生活はこれからだ!
【ステータス更新】
隠れ属性「風呂場のカビ的生存戦略」耐性、カンスト。
ざーこ♡、カビは人類誕生前から存在する働き者だ!偉いんだ、だから半歩前を向いて進めなのだぁ!
長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。これにて「修羅場を越えたら現実世界の隠れ属性がカンストした件」、本編完結となります。
思い返せば、離婚から始まり、甥っ子達との日々、たくさんの女性との出会いとすれ違い、そして愛犬たちとの暮らし——人生で一番しんどかったことを、こうして笑い話に変えて届けられたことを、本当に嬉しく思います。
読んでくださった皆様、ここまでお付き合いいただき、心から感謝しています。
今後は、カクヨムやpixivにも本作を投稿していく予定です。もし見かけた際は、そちらでもお付き合いいただけたら嬉しいです。
改めて、ここまで本当にありがとうございました。
黒潮かんしゃ
2026/10/02




