紫音
紫音を見つけたのは、県立図書館の閉架書庫だった。
失われた村や、地図から消えた小字を追うため、私はそこへ通っていた。拾い上げた古文書や地籍図を突き合わせ、残された名前から、かつての土地の姿を探る。それが私の仕事だった。
あの日も郷土資料を調べるため閉架へ入り、埃をかぶった地籍図を机いっぱいに広げていた。
明治初期に作られたものらしい。山の輪郭は曖昧で、道は細い墨線一本で描かれている。集落名の多くは、現在の地図からすでに消えていた。
その中に、妙な地名があった。
大滝。
だが、周辺に川はない。等高線を追っても、水が集まる地形ではなかった。滝など存在するはずのない場所だ。
「変ね」
すぐ隣から声がした。
顔を上げると、ひとりの女性が地図を覗き込んでいた。長い黒髪を肩の後ろで束ね、胸元には図書館の名札を下げている。
名札には、紫音とあった。
そうだ。郷土資料の整理を手伝っている人だった。
私はそう思い出した。
「滝じゃないんだろうな」
「どういうこと?」
「土佐では、ダキが崩落地形を示すことがある。大滝ではなく、もとは大崩だったのかもしれない」
紫音は興味深そうに顔を寄せた。
「地名って不思議よね」
「どうして?」
「人が忘れたものだけ残るでしょう?」
「逆だろ。名前だけ残って、中身は消える」
紫音は少しだけ笑った。
「そうかもしれないね」
地図には、ほかにも見慣れない、かすれた名が並んでいた。
四手峠。
観音堂。
鳴無。
土根。
いずれも現在の地図にはない。山林として一括され、道さえ途絶えている。
私は地図を畳もうとした。
本来なら、そこで終わる話だった。
失われた地名など珍しくない。崩落や廃村、道路の付け替え、行政区画の変更。名前が消える理由はいくらでもある。
だが、その日はなぜか気になった。
大滝。
四手峠。
土根。
書庫を出てからも、その名が頭から離れなかった。
「行ってみたら?」
紫音が言った。
何気ない一言だった。
それなのに、妙に心に残った。
「そうだな」
気づけば私は、現地調査の予定を立てていた。
数日後、私たちは山へ入った。
最初に越えたのは、四手峠だった。
古道は雑木に埋もれ、倒木が行く手を塞いでいる。足元には湿った落ち葉が厚く積もり、踏むたびに黒い土の匂いが立った。
「四手って、何だと思う?」
紫音が尋ねた。
「祭祀に関わる名かもしれない。紙垂を四手と書く例もある。あるいは枝垂れる木の訛りか」
「どれが正しいの?」
「分からない。地名は、答えのなくなった謎みたいなものだからな」
風が吹いた。
梢が揺れ、そのざわめきの中に歌が混じった気がした。
私は足を止めた。
「どうしたの?」
「今、何か聞こえなかったか」
紫音は首を傾げた。
それから、小さく口ずさんだ。
「しでのおくやま、けふこえて、わすれしなをたれぞよぶ」
聞き覚えがあった。
地籍図の余白に、細い筆跡で書きつけられていた古歌だ。
「知っているのか」
「地図に書いてあったから」
「いろは歌をもじったものだろうな」
私は峠の向こうを見た。
木々が幾重にも重なり、昼間だというのに奥は暗い。
「しで、ではなく、しげ、かもしれないな」
「しげ?」
「繁る、のしげだ。深山へ入る者を見送る歌だったのかもしれない」
「誰を送るの?」
「さあな」
答えると、紫音は楽しそうに笑った。
峠を越えると、道はいっそう細くなった。
次にたどり着いたのは、観音堂の跡だった。
堂はすでになく、苔むした礎石と、半ば土に埋もれた石段だけが残っている。石段の脇には、錆びた金具のようなものが落ちていた。かつて鰐口か鈴を吊っていたのかもしれない。
「観音様のお堂?」
「おそらくな。山道を通る者が安全を祈ったのかもしれないし、供養の場だった可能性もある」
「誰の供養?」
「それも分からない」
紫音は石段の上を見つめた。
風が吹き抜けた。
からん、と澄んだ音がした。
私は振り向いた。
石段にも、木の枝にも、音を立てるものは見当たらない。
紫音は何も聞こえなかったように、先へ進んでいた。
いつからか、彼女が前を歩いていた。
古地図を持っているのは私なのに。
さらに山へ分け入ると、両側を高い岩壁に囲まれた場所へ出た。
山中では蝉が騒がしく鳴いていた。
ところが岩壁の間へ一歩踏み込んだ途端、その声が消えた。
私は立ち止まった。
「どうしたの?」
「蝉が鳴いていない」
紫音も足を止めた。
風は吹いている。頭上では木々が揺れている。それなのに葉擦れの音も聞こえない。
試しに足元の小石を蹴った。
石は岩にぶつかり、転がった。
だが音は、ずっと遠くで鳴っているようにかすかだった。
私は地図を開いた。
「ここが鳴無か」
「名前の通りね」
「昔の人は、何かを感じていたんだろう」
「あなたも?」
紫音の声だけは、妙にはっきり聞こえた。
私は答えず、岩壁を見上げた。
その奥には、細い道が続いている。
紫音は迷う様子もなく、そこへ入っていった。
岩場を抜けると、再び蝉の声が戻った。
だが先ほどまでとは違って聞こえた。
ずっと後ろから追いかけてくるような鳴き方だった。
やがて大滝へ着いた。
そこは予想どおり、巨大な崩落地だった。
山肌が大きく抉れ、剥き出しの岩盤が谷へ向かって崩れ落ちている。草木に埋もれた石垣が段々に残り、その間には砕けた瓦や、腐りかけた木材が散らばっていた。
かつて、ここに集落があったのだ。
崩落地の端には、倒れた墓石が並んでいた。
どれも同じ姓が刻まれている。だが風化が激しく、名までは読めなかった。
「やっぱりそうだ」
私は思わず声を上げた。
「すごいね」
紫音が笑った。
「本当に地名が好きなんだ」
「仕事だからな」
「私は好きだよ」
不思議な言い方だった。
何が好きなのかと聞こうとしたが、紫音はすでに墓石から目を逸らしていた。
日が西へ傾いていた。
山の稜線が、ゆっくりと茜色に染まり始めている。
私たちは最後の地点へ向かった。
土根。
古地図では、小さな集落の印が記されている。
歩くうちに、私は違和感を覚えた。
周囲は岩場ばかりだった。
剥き出しの岩盤。崩落した巨岩。石と石の間から、痩せた草が生えているだけだ。土と呼べるものはほとんどない。
「妙だな」
「何が?」
「この場所に、土根という名は似合わない」
「昔は違ったのかもしれないよ」
「それにしても、これでは畑も作れない」
「でも、人はいたんでしょう?」
私は地図を見た。
確かに集落を示す記号がある。
けれど、道はいつの間にか消えていた。
獣道さえない。
それでも紫音は足を止めなかった。
道を探す素振りもなく、岩の間をすり抜けていく。
追いかけるうち、妙な疲労を感じ始めた。
足が重い。
息が苦しい。
ほんの数歩前を歩いているだけなのに、紫音の背中が遠く見えた。
何のためにここまで来たのか、一瞬だけ分からなくなった。
「もうすぐ?」
自分の声が、ひどく弱々しく聞こえた。
「うん」
紫音が振り返る。
息一つ乱していなかった。
「もうすぐだよ」
岩場を抜けると、突然、視界が開けた。
山中に不自然なほど平らな土地が広がっている。周囲を岩壁と木々に囲まれ、夕陽だけが真っすぐ差し込んでいた。
紫音が平場の中央まで進み、振り返った。
「ここだよ」
夕陽が、彼女の髪を赤く染めていた。
私は地図を開いた。
「ここが土根か」
一歩、踏み出した。
かり、と足元で何かが砕けた。
白い欠片だった。
獣の骨だろうと思った。山では珍しくない。
私はしゃがみ込み、それを拾った。
軽い。
乾いている。
そして、見覚えがあった。
人の指骨だった。
背筋が冷えた。
ゆっくりと顔を上げる。
岩陰。草むら。石積みの隙間。
白いものが、無数に散らばっていた。
頭蓋骨。
肋骨。
腕骨。
脚骨。
何十。
いや、何百。
夕陽の中で、折り重なるように横たわっている。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。
平場全体が、骨で埋まっていた。
獣の骨は、一つもなかった。
ここは集落跡ではない。
人がたどり着き、帰らなかった場所だった。
私は震える手で地図を持ち上げた。
夕陽に透かす。
そこで初めて気づいた。
土根。
そう読んでいた地名。
だが、違う。
最初の字の下の一画が、わずかに短い。
土ではなかった。
士だった。
息が止まった。
四手峠。
観音堂。
鳴無。
地図に散らばっていた名が、一斉にこちらを向いた。
私は顔を上げた。
紫音は、無数の白骨の向こうで微笑んでいた。
調査の成果を喜んでいるのだと思いたかった。
そのとき、奇妙なことに気づいた。
私は、彼女のことを何も知らない。
いつから図書館にいたのか。
誰の紹介で郷土資料を整理していたのか。
どこに住んでいるのか。
名札には振り仮名もなかった。
誰かが彼女を呼ぶのを、私は一度も聞いていない。
それなのに私は、最初からその名を知っているつもりでいた。
風が吹いた。
白骨が転がり、乾いた音を立てた。
その一つの頭蓋が、空洞の眼窩で私を見上げていた。
紫音が口ずさんだ古歌が、耳の奥に蘇る。
死出の奥山、今日越えて、忘れし名を誰ぞ呼ぶ。
足から力が抜けた。
膝をついた私へ、紫音がゆっくり近づいてくる。
「お前は、誰だ」
紫音は微笑んだ。
「やっと見つけたね」
彼女の影が、私の上に重なった。
私はようやく、その名を読んだ。
紫音。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をいただけましたら幸いです。
本作は、「人が消えたあとも、地名だけは土地に残り続ける」という発想から生まれた怪談です。
名前は、失われた土地を後世へ伝える手掛かりになります。しかし、残された名前が人を待ち続けているとしたら。誰にも読まれなくなった名が、もう一度呼ばれるために誰かを招いているとしたら。
地図の上の小さな文字も、あまり長く見つめない方がよいのかもしれません。
お気に召しましたら他の『続きそうな短編集』も是非、ご覧ください。




