表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

続きそうな短編集【南風と潮騒の伝承】

紫音

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/07/11

 紫音を見つけたのは、県立図書館の閉架書庫だった。


 失われた村や、地図から消えた小字を追うため、私はそこへ通っていた。拾い上げた古文書や地籍図を突き合わせ、残された名前から、かつての土地の姿を探る。それが私の仕事だった。


 あの日も郷土資料を調べるため閉架へ入り、埃をかぶった地籍図を机いっぱいに広げていた。


 明治初期に作られたものらしい。山の輪郭は曖昧で、道は細い墨線一本で描かれている。集落名の多くは、現在の地図からすでに消えていた。


 その中に、妙な地名があった。


 大滝。


 だが、周辺に川はない。等高線を追っても、水が集まる地形ではなかった。滝など存在するはずのない場所だ。


「変ね」


 すぐ隣から声がした。


 顔を上げると、ひとりの女性が地図を覗き込んでいた。長い黒髪を肩の後ろで束ね、胸元には図書館の名札を下げている。


 名札には、紫音とあった。


 そうだ。郷土資料の整理を手伝っている人だった。

 私はそう思い出した。


「滝じゃないんだろうな」

「どういうこと?」


「土佐では、ダキが崩落地形を示すことがある。大滝オオタキではなく、もとは大崩オオダキだったのかもしれない」


 紫音は興味深そうに顔を寄せた。


「地名って不思議よね」

「どうして?」


「人が忘れたものだけ残るでしょう?」

「逆だろ。名前だけ残って、中身は消える」


 紫音は少しだけ笑った。


「そうかもしれないね」


 地図には、ほかにも見慣れない、かすれた名が並んでいた。


 四手峠。


 観音堂。


 鳴無。


 土根。


 いずれも現在の地図にはない。山林として一括され、道さえ途絶えている。


 私は地図を畳もうとした。

 本来なら、そこで終わる話だった。


 失われた地名など珍しくない。崩落や廃村、道路の付け替え、行政区画の変更。名前が消える理由はいくらでもある。


 だが、その日はなぜか気になった。


 大滝。


 四手峠。


 土根。


 書庫を出てからも、その名が頭から離れなかった。


「行ってみたら?」


 紫音が言った。

 何気ない一言だった。

 それなのに、妙に心に残った。


「そうだな」


 気づけば私は、現地調査の予定を立てていた。


 数日後、私たちは山へ入った。


 最初に越えたのは、四手峠だった。

 古道は雑木に埋もれ、倒木が行く手を塞いでいる。足元には湿った落ち葉が厚く積もり、踏むたびに黒い土の匂いが立った。


「四手って、何だと思う?」

 紫音が尋ねた。


「祭祀に関わる名かもしれない。紙垂しでを四手と書く例もある。あるいは枝垂しだれる木の訛りか」


「どれが正しいの?」

「分からない。地名は、答えのなくなった謎みたいなものだからな」


 風が吹いた。

 梢が揺れ、そのざわめきの中に歌が混じった気がした。


 私は足を止めた。


「どうしたの?」

「今、何か聞こえなかったか」


 紫音は首を傾げた。

 それから、小さく口ずさんだ。


「しでのおくやま、けふこえて、わすれしなをたれぞよぶ」


 聞き覚えがあった。

 地籍図の余白に、細い筆跡で書きつけられていた古歌だ。


「知っているのか」

「地図に書いてあったから」


「いろは歌をもじったものだろうな」


 私は峠の向こうを見た。

 木々が幾重にも重なり、昼間だというのに奥は暗い。


「しで、ではなく、しげ、かもしれないな」

「しげ?」

「繁る、のしげだ。深山へ入る者を見送る歌だったのかもしれない」


「誰を送るの?」

「さあな」


 答えると、紫音は楽しそうに笑った。


 峠を越えると、道はいっそう細くなった。


 次にたどり着いたのは、観音堂の跡だった。

 堂はすでになく、苔むした礎石と、半ば土に埋もれた石段だけが残っている。石段の脇には、錆びた金具のようなものが落ちていた。かつて鰐口か鈴を吊っていたのかもしれない。


「観音様のお堂?」

「おそらくな。山道を通る者が安全を祈ったのかもしれないし、供養の場だった可能性もある」


「誰の供養?」

「それも分からない」


 紫音は石段の上を見つめた。


 風が吹き抜けた。

 からん、と澄んだ音がした。


 私は振り向いた。

 石段にも、木の枝にも、音を立てるものは見当たらない。


 紫音は何も聞こえなかったように、先へ進んでいた。


 いつからか、彼女が前を歩いていた。

 古地図を持っているのは私なのに。


 さらに山へ分け入ると、両側を高い岩壁に囲まれた場所へ出た。

 山中では蝉が騒がしく鳴いていた。


 ところが岩壁の間へ一歩踏み込んだ途端、その声が消えた。


 私は立ち止まった。


「どうしたの?」

「蝉が鳴いていない」


 紫音も足を止めた。

 風は吹いている。頭上では木々が揺れている。それなのに葉擦れの音も聞こえない。


 試しに足元の小石を蹴った。

 石は岩にぶつかり、転がった。


 だが音は、ずっと遠くで鳴っているようにかすかだった。


 私は地図を開いた。


「ここが鳴無おとなしか」

「名前の通りね」


「昔の人は、何かを感じていたんだろう」

「あなたも?」


 紫音の声だけは、妙にはっきり聞こえた。


 私は答えず、岩壁を見上げた。

 その奥には、細い道が続いている。


 紫音は迷う様子もなく、そこへ入っていった。


 岩場を抜けると、再び蝉の声が戻った。


 だが先ほどまでとは違って聞こえた。

 ずっと後ろから追いかけてくるような鳴き方だった。


 やがて大滝へ着いた。


 そこは予想どおり、巨大な崩落地だった。

 山肌が大きく抉れ、剥き出しの岩盤が谷へ向かって崩れ落ちている。草木に埋もれた石垣が段々に残り、その間には砕けた瓦や、腐りかけた木材が散らばっていた。


 かつて、ここに集落があったのだ。


 崩落地の端には、倒れた墓石が並んでいた。

 どれも同じ姓が刻まれている。だが風化が激しく、名までは読めなかった。


「やっぱりそうだ」

 私は思わず声を上げた。


「すごいね」

 紫音が笑った。


「本当に地名が好きなんだ」

「仕事だからな」


「私は好きだよ」


 不思議な言い方だった。

 何が好きなのかと聞こうとしたが、紫音はすでに墓石から目を逸らしていた。


 日が西へ傾いていた。

 山の稜線が、ゆっくりと茜色に染まり始めている。


 私たちは最後の地点へ向かった。


 土根。


 古地図では、小さな集落の印が記されている。


 歩くうちに、私は違和感を覚えた。


 周囲は岩場ばかりだった。

 剥き出しの岩盤。崩落した巨岩。石と石の間から、痩せた草が生えているだけだ。土と呼べるものはほとんどない。


「妙だな」

「何が?」


「この場所に、土根つちねという名は似合わない」

「昔は違ったのかもしれないよ」


「それにしても、これでは畑も作れない」

「でも、人はいたんでしょう?」


 私は地図を見た。

 確かに集落を示す記号がある。


 けれど、道はいつの間にか消えていた。


 獣道さえない。


 それでも紫音は足を止めなかった。

 道を探す素振りもなく、岩の間をすり抜けていく。


 追いかけるうち、妙な疲労を感じ始めた。


 足が重い。

 息が苦しい。


 ほんの数歩前を歩いているだけなのに、紫音の背中が遠く見えた。


 何のためにここまで来たのか、一瞬だけ分からなくなった。


「もうすぐ?」

 自分の声が、ひどく弱々しく聞こえた。


「うん」

 紫音が振り返る。


 息一つ乱していなかった。


「もうすぐだよ」


 岩場を抜けると、突然、視界が開けた。

 山中に不自然なほど平らな土地が広がっている。周囲を岩壁と木々に囲まれ、夕陽だけが真っすぐ差し込んでいた。


 紫音が平場の中央まで進み、振り返った。

「ここだよ」


 夕陽が、彼女の髪を赤く染めていた。


 私は地図を開いた。

「ここが土根か」


 一歩、踏み出した。

 かり、と足元で何かが砕けた。


 白い欠片だった。

 獣の骨だろうと思った。山では珍しくない。


 私はしゃがみ込み、それを拾った。


 軽い。

 乾いている。


 そして、見覚えがあった。


 人の指骨だった。

 背筋が冷えた。


 ゆっくりと顔を上げる。


 岩陰。草むら。石積みの隙間。

 白いものが、無数に散らばっていた。


 頭蓋骨。


 肋骨。


 腕骨。


 脚骨。


 何十。


 いや、何百。


 夕陽の中で、折り重なるように横たわっている。


 なぜ今まで気づかなかったのだろう。


 平場全体が、骨で埋まっていた。

 獣の骨は、一つもなかった。


 ここは集落跡ではない。


 人がたどり着き、帰らなかった場所だった。


 私は震える手で地図を持ち上げた。


 夕陽に透かす。


 そこで初めて気づいた。


 土根。


 そう読んでいた地名。


 だが、違う。


 最初の字の下の一画が、わずかに短い。


 土ではなかった。


 士だった。


 息が止まった。


 四手峠。


 観音堂。


 鳴無。


 地図に散らばっていた名が、一斉にこちらを向いた。


 私は顔を上げた。


 紫音は、無数の白骨の向こうで微笑んでいた。

 調査の成果を喜んでいるのだと思いたかった。


 そのとき、奇妙なことに気づいた。


 私は、彼女のことを何も知らない。


 いつから図書館にいたのか。


 誰の紹介で郷土資料を整理していたのか。


 どこに住んでいるのか。


 名札には振り仮名もなかった。


 誰かが彼女を呼ぶのを、私は一度も聞いていない。


 それなのに私は、最初からその名を知っているつもりでいた。


 風が吹いた。

 白骨が転がり、乾いた音を立てた。


 その一つの頭蓋が、空洞の眼窩で私を見上げていた。


 紫音が口ずさんだ古歌が、耳の奥に蘇る。


 死出の奥山、今日越えて、忘れし名を誰ぞ呼ぶ。


 足から力が抜けた。


 膝をついた私へ、紫音がゆっくり近づいてくる。


「お前は、誰だ」


 紫音は微笑んだ。


「やっと見つけたね」


 彼女の影が、私の上に重なった。


 私はようやく、その名を読んだ。



 紫音しね



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をいただけましたら幸いです。


本作は、「人が消えたあとも、地名だけは土地に残り続ける」という発想から生まれた怪談です。


名前は、失われた土地を後世へ伝える手掛かりになります。しかし、残された名前が人を待ち続けているとしたら。誰にも読まれなくなった名が、もう一度呼ばれるために誰かを招いているとしたら。


地図の上の小さな文字も、あまり長く見つめない方がよいのかもしれません。


お気に召しましたら他の『続きそうな短編集』も是非、ご覧ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
出た、地名ネタ。 猿や鶴、キジ、鷺は崩落地形、蛇は暴れ川や土石流を表すとか、有名ですよね。先人の知恵には頭が下がります。 ミステリアスであり簡潔で淡々とした文体で、有機的に物語が展開していったと思い…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ