第6話 雪
あれからのことを、ノアはよく覚えていなかった。仕事は、しばらく休んだ。
気付けば、ペンダントを空にかざして、自室の椅子に座ってぼうっとしていた。世界は、挿絵のように白黒だった。ふと我に返れば、刃を伝って手に伝わったあの感覚、鈍い音、舞い散る花弁の色、記憶の全てが波のように押し寄せる。黒の外套は、うっすら埃を被っていた。
「僕の“正義”を、貫いただけさ」
アンジュの言葉が、未だノアの胸に反響していた。それを聞いた瞬間、ノアの中で築かれていたものは、音を立てて崩壊したのだ。彼が命を懸けて、国に背いてでも守ろうとした“正義”とは、一体何だったのか。ノアにはいくら考えても分からなかった。
痺れた頭のまま、外を眺める。窓の上から下へ流れていく、白いものを目で追った。それはまるで、ひらひらと降り立つ羽のように見えた。
分からなければ、確かめればいい。アンジュにそう言われている気がした。
その時、ノアは稲妻に打たれたかのように、とっさに立ち上がった。外套の埃をはらい、その袖に腕を通す。そして外套の内にペンダントを収めると、机に散乱していた硬貨や、本と本の間に挟まっていた地図なんかをかき集め、部屋から飛び出した。
地下の武器庫の錠を外し、盗人のように剣を一本持ち出す。その勢いのままに、玄関の扉に手をかけた時だった。
「ノア!こんな雪の中、一体どこへ行くんだ」
背後から、釘を刺すような声がノアの後ろ髪を引っ張った。父・フレデリクが、じりじりとノアに歩み寄る。
「都へ行く」
ノアは、堂々と言ってのけた。フレデリクは困惑した様子で聞き返す。
「都だと?なぜお前が行く必要がある」
そう言う間にも、フレデリクはノアを追い詰めるように歩みを進めていた。しかし、ノアは臆しない。揺るぎない目で、静かにフレデリクに訴えていた。
「確かめたいことがある」
それを聞いたフレデリクは、不意に足を止める。そのまま、しばらくの間沈黙が流れた。
フレデリク・プレヴェールは、ノアと同じくプレヴェール家の一人息子として生まれ、若くして執行人を継いだ。しかしある時、血にまみれた自分の手を見て、フレデリクは家を飛び出したことがあった。家を出た後は医者を志したが、人々はひとたび彼の家柄を知ると、手のひらを返して忌避の目を向けた。
彼は諦めた。血の中で生まれた者は、血の中でしか息ができない。それを、彼は悟ってしまったのだ。
静寂の中で、フレデリクは過去の自分と息子を重ね合わせていた。玄関の扉の隙間から冷気が流れ込み、ノアを外へと誘う。フレデリクは、半歩先で手を伸ばせばノアに届く距離にいた。だが、彼はそれ以上近づくことも、手を伸ばすこともしなかった。
「気が済んだら、戻ってきなさい」
ノアは小さく頷いて、扉を開け放ち、駆け出した。薄ら積もり始めた雪に、足跡が連なっていく。やがて、それを覆い隠すように、世界は静かに白く染まっていった。




