第5話 天使
共和暦11年、2月18日。
朝霧の漂う広場に、一台の馬車が到着した。二頭の馬が引く簡素な木造の荷台には、両手を後ろで縛られたアンジュが、硬い椅子に腰かけている。無造作にまとめられたその黄色の髪は艶を失い、頬はやつれていた。それでも、まっすぐに伸ばした背筋だけは、彼の気高い風格を失わせなかった。御者は、鼻をつんと上に向け、目線だけで民衆の顔を一人ひとり見下ろしている。広場の円形に沿ってゆっくりと———見せつけるように荷車を引いた。人々は、馬車に指をさし、罪人を横目に耳打ちし合う。好奇の匂いに誘われ、民衆は瞬く間に処刑台の前に人だかりを作った。
やがて、馬車が広場を一周すると、御者は処刑台の前で馬を止めた。そこへ、紺の外套を着た執行補佐官たちが駆け寄り、アンジュの両腕をつかんで荷車から降ろす。アンジュは引きずられるようにして補佐官にもたれたが、いざ石畳に足がつくと、自らの力でその場に凛と立った。親友の変わり果てた姿に、ノアは言葉を失う。
「ノア……皮肉だね、こんな形で会うことになるなんて」
執行命令書が届いた日から、こうなることは分かっていた。あの日、ユルフェ家の屋敷がもぬけの殻になっていたのにも合点がいった。
「父も、母も、祖母も———みんな拷問にかけられて死んでしまった。僕だけが、しぶとく生き残ってしまったんだ」
アンジュの手の爪は剥がされ、痛々しく皮膚が晒されている。歯はまばらに抜かれ、貴族としての尊厳も、誇りも、ことごとく踏みにじられた姿だった。しかしノアには、未だ根本的な疑問が渦巻いていた。
「そこまでして———アンジュ、お前、一体何をしたっていうんだ」
怒りか、悲しみか。それすらも見失った、ぐちゃぐちゃな感情でノアは問う。
「それは、君にも言うことはできない。———僕の“正義”を、貫いただけさ」
その時、ノアは分からなくなった。
この世に、“正義”は一つしか存在しないと思っていた。たとえ親友であれ、この青年が犯した罪は“悪”でしかないと。それなのに、これほどまでに痛めつけられ、辱められても、アンジュの眼差しは揺らいでいなかった。自分のしたことは間違っていない、そう訴えるような、まっすぐすぎる目だった。
思えば、今までノアが剣を振るってきた罪人たちもそうだった。皆、それぞれ何かを信じていた。その不気味な自信を断ち切るように、自分を正当化するように———ノアはその声を、刃でねじ伏せてきた。
仕事には、慣れたと思っていた。しかし実際は、その得体の知れない自信に、自らの信念が破壊されるのを恐れていただけだったのだ。ノアの手は小刻みに震え、今すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
「ノア。君に渡したいものがある」
アンジュはそう言って、右腕を掴む補佐官に耳打ちをする。補佐官は渋々アンジュの背後に回り、首にかかっていたものを外した。服の中から、きらりと光るものが顔を出す。差し出されたのは、大きな楕円の宝石が埋め込まれたペンダントだった。
「祖母から受け継いだものだけど———僕にはもう、不要のものだから」
アンジュは、皮肉っぽく笑った。男の手から吊るされたペンダントは、風を受けて静かに回る。光の当たり方で、緑にも赤にもその表情を変える宝石に、ノアは一瞬目を奪われた。
ノアは軋む腕でそれを受け取る。何の変哲もないペンダントだったが、ノアの手には鉛のようにずっしりと感じられた。思わずアンジュの目を見つめると、彼は満足そうにその瞼を閉じた。教会の屋根の上から広場に陽光が差し込み、朝霧が晴れ始める。アンジュの朝日色の髪に、少しだけ輝きが戻ったように見えた。
補佐官に促され、アンジュは壇上へ上る。ノアはペンダントを、父から譲り受けた黒い外套に収め、追うように続いた。舞台に上がると、民衆の視線が二人に集中する。ざわめきは一層高まり、現実に引き戻された。
いつも通り。被告人の名と、その罪状を読み上げる。
いつも通り。罪人の首を固定し、鞘から剣を抜く。
いつもであれば、罪人は泣いて命乞いをしたり、民衆に向かって何かを訴えるものだった。しかし、ついにアンジュが取り乱すことは無かった。
振り上げた腕が震え、剣先は大きく揺れる。アンジュとの日々が、走馬灯のように駆け巡る。呼吸は浅くなり、喉が渇いて、視界のものすべてが二重に見えた。
「ノア。終わらせてあげなさい———彼の苦しみを」
ぐらぐらと歪んでいく世界の中で鼓膜を貫いたのは、確かに父の声だった。
「———天使となれ」
審判は下った。
十字架の鳩が一斉に飛び立つ。
白い羽が音もなく舞い降り、ノアの足元にそっと寄り添う。
その無垢に———じわりと紅を滲ませた。




