第3話 扉
アンジュのいない午前は、ノアにとって実に退屈だった。
「ノア様、どうぞお召し上がりください」
そう言ってユルフェ家のメイドが差し出したのは、ティーカップに入った紅茶と、焼き菓子だった。茶葉の華やかさと、バターの芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。カップを手に取り、一口啜る。鼻から抜ける柑橘にも似た渋みが、彼を体の内側からじんわりと温めた。まだ焼き上がりのぬくもりが残る焼き菓子は、滑らかな舌触りが紅茶と見事に調和する。
ノアの通された客間には、隅々まで絢爛優美な装飾が巡り、一人で使うにはあまりに広い。重厚なカーテンを具した縦長の窓からは、先ほどまでいた庭園が見え、その手に剣を握る感覚を呼び戻す。静寂の中、壁に掛けられた時計の秒針だけがリズムを刻んでいた。
ノアは、急かされるように焼き菓子を平らげた。紅茶も早々に飲み干し、一息つくと、ふと腰を上げて部屋を出る。廊下の絨毯に降りる陽だまりに誘われるように、屋敷の中をぶらぶらと歩き始めた。
芯から冷えるような寒さが体を包み、思わず外套の衣嚢に両手を突っ込む。それでも窓のそばを通るたび、眩しい冬の日差しが、寒さに硬直した肩の力を緩めた。
幼少期から毎週のように通っているとはいえ、この広い屋敷をじっくりと見て回ることは、今までそう多くはなかった。普段であれば、メイドたちが忙しそうに廊下を歩き回っているものだが、礼拝や昼食の準備で出払っているらしい。静けさの中、外の鳥のさえずりに耳を傾けながら、ノアは奥へ奥へと進んでいった。
長い廊下を端まで歩いてきたところで、折り返そうと踵をめぐらす。すると、不自然に少し開いたドアが目に留まった。屋敷の外壁が影を落とし、周囲に寒々しい群青色が重なる。ノアは吸い込まれるようにそのドアに耳を当て、欹てた。
静かに押し開けると、そこはこぢんまりとした書斎のような部屋だった。室内の脇には天井まで届く本棚に、本が敷き詰められている。生活に必要最低限の家具が揃えられており、まるで別の家に迷い込んだようだった。そんな部屋の中でノアが目を奪われたのは、1人の少女だった。
少女は、窓際の椅子に浅く腰掛け、手元の聖書に視線を落としていた。
アンジュのものとはまた違う———白金のような、冷たくも神々しいブロンドの髪を腰まで伸ばしていた。部屋の正面にある窓からちょうど光が差し込むと、その輪郭は淡く光を帯びる。深海のような複雑な青色に染められたドレスは、髪色とのコントラストによってその気品を際立たせていた。
ノアは息を吞む。胸の奥で鼓動が跳ねる。しかしその視線は、杭を打たれたように少女に引き込まれていた。少女は未だノアには気付かない。背筋を伸ばしたまま、熱心に聖書の文字を辿る姿は、部屋の中でなんとも言えない異質な存在感を放っていた。やがて、ノアが呼吸をするのも忘れかけた頃、ゆっくりと少女が顔を上げ、エメラルドの瞳がノアを射抜いた。
その瞬間、ノアはいたずらがばれた子どものようにその場から逃げ去った。走った勢いで、ドアは大きく扇を描いて開く。少女はまるで何事もなかったかのように立ち上がり、潜むようにそのドアを閉めた。
———大きく風が吹き、廊下の窓を震わせる。
その先の芝生に、一筋の影がそっと揺れた。




