第20話 日食
“主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、
その居るべき処を捨て去った御使たちを、
大いなる日の裁きのために、永遠の鎖に繋ぎ、
暗闇の下に閉じ込めておかれた”
———『新約聖書』ユダの手紙 1章6節より
「あ……あ……」
———巣から落ちた雛鳥のようだ。
石畳にへばりつく自身の姿を視線でなぞりながら、ぽかんと口を開けている。脚は萎れた葉のようにだらりと投げ出され、腱からどくどくと溢れ出す赤黒い液が、スカートの内から覗く純白の袜を染め上げていく。鐘の残響が冷えた地面を震わせていた。
込み上げる痛みを理解した瞬間、彼女の顔はヒビが入ったかのようにぐしゃぐしゃに歪み、肺に残された空気の限り絶叫した。這い寄る黒い影は、歯牙にもかけず、ヴィオレットを喰っていく。
「嫌、こ、来ないで、来ないでっ!」
剣を再び掴むことも忘れ、脚を引きずりながらずるずると後ずさる。自身に降りてくる黒いヴェールを払いのけるように、ヴィオレットは両腕をめちゃくちゃに振り回す。揺れ動く焦点が、ノアの顔にだけはどうしても合わなかった。湿った砂利音をあげ、生温かい溜りを広げながら掠れた線を描いていく。
追い詰めるようにゆっくりと迫る影の中で、白銀の光が、水面のように妖しく揺らめく。ノアの背筋は、天から吊るされているかのごとく、不自然なほどに伸びていた。
真昼の太陽が突然奪われたような凍えた空気に、椿暁の背中に冷たい汗が滲んだ。ノアの背中が、黒い外套が、まるで全ての光を吸い込む底なしの穴のように見えたのだ。
「ノアさんッ、もう十分ッス!———それ以上やったらアンタは……!!」
椿暁に、ヴィオレットを庇うつもりはなかった。だがその手は、今にも夜へと沈まんとするノアの腕を引くために無意識に伸びていた。今にも泣き出しそうな酸っぱい声で、彼の名を呼び続ける。
“執行人は、ただの人殺しではない”
“悪の手から国を救う英雄だ”
まるで暗い洞窟の中にいるかのように、靴音はヴィオレットの心臓の中でゆっくりと反響する。彼女の頭で勝手に流れるいつかの記憶ごと、薄いガラスのごとく踏み砕いてくるのだ。
“どれだけ蔑まれようと、どれだけ疎まれようと
———お前が立っているのは常に正義の道なのだ”
「違う、どうして、どうして私が……!私はただ……!」
声が上ずり、見開かれた目には涙が滲む。続くはずだった言葉すら、締まる喉から身体中を伝ってただの音のない振動へと変わっていった。
“迷いを捨てろ”
“平和のために剣を振るえ、ヴィオレット”
「助け、」
その時、ヴィオレットの指先が、石畳とは違うざらりとした何かに手が触れた。
———壁。
その感触に、彼女はようやくその手に剣が握られていないことに気付いた。皮を擦りむいた掌に目を落とすと、痙攣と恐怖の入り交じった震えが、内側から音を立ててせり上がった。
屋根に降り立った烏たちが、首を傾げて自分を見下ろしている。天地がひっくり返ったような気分だった。
「……やだ、やだやだ、なんでなんでなんで!」
眼前に迫った“何か”を知覚したヴィオレットに、ノアはゆっくりと剣を振り上げた。
その瞬間、椿暁はノアに向かって飛び出していた。もはやなぜ動くのかも分からない身体の痛みすら置き去りにして、ただその夕日だけを追いかけた。
この場にある全ての死よりも、明けぬ夜が来ることが、たまらなく恐ろしかった。
「———ノアさんっ!!」
“お前は正しい”
“愛する我が娘よ”
風に広がった黒い羽根———否、外套の一端を椿暁の指が掠めた。
「お父、様———!」
仰ごうとした空すら、漆黒が覆う。
夜が———首に落ちた。
喉を叩き潰されたような断末魔とともに、鳴き声はぶつりと途絶えた。太刀筋の影をなぞるように、飛沫が曲線を描く。
時間をおいて、ごとり、と重々しい音を立てて転がったのは彼女の頭だった。体液を被った髪が頬や口に張り付いて、ノアの足元の隙間から椿暁を見上げていた。
重さを失った断面から、鮮やかな赤が、数回、脈とともに押し出された。烏の飛び立つ羽音は、拍手のように高く響く。わずかに粘り気を含んだ水音が滴り、広がる赤はノアの靴に染み込んでいく。
無秩序な赤い噴水の前で、ノアはじっと佇んで、動かなかった。
今度は、何も感じなかった。




