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天使のギロチン  作者: 舞月るし
第3章 堕天
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第19話 鏡

「ノア……って言ったわね」

 ヴィオレットは、切らした息のまま、横目で気だるげにノアを捉えた。鉄の重みに任せて、ゆっくりと椿暁シュンギョウの心臓から剣を離す。肩の肉にめり込ませていた踵を下ろすと、椿暁は顔を歪ませて小さく呻く。


「あなたも執行人なんでしょう?どうしてこんなことに協力したのよ」

 ヴィオレットは二着の黒の外套を見比べると、顎を引き、確かめるように自分の襟を正した。


「ヴィオレット……俺も、かつてはお前と同じだった。平和のためだって、これが正義だって思ってたさ———だけど」

 ノアは剣先を下げたまま、ヴィオレットに向かって一歩踏み込む。靴裏で混ざりあった血が、砂利とともに掠れて伸びた。


「“かつては”……ね」

 ヴィオレットは雑音を払い落とすように割って入ると、すぐさま自らの言葉の糸に編み変えた。


「可哀想に、魔女に唆されたのかしら」

 そう言って、彼女はわずかに睫毛を蕾ませる。心底哀れむような、それでいて見下すような、そんな目だった。


「全ては、この国の安寧と平和のため。そのための“正義”はただ一つ。そんなことも忘れてしまうなんて」

 ノアの足に、冷気が這い上がるように絡みつく。まるで、立っていた流氷が眼前で真っ二つに割れ、離れていくような気分だった。


「でも、私は違う」

 そう言葉を滲ませると、ヴィオレットは青空を仰いだ。彼女の真上から、柔らかな黄金の陽光が祝福を注ぐ。その足元で、影は黒く、濃く溜まっていった。


「私はいつか、あのお方の———シャルル様のお隣に立つの」

 胸に手を当てながら、宝石を取り出すかのような声で口にした。その頬はみるみるうちに紅潮していく。


「シャルル様……?」

 突如として現れた個人に、ノアは思わず繰り返す。そして、沈黙したままその名を何度も反芻する彼を前に、ヴィオレットの口角が引き攣った。


第一執行人ル・プレミエ———シャルル=アンリ・サンソン様よ。まさか、知らないなんて言わないでしょうね」


 ———第一執行人ル・プレミエ

 その肩書きを聞いたノアの背筋に、ぞくりと何かが走る。それは、全国の執行人の頂点。


 ノアの記憶の底で、父から職務を継ぐときにさらりと流れたその名が、ようやくその色を取り戻す。


 思えば、ひどく乾いた声だった。そこには敬意も讃美もなく、地平線の彼方にあるただの知識として教わったのだ。かつてのノアは覚えようともしなかったその名が、今になって、彼の胸の奥でどろりと糸を引きながら落ちた。


「“史上最悪の執行人”……ッスね」

 椿暁が掠れた声で呟いたのを、ヴィオレットは聞き逃さない。


「———そんなふうに言う人もいるみたいだけど。不躾ね、私にとっては神にも近いお方よ」

 鼻で笑うように吐き捨てる。その視線は椿暁の方を向きすらしない。


「最悪だなんてとんでもない。 あのお方こそ、11年前の“革命”で王族の処刑を任命された、まさに英雄!」

 いつの間にか彼女の視線はノアをも外れていた。どこか遠くの雲を崇めているかのように、不安定で恍惚とした瞳。


「今の私と同い歳だったそうよ。その断面は、フランボワーズのタルトのように美しかったとまで———」

 雨天の水車のように口が回り出す。白く、甘い息が空を濁しては溶けていく。その足は影に足を取られたように一瞬重心を失い、ぐらついた。


 紡がれる賛美歌が、耳鳴りのようにノアを縛りつけていく。

 そして一度だけ、ノアは目を閉じた。

「———もういい、ヴィオレット。……分かった」


 その時、風向きが変わった。沈黙とともに二人の間に渦を巻く。ノアの足元に寄り添っていた一片の紙切れは、逃げるように風に乗った。


 椿暁の微睡む意識の中で、ノアの低い声だけが、彼女の鼓膜を深く波立たせる。その時、ノアがどんな顔をしていたのか、椿暁には見えなかった。


「執行人なのに、あのお方のことを何も知らないなんて……お気の毒に。ご両親の教育が甘かったようね」

 ゆらゆらと視線をノアに戻しながら、ヴィオレットは嘲笑するように、くすりと笑う。

 ジルベールの傍らで、ビラのもう一片が、その白を手放すように赤を吸い上げ、石畳に張り付いた。


 ———昼の鐘が鳴る。

 教会から、遅れて音が駆け抜けていく。

 空気を震わせ、地を揺らす。まるで世界がひそひそと陰口をたたくように。


「……そうか」


 ノアは、一言そう零した。言葉の代わりに、長く息を吐く。その呼気とともに、凍りついていた何かが剥がれていく。脇腹の痛みが、ただの脈打つ熱に変わっていった。


「……残念ね」

 同じ黒の外套を着た者への、彼女なりの最後の導きだったのかもしれない。だが、もはや対話の無意味を悟ったように、彼女は小さく首を振り、重い剣を握り直す。


「さようなら、堕天使ノア


 言葉が落ちるより速く、閃光が走った。


 正確無比な刺突。


 瞬きする間に喉元を貫くはずの、約束された死がそこにはあった。


 だが、ノアは動かない。


 鋒が風を切る。

 まだ、動かない。


 ノアの纏う漆黒に、銀色が鈍く浮かぶ。


 動かない。


 ———届かない。

 刃は、虚空を突いた。


「……え」


 ———あるはずのないものを蹴った。

 ヴィオレットの踏み込みが、何かに遮られる。


「ヴィオレット。お前は、さっきこう言った」


 構えが、世界が崩れる。

 浮遊の錯覚も虚しく、影が身体を手繰り寄せる。


「“正しさ”を必死で追い求めたとしても、結局それに裏切られる———って」


 戻れない。

 石畳が眼前に迫る。

 視界の端に、ノアの黒い靴先が映った。


「お前は、自分自身を———この世界を、信じすぎたんだ」

 ノアのつま先にヴィオレットの足が絡み、石畳の上に十字を描いている。


 太陽はノアの向こうに身を潜め、影はヴィオレットに降りた。振り上げられた剣が、遥か高みにそびえ立つ。光を喰らう夕陽色の瞳だけが、彼女を捉えていた。


 鐘の音が、ノアの意識の深奥に沈んでいく。


 筋を断ち、骨を叩き割る、あの感触。

 なぜか、あの時と———アンジュを斬った朝と似ていた。


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