第19話 鏡
「ノア……って言ったわね」
ヴィオレットは、切らした息のまま、横目で気だるげにノアを捉えた。鉄の重みに任せて、ゆっくりと椿暁の心臓から剣を離す。肩の肉にめり込ませていた踵を下ろすと、椿暁は顔を歪ませて小さく呻く。
「あなたも執行人なんでしょう?どうしてこんなことに協力したのよ」
ヴィオレットは二着の黒の外套を見比べると、顎を引き、確かめるように自分の襟を正した。
「ヴィオレット……俺も、かつてはお前と同じだった。平和のためだって、これが正義だって思ってたさ———だけど」
ノアは剣先を下げたまま、ヴィオレットに向かって一歩踏み込む。靴裏で混ざりあった血が、砂利とともに掠れて伸びた。
「“かつては”……ね」
ヴィオレットは雑音を払い落とすように割って入ると、すぐさま自らの言葉の糸に編み変えた。
「可哀想に、魔女に唆されたのかしら」
そう言って、彼女はわずかに睫毛を蕾ませる。心底哀れむような、それでいて見下すような、そんな目だった。
「全ては、この国の安寧と平和のため。そのための“正義”はただ一つ。そんなことも忘れてしまうなんて」
ノアの足に、冷気が這い上がるように絡みつく。まるで、立っていた流氷が眼前で真っ二つに割れ、離れていくような気分だった。
「でも、私は違う」
そう言葉を滲ませると、ヴィオレットは青空を仰いだ。彼女の真上から、柔らかな黄金の陽光が祝福を注ぐ。その足元で、影は黒く、濃く溜まっていった。
「私はいつか、あのお方の———シャルル様のお隣に立つの」
胸に手を当てながら、宝石を取り出すかのような声で口にした。その頬はみるみるうちに紅潮していく。
「シャルル様……?」
突如として現れた個人に、ノアは思わず繰り返す。そして、沈黙したままその名を何度も反芻する彼を前に、ヴィオレットの口角が引き攣った。
「第一執行人———シャルル=アンリ・サンソン様よ。まさか、知らないなんて言わないでしょうね」
———第一執行人。
その肩書きを聞いたノアの背筋に、ぞくりと何かが走る。それは、全国の執行人の頂点。
ノアの記憶の底で、父から職務を継ぐときにさらりと流れたその名が、ようやくその色を取り戻す。
思えば、ひどく乾いた声だった。そこには敬意も讃美もなく、地平線の彼方にあるただの知識として教わったのだ。かつてのノアは覚えようともしなかったその名が、今になって、彼の胸の奥でどろりと糸を引きながら落ちた。
「“史上最悪の執行人”……ッスね」
椿暁が掠れた声で呟いたのを、ヴィオレットは聞き逃さない。
「———そんなふうに言う人もいるみたいだけど。不躾ね、私にとっては神にも近いお方よ」
鼻で笑うように吐き捨てる。その視線は椿暁の方を向きすらしない。
「最悪だなんてとんでもない。 あのお方こそ、11年前の“革命”で王族の処刑を任命された、まさに英雄!」
いつの間にか彼女の視線はノアをも外れていた。どこか遠くの雲を崇めているかのように、不安定で恍惚とした瞳。
「今の私と同い歳だったそうよ。その断面は、フランボワーズのタルトのように美しかったとまで———」
雨天の水車のように口が回り出す。白く、甘い息が空を濁しては溶けていく。その足は影に足を取られたように一瞬重心を失い、ぐらついた。
紡がれる賛美歌が、耳鳴りのようにノアを縛りつけていく。
そして一度だけ、ノアは目を閉じた。
「———もういい、ヴィオレット。……分かった」
その時、風向きが変わった。沈黙とともに二人の間に渦を巻く。ノアの足元に寄り添っていた一片の紙切れは、逃げるように風に乗った。
椿暁の微睡む意識の中で、ノアの低い声だけが、彼女の鼓膜を深く波立たせる。その時、ノアがどんな顔をしていたのか、椿暁には見えなかった。
「執行人なのに、あのお方のことを何も知らないなんて……お気の毒に。ご両親の教育が甘かったようね」
ゆらゆらと視線をノアに戻しながら、ヴィオレットは嘲笑するように、くすりと笑う。
ジルベールの傍らで、ビラのもう一片が、その白を手放すように赤を吸い上げ、石畳に張り付いた。
———昼の鐘が鳴る。
教会から、遅れて音が駆け抜けていく。
空気を震わせ、地を揺らす。まるで世界がひそひそと陰口をたたくように。
「……そうか」
ノアは、一言そう零した。言葉の代わりに、長く息を吐く。その呼気とともに、凍りついていた何かが剥がれていく。脇腹の痛みが、ただの脈打つ熱に変わっていった。
「……残念ね」
同じ黒の外套を着た者への、彼女なりの最後の導きだったのかもしれない。だが、もはや対話の無意味を悟ったように、彼女は小さく首を振り、重い剣を握り直す。
「さようなら、堕天使」
言葉が落ちるより速く、閃光が走った。
正確無比な刺突。
瞬きする間に喉元を貫くはずの、約束された死がそこにはあった。
だが、ノアは動かない。
鋒が風を切る。
まだ、動かない。
ノアの纏う漆黒に、銀色が鈍く浮かぶ。
動かない。
———届かない。
刃は、虚空を突いた。
「……え」
———あるはずのないものを蹴った。
ヴィオレットの踏み込みが、何かに遮られる。
「ヴィオレット。お前は、さっきこう言った」
構えが、世界が崩れる。
浮遊の錯覚も虚しく、影が身体を手繰り寄せる。
「“正しさ”を必死で追い求めたとしても、結局それに裏切られる———って」
戻れない。
石畳が眼前に迫る。
視界の端に、ノアの黒い靴先が映った。
「お前は、自分自身を———この世界を、信じすぎたんだ」
ノアのつま先にヴィオレットの足が絡み、石畳の上に十字を描いている。
太陽はノアの向こうに身を潜め、影はヴィオレットに降りた。振り上げられた剣が、遥か高みにそびえ立つ。光を喰らう夕陽色の瞳だけが、彼女を捉えていた。
鐘の音が、ノアの意識の深奥に沈んでいく。
筋を断ち、骨を叩き割る、あの感触。
なぜか、あの時と———アンジュを斬った朝と似ていた。




