第18話 倒
それは、ヴィオレットにとって見慣れない礼の型だった。煙が溶け、白黒だった世界に色が落とされていく。
上から下へ。彼女は椿暁を、わずかに目を細めながら視線でなぞる。姿勢ではない。ヴィオレットの目をまず引いたのは、その髪色や装束だった。
椿暁は、小さく屈めた身体を起こし、合わせた両手を静かにほどく。返礼はない。代わりに彼女に突きつけられたのは、沈黙、そして剣先だった。煙霞の切れ目から陽が注ぎ、雷光が閃いたように煙が鈍く光る。
足に絡みつく煙を振り払うかの如く、ヴィオレットは椿暁に向かって一歩、強く踏み込んだ。その刃は、今にも椿暁の喉に噛み付かんと牙を剥く。しかし、鋒が届くより先に、椿暁の声が二人の間に割って入った。
「いやぁ本当、長旅をしてまで来た甲斐があったッスよ」
いつもの飄々とした口振ながら、その瞳は笑みをどこかへ落としてきたかのようだった。剣先は、わずか、椿暁の喉元の熱を奪う距離で凍りつく。
「良いもん見させてもらったッスよ、これがアンタたちの“死刑”ってやつなんスね」
椿暁は人差し指で顬を指し、揶揄うようにくるくると円を描いた。
ヴィオレットは、反射的に剣の柄を強く握った。無意識に噛み締めた歯の隙間を、彼女の震える息が抜ける。再び椿暁の喉を視線で射抜き、刃がそれに呼応するように重く煌めいた。そして、椿暁の言葉そのものを断つように、一振、大きく薙ぎ払った。
椿暁は翻筋斗を打つように跳ね、紙一重でかわす。下背に腕を回し、ようやく短剣を引き抜いた。ヴィオレットは、がら空きになった地面を見逃さない。着地点までもを奪うがごとく、もう一振、二振と空を切り捨てる。
直後、骨を叩く衝撃が腕を痺らせた。噎せ返る乾いた臭いが鼻の奥を枯らし、喉に塵埃が張り付く。短い刃が指すままに、懐へ潜り込むような軽やかな舞。ローブと外套が戯れ、蕾んでは咲く。一方のヴィオレットは、わずかな綻びすら攻撃で縫い潰していく。まるでお互いが、相手の台本を知っているかのようだった。
門の影に沈んでは陽に浮かぶ銀色。煌めいて牙をむいたと思えば、透けたように溶ける。肺が呼吸を忘れ、空に溺れかけた。路肩に乱雑に積まれた古い木箱を踏み台に、椿暁はローブの下に忍ばせていた飛刀を放つ。しかし、軽い音ひとつで弾かれ、自らの頬に赤い直線を刻んだだけだった。
椿暁は止まらない。低く姿勢を落とし、空気に擬態する。死角から忍び寄った刃は、蛇のように足首へと伸びた。しかし、ヴィオレットは視線すら落とさない。踏み下ろされたブーツがその首を捕らえ、蛇は呆気なく潰えた。
彼女を見下ろす圧がその背中にのしかかり、椿暁の焦点は、押し出されるように門の外へと滑る。地平線の向こうまで広がる空と、道の端に小さく縮こまる雪が、一瞬だけ肺に新鮮な空気を流し入れる。
次の瞬間、布の擦れる音とともに、鈍い衝突音が石畳にずしりと落ちた。固定された刃を支点に、椿暁の身体が鳩尾に向かって弧を描いている。絞り出されるような小さい呻きをあげ、ヴィオレットの重心が揺らぐ。緩んだ踵からすかさず短剣を引き抜くと、転がるように距離をとった。
「抜かりない……って感じッスね。さっすが、英雄とか持て囃されるわけッス」
頬を拭うと、滲む赤が残像のように掠れて引き伸ばされる。背中にこもる湿った熱が、次の構えを捲し立てた。
———だが、応じるはずの刃は来ない。ヴィオレットは、その剣先をついにほどいた。彼女の緩んだ指先に、一度握り潰したはずの紙の感触が、ざわざわと蘇る。
「これ」
ヴィオレットは、おもむろに外套のポケットに手を滑り込ませる。そこからつまみ出されたのは、ぐしゃぐしゃに丸められた紙だった。
「あなたたちのでしょう?」
深く、細かく、指の形を押し付けたような皺が刻まれたそれを、雑に広げて突きつける。
「広場で拾ったの。———赤髪の女」
迷子に声をかけるかのように、ヴィオレットは静かに首を傾けた。
「そうッスよ。よくできてるッしょ?全部手書きで書いたんスよ」
開き直ったように笑う椿暁に、ヴィオレットの顬がぴくりと身震いする。だが、二人の距離は変わらない。ただ、間の空気だけが、目に見えない圧を帯びて重く沈んでいく。
幾度となく見てきた、安い紙。インクの染み。新聞気取りの書き言葉。何度斬ってもどこからか湧いて出てくるその蛆に、ヴィオレットは吐き捨てるように息を———もはや、霧にすらならぬ冷気を漏らした。
「“独裁に終止符を”、“再び王の血統を”
———“執行人は英雄か”、ですって?」
くだらない、そう吐き捨ててヴィオレットはビラを二つに割いた。手放された一対の紙片は、ひらひらと音もなく風に運ばれる。一つは、ジルベールのもとへ帰るように血に浸り、一つは、ノアの足元へとその身を寄せた。
「ぶっちゃけ、アタシはこの国の政治がどうなるべきとか、別にどうでもいいんス」
椿暁は、ジルベールの方へと一瞬視線を流した。もはや物と化した彼を、門の柱から烏が狙っている。向かい風が前髪を揺らし、紅の束が雨のように視界を叩く。
「でも、考えることすらも罪とするこんな世界が———アンタは、正しいとでも思ってるんスか」
「ええ、“平和のため”よ」
即答。ヴィオレットのブーツが、砂利をにじった。
「“平和”……ッスか。便利な言葉ッスね」
片足を引く。右手がじとりと湿った。
「思想犯は、いつもそう。安寧を乱しておいて、まるで自分たちが正しいかのように振る舞うの」
海底の泡沫が、空を見下ろした。
———重い。
刃がこぼれ、骨が悲鳴を上げる。海そのものが、腕に落ちてきたようだった。
「東洋人には、分からないでしょうけどね」
蝿を叩き潰すかのような一振に、椿暁の短剣は根元から呆気なく———折れた。
「あなたたちがその“正しさ”を必死で追い求めたとして———結局は、それに裏切られることになるのよ」
散った鉄片を追うには、波はあまりに高く、激しい。間髪入れず迫り来る大波に、椿暁は左腰に携えた湾刀に手を伸ばそうとした。しかし、杭を打たれたような、熱さにも似た痛みに、右腕が動かない。
思わず、視線がヴィオレットを外れ、腕に落ちた。生暖かいものが滴る。折れた刃は、ただ、食らいつくように、そこにあった。
次の瞬間、振り落とされたかのように、世界が回転する。顔に石畳が叩きつけられ、乾いた音が響いた。軌道を描き揺れ続ける地面にしがみつくばかりで、身体が動かない。霞む視界の中で、迫る靴音だけが、やけに鮮やかだった。
腹から凍りつくような石畳の冷たさに気付いたころ、椿暁は、伸びきっていた指をゆっくりと固めた。
「……アタシも、故郷ではアンタと同じ執行人なんスよ」
拳で地を押し下げながら、彼女は、低く、呟くように零した。鼻を抜ける、鉄の味。
「でもアタシは、平和とかいう綺麗なもんのために人の首を落としたことなんか、一度もねぇッス」
乱れた髪の隙間から燃える瞳が覗く。視線がぶつかった瞬間、ヴィオレットは汚物を見たかのように顔をしかめた。足の運びが、一段と速くなる。
靴音が途切れた瞬間、顔の骨を貫くような鈍痛とともに、今度は青が椿暁の視界いっぱいに広がった。頭の中で、単調な高音が警鐘のように鳴り響く。ヴィオレットは、仰向けになった椿暁の心臓に剣を突き立てる。祈りの言葉は、降りなかった。
その時、血か髪かも分からない赤の隙間から見えた顔を、人々は“英雄”と呼んだのだろう。———だが、椿暁には、殺す理由だけを与えられた人間の、ただただ凡庸な憎悪にしか映らなかった。
椿暁の意識が、霧に沈みかけたときだった。
「待て……!」
その声に、ヴィオレットの剣が心臓の寸前で止まった。
視界の端で、ノアが傷を押さえながら立ち上がるのが見えた。子鹿のように脚を震わせ、脇腹を押さえた手は、赤黒く染まっている。
「ノアさん……」
椿暁は反射的に彼の名前を返す。ほんのわずか、何かが遠ざかる。その隙間に、胸の奥が緩みかけた。
“救い”———そんな言葉が浮かんだころ、椿暁はノアの目を見て、即座にその都合のいい妄想を否定した。
「……下がってろ、椿暁」
ノアは、椿暁を見てはいなかった。靴を引きずる音が、彼女のすぐ傍で止まる。だが、彼の視線は、ヴィオレットだけを真っ直ぐに射抜いていた。
その瞬間。彼が———ノア・プレヴェールという人間そのものが、どこか遠くへ行ってしまう。そんな漠然とした直感が、椿暁を絡めとった。
「こいつは———俺が決着をつけなきゃならない相手だ」
おもむろに伸ばした手は、空を掠めた。




