第16話 降
「これで、監視の目がこの広場に集中するッス!拾っても拾いきれない数、作ったッスからね」
椿暁は、人混みが水面のように揺らめく広場を見下ろす。そしてノアと視線を交わすと、二人は屋根を滑るように下り、回廊に身を潜めていたジルベールと合流した。
ジルベールは、聖像に手をかけながら恐る恐る下の混沌を覗いていた。屋根が影を落とす回廊には、未だ冷たい風が渦巻く。立ち並ぶ聖像たちは、まるで他人事のように遠い場所を眺めているようだった。
「ジルベール!このまま逃げるぞ」
二人が駆け寄ってくるのを見たジルベールは、おぼつかない脚でふらふらと迎えた。
「君たち……本当に」
赤く染まった鼻は、寒さゆえか泣き面か。ジルベールは今にも崩れそうに顔を歪ませた。
「当ったり前ッス!」
そう屈託のない笑顔を見せた椿暁は、ジルベールに手を差し出す。一瞬の逡巡ののち、彼はその手を取った。三人は鐘楼のある塔の中へと身を滑り込ませ、地上へと続く階段を駆け下りていった。塔の内壁に沿って大きく螺旋を描く階段は、その窓から聖堂の裏と表を交互に映し出す。階を下るたび、民衆のざわめきが螺旋の底からせり上がる。
階段を抜けた瞬間、燻したような香りが鼻を刺した———聖具室だ。祭壇の裏側に位置するその部屋には、祭服や宗教画が整然と並ぶ。しかし、そんな静けさとは裏腹に、ついさっきまで人がいたようなぬるい空気を孕んでいる。壁越しに教徒たちの祈りの声が聞こえてくるようだった。
祈りの残火に息を詰まらせたかのように、ノアは無意識のうちに外気の気配へと引き寄せられる。裏口の戸を開けると、頬を刺すような冷たい風がなだれ込み、ノアは思わず大きく息を吸い込んだ。聖堂の背から伸びる狭い路地を、三人は足早に抜けていった。
「作成通りッス。ここからは頼んだッスよ、ノアさん!」
その声で、ノアは先頭に躍り出た。
この街を取り囲む城壁には、四箇所の門があり、街を出るにはどれかを通らざるを得ない。聖堂のすぐ近くにも大門が構えられているが、あえて避けた。聖堂周辺は、行政施設も集中する中心地で、すぐに街を後にできるという利点はあるが、言わば街の正面玄関であるその門は、監視の網もきめ細かく張られているため、大きなリスクが伴う。
そこでノアは、聖堂から一番遠い北門を提示した。街の中心———すなわち聖堂から離れれば離れるほど、一般的にその門の使用頻度は下がる。三人が向かう北門は、普段は封鎖されているが、聖堂周辺の混雑を緩和するため、礼拝日に限り開放されていたのだ。
ノアは一度だけ、聖堂の方角を振り返った。遠ざかるにつれ、その尖塔が空の下に沈んでいく。その姿が視界から消えたとき、彼は再び北を見据えた。
「門に着いたら馬車に乗って、ひたすら東に向かう。地図に印をつけた地点を経由すれば、うまく追手をかわせるかもしれない」
ノアの淡々とした言葉を聞いたジルベールは、小さく息を呑んだ。胸をぎゅっと掴まれるような感覚が彼を襲う。何を言おうにも今ではない気がして、そのままジルベールは口を噤んだ。肩が強ばり、手にじわりと汗が滲んだのが椿暁にだけは感じられた。
「ま、馬車を用意するのにちょいとお金はかかったッスけどね!」
返る声はない。椿暁は横目で一瞬ジルベールの顔を盗み見るが、彼の口角がわずかに軋んだだけだった。いつの間にか人通りは疎らになり、沈黙の中で石畳を蹴る乾いた靴音が反響する。太陽は三人の真上から等しく光を注ぎ、その影は彼らの足元に絡みつくように付きまとっていた。
東の隣国へは、最短でも馬車で一週間はかかる。しかし、情報の伝達が都市に比べて遅れる小さな村々を通ることで、指名手配されたとしても、追跡者の足取りを拡散させることができる。
ノアは知っていた。この国が、逃亡者を追い詰める方法を。要所を潰し、行動範囲を狭めたところで囲い込む———“狩り”の手法を。
大通りを避けつつ、迷路のように入り組んだ路地を進み続け、吐き出されるように抜けたところで角を曲がると、開けた通りの先に、中途半端に引き上げられた格子門が忽然とその姿を現した。その足元には、一台の馬車がひっそりと停まっている。
「あそこッス!先に行って御者に話つけてくるッス」
椿暁はそう叫ぶと、ノアにジルベールを預け、単身で馬車へ向けて飛び出した。喉を笛のように鳴らし、肩で息をするジルベールの手をノアは迷わず取ると、二人は椿暁を追って再び駆け出す。
その瞬間———ふわりと、甘い香りがした。
花畑の中に迷い込んだかのような、どこか温もりすら感じさせる匂い。
しかし、ノアは振り返らなかった。
前へ。そう固めた刹那だった。ジルベールの手に、突如として不自然な力がこもる。びくりと痙攣にも似たその感触が、遅れてノアの手に伝わった。そして、鉛を引きずるような重さがノアにのしかかる。
視界の端に紅が映り———ノアは、やっとその香りに振り返った。石畳に打ち付ける重々しい水音。結んだ手は力なくほどけ、ジルベールは崩れ落ちる。
その背後には、一人の少女。握られた銀色の刃が、彼の中心を貫いていた。ジルベールの身体は、どさりと音を立てて倒れ、白い石畳にじわじわと赤黒い楕円が広がっていく。甘い香りはいつしか錆びた鉄のような臭いへと変わった。
ノアの視界が、ぐらりと歪む。胸の奥で、何かが凍りつくように沈んだ。音もなく這い広がる液が靴先まで迫るのを見ながら、ノアは重い視線をゆっくりと少女へと向けた。
———見慣れた、黒い外套。
彼女は、微笑んでいた。




