第15話 黎明
———礼拝日。
週に一度定められたこの日には、街の中心にある、噴水を囲んだ円形広場は、いつにも増して賑わう。澄み切った青空の下、広場正面に鎮座する聖堂から、礼拝を告げる鐘の音が響き渡る。
余韻で小刻みに震える聖堂の屋根の上、前夜から身を潜めていたノアと椿暁は、ゆっくりとその身を起こす。二人のすぐ傍らにそびえる尖塔は、その影を徐々に短くしていった。
「うう……冷えるッスね」
椿暁は身体を擦りながら広場を見下ろし、ノアもまたその視線を追う。
「そろそろ礼拝が始まるはずだ」
敬虔なる信徒たちがぞろぞろと聖堂の中へ吸い込まれていく。そんな日常を眺めながら、ノアは一つ息をついた。
「よし……手筈通りにいくッスよ」
“ジルベール国外逃亡大作戦”———あの夜、椿暁が提案した計画だ。彼の“声”だけをこの国に残し、彼自身は隣国へと渡る。
「この計画———ノアさんは、きっと同意してくれると思ったッス」
溢れんばかりに文書が詰められた籠を片手に、椿暁は呟いた。彼女の纏うローブが、柔らかな風を受けて旗のようになびく。
「なんでそう思う?」
「だって、ノアさんがまだ国の従順なワンコだったら、とっくにアタシの首チョンパしてたッスから」
とても自分の生死の分かれ目を語るには軽すぎる口調だった。否定も肯定もできないノアは、苦笑することしかできない。
「———でも、椿暁の言う通りだと思う」
日差しが静かにノアの外套に宿り、彼の肩をじんわりと温める。その熱に触発されるように、ノアは右手を見つめた。
「あの時、もしジルベールを斬っていたら……自分が自分じゃなくなる気がしたんだ」
その言葉に、椿暁は何も返さなかった。ただ、ノアの言葉を一つひとつ受け止めると、彼女は納得したように歯を出してにっと笑った。聖堂の屋根から壁の外へ、悠々と羽ばたく小鳥のさえずりがこだまする。
聖堂前では、礼拝終わりを見計らって、商人たちが露店を構え始めていた。
「覚悟はいいッスか、ノアさん」
ノアは周囲を見回すと、確固とした目で頷いた。直後、礼拝を終えた聖堂から人が溢れ出す。噴水前で談笑する婦人や、露店で買い物をする若者で、広場は一気に活気づいた。
その時、一陣の追い風が吹いた。
「おぉーっと!手が滑ったッス!」
椿暁はわざとらしく大声をあげると、助走をつけながら手元の籠をひっくり返した。人々の真上から、花弁のように紙片が舞う。彼の“声”が、風に乗り青空に溶けるまで流れていく。民衆は、好奇の目で落ちたビラを手に取り始めた。
椿暁が作戦を企てたあの夜から、準備は始まっていた。ジルベールは、再び机に向かった。書いては書き直し、破り捨てる———ペン先が紙面を引っ掻く音だけが、絶え間なく響いた。マメだらけになった指からは、時折インクに混じって血が滲んでいた。
一方で、ノアと椿暁は、彼の“声”を紙片へと落とし込み、その分身を次々に生み出していった。その山が一枚一枚積み重なるごとに、手はインクで黒く染まり、額から汗が滴った。地下室には、溶けた蝋とインクの匂いが重くこもる。三人は、揃って失神したように眠り落ちたこともあった。
あれから、蝋燭を何本溶かしただろうか。そんなことも気に留めなくなった頃、ジルベールは、無言のまま原稿を握りしめ、ついに腰を上げた。あとは、この国ではないどこかで、それを放つのみだった。
そして、同じ言葉を宿した、千枚近くにのぼるビラ。全て手で書き上げられたそれらには、所々に汗のシミと黒く擦れた跡が残っていた。
穏やかな休日のはずだった広場に、民衆のざわめきが波立っていく。
ある者は、拾ったビラをしげしげと眺めた。
ある者は、顔を見合わせ、ひそひそと耳打ちし合った。
またある者は、見ないふりをして足早に去り、あるいは、こっそりと外套の内に収めた。
聖堂の屋根を指さす者が現れた頃、その足元で、一人の少女がビラを手に取った。
「……何よ、これ」
目を通した瞬間、唇がわずかに震える。言葉の代わりに、彼女はその紙を、爪が食い込むほどに握り潰した。やがて少女は外套を翻し、人混みを割きながら、音もなく路地の影に消えていった。




