第13話 残火
これ以上進んではいけない。
———直感的に、ノアはそう思った。
この先に進んでしまったら、二度と戻れない。そんな気がしたのだ。
根拠はない。ただ、暗く狭い空間に、胸の押し潰されるような恐怖を覚えていただけなのかもしれない。
焦燥とは裏腹に、微塵の好奇心だけがノアの踵を磔にして離さなかった。湿気か汗か、彼の掌はじっとりと濡れている。
そんな彼を放って、椿暁は既に扉の取っ手に手をかけていた。ノアには、彼女の考えは遠く霞んで見えた。しかし、不思議と足は椿暁の方へ———わずかな温もりの方へと、誘いざなわれるように進んでいた。
椿暁が扉を押すと、黒ずんだ木が悲鳴をあげる。わずかに開いた隙間から覗く深淵。篭もった黴かびと湿った土の臭いが鼻をついた。
「誰かいるッスね」
扉の隙間から手を伸ばし、ランタンをかざした椿暁がノアに耳打ちする。地下牢のような、掘りかけの洞窟のような空間。その最奥で、男が一人、扉を背にして机に向かっている。燭台に置かれた一本の蝋燭が頼りなく彼を照らし、背中から伸びる濃い影は、水面のごとくゆらゆらと揺れている。
重く淀んだ空気に、ノアと椿暁は思わず視線を交わす。そして二人が男に視線を戻すと、彼はこの一瞬のうちに音もなく首を横に捻り、二人を射抜くようにじっと見つめていた。
その不気味さに思わず大声が出そうになるのを必死に飲み込みながら、ノアは両手を小さく上げて男に声をかける。
「あ、怪しい者じゃない。俺たちはただ———」
その間、男は瞬きひとつせず、ノアの身なりを下から上へ舐めるように視線を這わせた。
「こんなとこで何してるんスか?」
ノアが言い終わるより早く、椿暁は躊躇なく男の方へと歩み寄った。生まれながらに“恐怖”という感情を置き忘れてきたかのような、確かな足取りだった。その堂々たる背中に、ノアは上げていた両手をだらりと下ろし、肩をすぼめることしかできない。やがて椿暁は、椅子に腰掛ける男を見下ろし、机に散乱する本や紙片へと目線を滑らせた。
「本をね、書いているんだよ。……それだけさ」
冷えきった喉から絞り出したような掠れ声で、男は呟いた。俯いたその顔から表情は読み取れない。しかし、原稿に添えられたその右手だけは、力強くペンを握り続けていた。
「その外套コート———執行人だね?」
男はそう言い放って振り返ると、椿暁の後に続いていたノアの胸あたりを鋭く指さした。その肌と髪の質感、そして声は、確かに若者だった。しかし、痩けた頬や、やつれきった目元は、その印象を数十年老いさせる。ぎょろりとした目玉が髑髏の中を転がり、辛うじて窪みに収まっているようだった。
執行人が纏う黒の外套は国内で統一されているが、その存在を知る者は決して多くない。今まで、身分を明かさない限り執行人だと知られることはなかったのだ。まるで“罪”の咎めを受けたかのように、ノアの背中を冷や汗が伝う。
「どうしてここが分かった?」
引き攣るノアの顔を眺めながら、男は少し目を細めて低く詰問する。
「いやぁ……分かった、というよりは……偶然、みたいな……」
まるで蜘蛛の巣にかかった蝶だった。ノアはその確かな目力に、その場から一歩も動けずにいた。
「あー、お邪魔だったら去るんで大丈夫ッスよ」
言い淀むノアに、とっさに付け加えるようについて出た椿暁の声は、わずかに上擦んだ。2人の声は石と土の壁に吸い込まれ、きんと冷えた空気が皺を伸ばすように張り詰める。
「———仕方ないね」
男は吐息混じりに零し、原稿の横にそっとペンを置く。両手で机を押しつけながら腰を上げ、その影をゆっくりと伸ばしていく。
「何であれ……見られてしまったからには、こうするしかないんだよ」
震える声で、男は懐に手を滑り込ませる。そこに銀色が煌めいたのを二人は見逃さなかった。
「ちょ!アンタ、お、落ち着くッス!」
目に飛び込んだ鋭い光に向けて、椿暁はとっさに両手を前に突き出した。
「下がってろ、椿暁!」
ノアは叫ぶ。反射的に椿暁の前に出ると、腰の剣を躊躇なく抜き放った。金属のぶつかり合う甲高い音とともに、蝋燭の炎が大きく揺れる。
心臓を目掛けて振り下ろされたサバイバルナイフ。ノアの長剣には及ばずとも、人を殺すには十分すぎる刃渡りだった。
「待て!俺たちは何も……!」
力一杯に落とされるその刃を剣で受け止めながら、ノアは声を絞り出す。しかし、息荒く歯噛みする歪みきった男の顔を見て、ノアの頭の奥がすっと冷える。
———非力。
男の袖口から覗いた手首は、骨の形を露わにするほどに細く、小刻みに震えている。ノアが押し返すと、呆気なくナイフは弾き飛ぶ。銀と橙を交互にちらつかせながら大きく弧を描き、軽い金属音をたてて床に落ちた。
男はよろめき、机の上の書類を巻き込んで力なく後ろにへたりこむ。書きかけの原稿が、鳥が飛び立った後のように静かに舞った。
「僕は———この本を書き上げるまでは、まだ死ねないんだ」
男は再びナイフを手にするでもなく、ただ朽ちた人形のように項垂れたまま、ぽつりぽつりと声を落とす。
足元に降りた原稿の一枚を、ノアは片膝をついて拾い上げる。そこには、“革命”後の独裁への反発、王政復古を訴える主張、そして死刑制度への懐疑が綴られていた。
“ Le bourreau est-il un héros? ”
———執行人は、英雄なのか?
乱雑に並べられた文字列の中で、このたった一問がノアの視線を奪い、胸を打ち付けた。
「やっと……やっと完成しそうなんだ。5年かかって、やっと!」
不意に響いた叫声に、原稿に沈み込んでいたノアの意識は引き戻される。男は石の空を仰ぎ、どこか遠くを見つめるような目で、うっすら軋んだ笑みを浮かべている。そんな彼へと視線を引きずりながら、気付けばノアは名を問うていた。
「ジルベール・トリュフォー……もちろん仮名だけどね」




