第10話 融解
追っ手を退け、その足で町を離れたノアと椿暁は、商人の荷馬車に乗せてもらい、ひたすら南を目指していた。真上に昇っていた太陽は、馬車の右手にゆっくりと息を潜めていく。
ぬかるんだ土を巻き込みながら、車輪は回り続ける。積荷の木箱が揺れ、複雑にリズムを刻む。
椿暁が、執行人。ぼうっと荷車の天井を仰ぎながら、ノアはその事実を何度も反芻していた。同職として多少の親近感を覚えながらも、彼はまだ、わだかまりが拭いきれずにいた。
「なあ、椿暁」
ノアは、荷車の骨組みの木目を視線でなぞりながら、呟くように声をかける。彼女はゆっくりとその身体をノアの方へと向けた。その表情は、氷が溶けていくように———徐々に、陽だまりのような温かさを取り戻しつつあった。
「東の帝国で執行人だったお前が、どうしてわざわざこの国の死刑制度を学びに来たんだ?」
それを聞いた椿暁の瞳が、きろりとノアの方へと転がった。ひとつ呼吸を置いて、彼女は言葉を選ぶようにじっくりと告げる。
「そりゃあ、“異常”だから———ッスよ」
その言葉を聞いた瞬間、ノアの中で何かが疼く音がした。何かを否定したくなった。頭で考えるよりも早く、口をついて出る。
「“異常”?」
椿暁は、ノアの反応を確かめるように、ちらりと目線を合わせる。そして、物語を語るように続けた。
「うちの国じゃあ死刑ってのは、罪人を恥辱と苦しみの中で懲らしめることが目的ッス。悪行に対する相応の報いを受けてもらうんスよ」
荷車の幌ほろが風に揺れ、差し込む西日が彼女の顔に瞬くように陰影を描く。
「でも、この国の人たちってのは、それだけじゃない———まるで、死刑を崇拝してるように見えるッス」
椿暁の声色は変わらない。しかし、彼女の言葉の一つひとつが、火のついた矢のようにノアを静かに抉った。胸がじりじりと焦げていくような感覚の一方で、ノアの中の硬く冷たい塊が、ゆっくりと溶かされていく。
「この国の法律も一通り予習してきたッスけど、どうも死刑というものに対して神聖な、そんでもって儀式的なものを感じるんッスよねぇ。ここに来るまで、大陸中を旅してきやしたが、これほど死刑が身近で日常的な国は無いッスよ」
車輪が小石を踏んだ勢いで、馬車は大きく一度がたりと揺れる。木箱の積荷がいくつか滑り落ちた。
「だけど———その異常さが、アタシを惹きつけるッス」
椿暁は、うっとりとその口角を僅かに緩めた。幌の隙間からどこか遠くを眺める。少し細めたその瞳は、狂気にも似た熱を帯びていた。群青が混じり始めた空に、カラスの鳴き声が溶けていく。ノアは、何も言わず再び荷車の天井を仰いだ。
———否、何も言えなかったのである。
ふと、椿暁は手元に転げ落ちた積荷を拾い上げた。一冊の重厚な本。表紙にはただ一言、“歴史”と記されていた。ぱらぱらと頁を滑らせると、革と麻の匂いが甘く漂った。
それを横目に見たノアは、身体を起こして荷車に重ねてある木箱を覗き込む。隙間なく詰められた本が、眠っているかのように静かに揺られていた。
椿暁は本を閉じると、両手で顔の前に掲げた。そしてその表紙をじっと見つめながら、半ば掠れた声で、宣言するように言う。
「アタシは知りたいんスよ———この国で、何が起こっているのか。どんな思想のもとに、この国の死刑は存在しているのかを」
「そして———その行く先を、見届けたいんッス」
椿暁は、うっすらと汗を滲ませた手で、本をぎゅっと握りしめた。
太陽が地平線の彼方へと身を隠す。それと同時に、荷馬車は石畳の道に乗り上げた。通りには灯りが徐々に増え、人々の往来も次第に活気づく。街を囲う重厚な石壁の下に構えられた門が、彼らを柔らかく手招いている。
ノアは幌をめくって外を確認すると、肩の力が抜けたようにひとつ息をつく。椿暁は本を木箱に戻し、ローブのフードを深くかぶった。辺りには夜の帳が降り、この街の輪郭だけが闇の中に浮かんでいた。




