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天使のギロチン  作者: 舞月るし
第2章 異邦人
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第9話 廻風

 密告制度は、“革命”後に施行された制度であり、主に危険思想を取り締まるために行われている。国民は、危険思想の持ち主や、それに関連する法律違反者を司法局に密告することができる。被告が逮捕されると、協力謝礼金として政府から多額の現金が支給されるのである。

 ———それが、この国の“正義”だった。


「あのオヤジ、アタシを売りやがったッス!」

 椿暁シュンギョウはノアの手を引き、朝の町を駆け抜けていく。朝の澄み切った空気が、研がれた刃のように肌を引っ掻き、白く滲む息は、足跡のように二人の背後に流れていく。


「椿暁!お前、やっぱ指名手配されてるじゃないか!」

 息を切らしながらノアは叫ぶ。市場で果物を物色する婦人たちが、風のように突き抜けていく二人を不思議そうに目で追った。

「いやぁ、追っ手が来るのがこんなに早いとは思わなかったッス」

 椿暁はこの状況に及んでも、その口角には余裕の笑みを浮かべている。背後から、外套の男の足音と怒号が響く。


「くそっ、このままじゃ追い付かれるぞ!」

 言いながら、ノアはどこか自分のしていることに矛盾を感じていた。罪を裁くはずの自分が、犯罪者とともに逃げている。以前の彼だったら、間違いなく椿暁を密告していただろう。金のためではない。自らの信念のためだ。しかしあの日から、ノアの“正義”の定義は揺らいでいた。


 同じような建物、同じような路地を何度見ただろうか。奥へ進むにつれて人気は薄れ、石畳を蹴る音と、荒い息遣いだけが反響するようになっていく。そして———突然、道が消えた。前からも横からも、高い壁が二人を見下ろしている。

 ———袋小路だ。


「あちゃー、こりゃ参ったッスねぇ」

 椿暁は足を止め、頭を掻きながら呟いた。格式高い革靴の音は、数を増やして確実に近づいてくる。

「ここまでか……」

 ノアは外套を翻し、腰に携えた剣に静かに手をかけた。冷えきった金属が、火照った手に溶けていく。すると、椿暁はノアの肩を掴み、彼の横に並ぶ。


「なぁに言ってるんスか、ノアさん!」

 椿暁はノアの顔を覗き込み、相も変わらぬ太陽のような笑顔を見せつけた。

「一緒に都まで行くって、約束したじゃないッスか」

 不安、恐怖———そんなものを一切感じさせない燦々とした瞳に、ノアは吸い込まれそうになった。


「動くな!」

 男の声が耳を刺し、ノアは身を低く構える。同じ共和国の外套を纏った三人の男たちが、角を曲がってなだれ込む。その手からは軍用のサーベルが伸び、次々とその湾を描く刃を二人に向けた。

「異国の女。不法入国の罪で、逮捕状が出ている。そして隣の貴様も、幇助の容疑で同行してもらう」

 男は淡々と、定型文を読み上げるように告げた。銀色が、昇って行く陽光を反射してわずかに揺れ、獲物を追い詰めた獣のように間合いを詰めていく。

 

 その流れを断ち切るように、一歩———椿暁が前に出た。

「ノアさん、ここはアタシに任せてほしいッス」

 春風の気配を思わせる柔らかい風が、椿暁の紅あかい髪をなびかせる。ノアが制止しようと手を伸ばした———その瞬間。突風とともに、椿暁の姿が消えた。


 次にノアが目を開けたとき、椿暁はすでに一人を壁まで詰めていた。彼女の手には、いつの間にか一振の刀が握られ、今にも喉を掻っ切らんと、男のサーベルと火花を散らしていた。柳の葉のように優雅な曲線を描くその刀身は、彼女の遠い故郷の空気を宿す。


 薙なぐ!———舞うように剣筋を描き、赤髪が咲く。軽やかな動きとは裏腹に、重々しい金属音が空を震わせる。男三人が同時にかかるも、椿暁は風に揺れる花弁の如く身をかわす。そして這うように、大きく一つ踏み込んだ。

 ———次の瞬間、閃光とともに空気が裂ける。


 その時、彼らの空間だけが、息を潜めるように静まり返った。壁の裏で、馬車の車輪の音が横切り、遠くでは商人の客を引く声が聞こえる。———そして三つの影は、溶けかけた屋根の雪のように、一斉にばたばたと崩れ落ちた。


 ノアは下顎を緩めたまま、ただしばらく椿暁の背中を見つめることしかできなかった。椿暁が、倒れた三人をどんな顔で見つめているのかは見えない。しかし、彼女のその佇まいは、先刻までの飄々とした態度とはまるで別物だった。


「椿暁……お前、一体———」

 乾いた喉を鳴らしながら、ノアは問う。

「ま、武器の扱いには、ちょいと自信がありまして」

 椿暁はノアに背中を向けたまま、刀身に散った花弁をそっと拭い取った。そして静かに鞘へと納めると、彼女はふと思い出したように空を仰ぐ。

「あれ?……もしかして、言ってなかったっスか?」

 日差しがちょうど高い壁に遮られ、椿暁の上に影のヴェールが降りる。


「アタシ、東の帝国で———執行人、やらせてもらってるッス」

 そう言ってようやく振り向いた椿暁の瞳は、月のように冷ややかだった。


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