十四
「一時は呼びかけにも反応がなかったから、どうなることかと焦ったよ」
熱中症で入院した綾音を見舞った四人の中で、真っ先にそう告げたのは西山花蓮だった。
「本当にありがとう」
加奈子が頭を下げた。西山花蓮、田原崎哲子、大仏大と亮たちに。
「県の土木課の人たちとあなたたちで、綾音をかわるがわる抱えて山道を降りてきてくれて、九死に一生を得たわ。みんなは綾音の命の恩人よ」
「いえ、それほどでも」
恐縮して頬を赤らめ、手を振ったのは大仏大と田原崎哲子だ。対照的に
「うっわー、あたしたちってヒーロー」
「マジか」
「マジィ?」
はしゃいだのは西山花蓮と大仏亮だった。点滴を受けながらベッドに身を起こしている綾音は笑いながら「マジだ」と親指を立ててみせた。
可奈子は改めて、ヒマワリとカスミソウの花束を綾音に示した。
「みなさんからいただいたお花を飾る花びん、看護師さんから借りてくるからね」
そう言って花束を抱えたまま退室した。
可奈子が廊下を遠ざかっていく。その気配に耳を傾けている綾音に、花蓮が声をひそめた。
「他の患者さんに、あたしたちうるさかったかな……」
ベッドの仕切りカーテンが開け放たれていて、冷房が効いている室内では病床が四つある。綾音の両隣ではおばあさんが、向かいにも眠っている人がいる。
「大丈夫だと思うよ。で、ニュースって?」
「木霊大御神のこと。綾音があの木を守ろうとしていたことが、いつのまにかSNSで話題になっていたらしいよ。家族連れでハイキングしていた人がアップしたようなんだ。『たった一人で巨樹を守ろうとしている女の子がいる』って。それに触発されたってわけでもないでしょうけど、綾音が通っている緑野学習塾の塾長、老人会の代表だって?」
「え、黒岩塾長のこと?」
「そう、その人と藤原先生がタッグを組んだんだよ」
綾音の脳裏に、可奈子と藤原先生の親密な様子がよみがえる。ダイヤのイヤリングが輝く耳に、そっと触れている大人の男性の指が。
「土砂崩れの危険、山の外観を損なっているという理由で木霊大御神の根を掘り返して撤去するなら、西側斜面の大規模メガソーラー建設計画も同じ理由で再考するべき……と県議会の議員さんたちに説いて回ったのです、藤原先生。そして、集めていた『メガソーラー建設反対の署名』を提出し、ネット上で集計したアンケート結果と署名数と合計し、表にまとめたデータを提示なさったとか」
田原崎哲子がメガネのフレームを指先で動かす。
「のんきそうな外見に似合わず、詰めが厳しいですね。さすがは我がA組の担任です」
「それで、あの巨樹は?」
綾音が前のめりの姿勢になる。亮が赤毛を左右に振った。
「根はあのままにして、様子を見るっつーことになった~」
目の前が一気に開けたかのように、明るくなる。綾音はほほ笑んだ。
もう一度、触れることができるかもしれない。力強いぬくもりのある手。再びあの視線と出逢えるかもしれない。切れ長の少年の瞳。千年以上の時を生きてきた落ち着きと、好奇心を秘めたあの瞳を。
「木霊大御神が、無事に……」
深みのあるよく通る声で、『諸見沢綾音』と無駄にフルネームで呼ばれるときが、また来るのだとしたら……なんて答えよう?
「うん、黒岩塾長が人づてに樹木医を呼んだそうだよ。町民のカンパを集めて」
花蓮の言葉を、横から大仏大がさらう。
「木霊大御神の幹で、腐朽菌に侵された部分は削り取り、殺菌剤を塗布して乾燥させたあと、有機溶剤で薄めたウレタンで木質の傷をコーティング。つまり人間で言えば外科手術を受けた。……ぼくらの自由研究テーマに選んだ『分断はSDGsで克服できるか?』は成功したと見ていい。これで『諸見沢綾音さんと共に木霊大御神の根っこを再生させる会』を結成した甲斐があった。一つ残念に思うのは、『すごく間隔があいているけど五人でバケツリレーがんばろう計画』を実行できなかったことだ」
「その計画、実行していたら綾音、マジ死んでたよ」
花蓮に指摘され、五人で笑い声をあげた。
メガソーラー建設についても、再協議が行われるらしい。
もしも、建設が実行されるとしたら。
木霊大御神は自分が根を降ろしている山肌の西側が、荒れていくのをどういう気持ちでながめ続けるのだろうか。
「せっかくの夏休み、夏期講習と老木の世話と入院で、台無しだったわね」
退院し、いつものテーブルで朝食の皿を並べながら加奈子が綾音を上目遣いに見た。
「クロックムッシュだけど、本格的なベシャメルソースは時間がかかるから、ホワイトシチューで代用するね」
「ずいぶん朝から張り切ってるね。もっと簡単なのにしたら?」
綾音があきれても、加奈子は「いいから手伝って」とエプロンを手渡した。
「夏休み最後の日曜日なんだし、ゆっくりしたら?」
「明日から二学期が始まるしね」
「それでもあの老木を見に行くのね」
コンロではフライパンが熱せられ、バターが投入されている。
そのあいだ、綾音は食パンにハムとチーズをはさんだ。可奈子はカットトマトとレタス、コーンとツナをガラスボールに彩りよく盛りつけて、サラダを作っている。ドレッシングはサウザンアイランドだ。
溶かしバターがフライパンの中で「じゅうじゅう」とささやきはじめた。そのときには出来あいのホワイトソースがパンに塗りつけられている。
食パンはそのホワイトソースだけでなく、ハムとチーズを搭載されるのだった。その上に、もう一枚の食パンが置かれた。
こってりしたサンドイッチを、溶かしバターが「じゅう……」とささやくフライパンでこんがりと焼く。
はさんだチーズが溶けだすのを見届け、素早くお皿にとる。
そして食パンを対角線上に三角形に切り分けた。
サラダとアイスティー、クロックムッシュとフルーツヨーグルトを綾音と可奈子は手分けしてテーブルに運んだ。
席について「いただきます」と声に出してから、アイスティーをすする。いまクロックムッシュにかぶりついたら、舌が火傷しそうだ。
「本当なら、一泊二日の旅行でも……と考えていたんだけどね」
「手遅れだよ、明日から新学期だもん」
「わたしも忙しかったし、あなたも夏期講習がびっしりだったし、入院もあったし」
いつになく決まり悪そうに可奈子が愚痴っぽい口調になる。
かつての綾音なら、わたしの夏期講習を勝手に決めたのはお母さんでしょ……と心の中で文句を言い、暗い瞳を伏せていただろう。
だが、いまは違った。
「でも、いい夏休みだったよ。自由研究の課題も五人でまとめられたし」
「ねえ、西山花蓮さんと赤毛の大仏くん、付き合っているの?」
加奈子が目を輝かせる。いくつになっても、女性は恋のハナシには興味津々だ。
「もう一人の三つ編みでメガネの子も、あなたのクラスの大仏くんとお付き合いしているんでしょ? あなたが『いいな』って思うタイプは?」
ヨーグルトを彩っているブルーベリーを全部食べてしまうと可奈子はアイスティーのグラスに手を伸ばした。
「そういうお母さんは、藤原先生と付き合うの?」
さらりと綾音に質問され、可奈子が飲みかけのアイスティーをあやうく噴き出しそうになる。ティッシュで口元を押さえて、変に口角を上げて母親が首をかしげた。
「付き合ってもいいの?」
クロックムッシュを一口かじり、とろりとしたチーズとホワイトソースが綾音の舌の上でからまる。
「うーん、どっちでもいいよ。そうなったらわたし、ちょっと複雑な立場になるけど」
「あら、藤原先生の方がもっと大変かも」
可奈子と綾音がくすっと笑う。
朝食を食べ終わると、綾音は家を出た。
電車に揺られ、登校するかのように学校を目指す。
いつもの遊歩道入り口にあるベンチが見えてきた。背中にリュックはない。水を満たした二リットルのペットボトルも、バケツも持参してはいなかった。
風は涼しい。昨夜まで連日降り続いた雨の名残りで、下草がぬれて光る。
水量が増した渓流の水音を聞きながら、橋を渡る。
橋の上から渓流の河原にある大岩を振り返ってみた。あそこはみんなとバケツリレーの申し合わせをした場所。そしてここはミズゴケを運んだ慣れた山道。
足取りは軽い。鼻歌を歌いそうな気分だった。
同時に、寂しかった。
いまだに木霊さまは現れない。
巨樹は癒されているはずなのに。
何かを間違っていたのだろうか。
それとも、木霊さまに逢いたい一心でしたすべてのことが、わがままなエゴイズムだと見抜かれて、嫌われてしまったのだろうか。
朝食のメニューにクロックムッシュを選んだ可奈子の心理は、考えるまでもなかった。
(お母さんは、わたしをなぐさめて元気づけようとしてくれたんだ……)
なんて夏休みだったんだろう。
初めて父親について聞かせてもらった。離婚の理由も。
友だちのありがたさも身に染みた。周囲でカップルが成立したことを、素直に喜べる自分が誇らしい。
同時に、やはり寂しい。
わたしにはなぜ……とつい思ってしまう。
木霊大御神が見えてきた。
足を止めたのは、木漏れ日の部屋と呼んでいる洞の前に誰かが立っているからだ。
とっさに頬疵Zたちのことを思い出し、全身が強張る。
そっと後ずさりした。ここを去るべきだ。一人でたたずみ、背を向けている人物が振り返る前に。
数歩あとずさってから、息を殺して体の方向を変える。
「……諸見沢、綾音?」
深みのあるよく通る声が肩を叩く。恐る恐る振り返った。
少年と目が合った。
ペパーミント色の装束ではなかったし、体は半透明でもなかった。少年がまとっているのは、白いシャツに細身のデニムパンツ。
涼しい切れ長の目、整った鼻筋。同じ年ごろに見えるが、どこか大人びている。顔立ちは『精霊の木霊さま』そのもの。
その少年が、しっかりとした足取りで、綾音に近づいてきた。
確かめる意志がにじんだ声色が唇を割った。
「君、諸見沢綾音だよね。ずっとこの木の世話をしていた……」
ぽかんとしている綾音に、少年は自分の胸を親指で差して自己紹介した。
「あ、はじめまして。おれは斐川彰人。一年前、この木霊大御神をスケッチしに来て落雷に」
「あ、藤原先生から聞いています。……いまはもう、平気なんですか?」
一年休学になっている生徒。落雷さえなかったら、今年三年生のはず。美術部員だと聞いている。
目の前の斐川彰人は、目を輝かせて綾音を見つめている。
「あの、昏睡状態で入院しているって」
「五日前に昏睡状態から覚めたんだ」
「……ちょうどそのころ、わたしは熱中症で入院を」
「じゃあ、もしかして、おれが退院したとき、君が入れ替わりに入院したのかも」
「そうかもしれません。でも、よかった無事で」
「そっちこそ無事でよかったね」
「はい、ありがとうございます」
「あ、敬語はやめてくれ。カッコ悪く一年休学したから、たぶんおれ、二学期から二年A組だから」
「じゃあ、同じクラス……ですね」
「また敬語だ、諸見沢綾音」
「そっちこそ、どうしてフルネームで呼ぶんですか?」
「そう言えば、なぜかな。でも、また敬語だよ」
指さされて、綾音と斐川彰人は同時に笑い出した。
「ほんと、敬語になっちゃう」
「……でも変だな。君の手を握って橋を渡った夢を見たよ」
「頬に傷がある男と、金のピアスをした二人組は?」
「ぶん殴った。……乱暴な夢だったな」
二人は巨樹の幹に近づいた。樹皮に触れながら、斐川彰人が静かに言った。
「他にも夏祭りでタキシード姿の男子とか、メガネに三つ編みの女子とか、白い柔道着の赤毛男子やドレッドヘアの黒帯柔道女子とか……。とにかく、君がこの木を守ろうとしていたのを、夢で見ていた」
「……だから、初めて会った気がしない」
「うん、そう」
「でも、落雷があったのに、ここに来るのは怖くなかったの?」
「実はね、おれを守って木霊大御神が、落雷を受けたんだ……と思う」
綾音の視線に、ちょっと照れたように斐川彰人はこめかみをかく。
「変なことを言うって思うだろ? でも、こう考えられないかな? おれを守ったせいで依り代が損なわれて、行き場を失った自然神が、意識がないおれの姿を君に幻視させたんじゃないか……と」
激しく綾音はうなずいた。
「分かります、その感覚。理屈じゃ割り切れないけど……」
斐川彰人が回復しはじめたから、仮の依り代だった幻の姿を表せなくなったのだとしたら。
「いま、木霊は……。再びこの巨樹に戻っている。そんな気がするんだ」
秘密めかしく、斐川彰人はデニムパンツのポケットから何かを取り出した。
ピンク色の紐を指先でつまみ、綾音にそれが良く見えるように示す。
日差しが水晶の勾玉の穴の部分から尻尾までを乱反射し、小さな虹を発生させた。
綾音の胸がときめく。風が木々を優しく揺らす。
「病室のおれの枕元に、なぜか置いてあったんだ。これ、この巨樹にプレゼントしたの、君だよね? 木霊大御神がおれを守ったのは、何か大きなモノを託すためだと思う。だからおれ、目覚めた挨拶にここへ来てみたんだよ。……木漏れ日の部屋に」
(了)