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十二

綾音はどうやって遊歩道入り口まで戻っていたのか、覚えていない。


気づいたらぽつんとベンチに腰掛けていたのだ。


自力で山道を降り、橋を渡ったのだろうか?


もしそうなら、暗くなっていく山道の見通しの悪さを覚えているはずだ。しかし、そんな記憶はない。


木霊が綾音をかかえ、ベンチまで移動した……。そう考える方が自然な気がする。




いつもの駅で電車を降り、自宅への道をうつむいて歩いた。肩にかかるリュックのベルトが痛い。テキストと空っぽのペットボトルが入っているだけなのに。


頭上には星が輝いている。


ふと目を上げたのは、家の前にグレーの自動車が止まっていたからだ。


すぐそばには、街灯の白い光りに照らされ、体を寄せ合った二人の男女がいる。


綾音は息をのんだ。


目の前の光景が信じられない。


街灯の光りを反射しているのは、可奈子のダイヤのイヤリングだ。男性の片手がその耳たぶに触れている。


とっさに綾音は身を隠す場所はないか、と左右を見た。


「ああ、諸見沢さん。おかえり」


こちらに気づいたのは、藤原先生だった。


教室で見慣れたメガネ、髪型。ださくはないが、カッコ良くもいない。中肉中背、くたびれた三十代。


「綾音、おかえりなさい」


 なんとなく改まった、それでいて悪びれない表情で可奈子がほほ笑む。


 たったいま隠れようとしていた綾音だったが、説明がつかない怒りが湧いた。


「どうして……先生が。お母さんと、こんな時間に……」


「こんばんは」


「そうじゃありません、どうして先生が、お母さんと……」


 綾音はくりかえした。どう問いただしていいのか、問いただすべきなのか。どういう返答を求めているのか。


混乱している綾音を前にして、藤原先生と可奈子はちらりとお互いの目をのぞきこんだ。そして同時に綾音に向き直る。


「家庭訪問じゃなくてね、諸見沢さん」


 順序良く説明しようと、藤原先生が口を開きかけた。それよりも早く、可奈子が目じりでうなずいた。


「お母さんが東港区のショッピングモール出店の件で、忙しくしているのは分かっているでしょ。モールの管理室に挨拶に寄ったとき、そこで偶然、藤原先生と会ったの。メガソーラー建設反対のポスターをモールの掲示板に貼らせてもらいたい……って」


「帰りが同じ方向だったから、車で諸見沢さんの家まで送ってきたんだよ」


 綾音はちらっと駐車場を見た。可奈子の白いセダンは朝に見たまま、そこにおさまっている。


事務所ではなく、新店を出すモールでの仕事だったから使わなかったのだろうか。


それとも……最初からモールで藤原先生と会う約束があったから、自分のセダンを使わなかったのだろうか。


本当に偶然?


綾音が黙って二人をながめていると、藤原先生が明るい調子で可奈子に顔を向けた。


「それではこれで、失礼します」


「はい、わざわざ送ってくださって、ありがとうございます」


当たり障りのない挨拶。わざとらしい……。取り繕っているような……。


なぜか、そう感じる綾音だった。


「じゃあ、諸見沢さんも塾通いたいへんだろうから、早く休んだ方がいいよ」


「……はい、先生も」


ぼそぼそと返事をし、目を合わせずに会釈した。


グレーの自動車に身を入れ、藤原先生は去っていった。


 


「冷凍スパゲッティでいい? 綾音。野菜は昨日、あなたが作ってくれたセロリとニンジンのピクルスがあったわよね」


シャワーを浴びている綾音に、可奈子が洗濯室から声をかけてきた。水音で聞こえないふりをして、綾音は顔にお湯をぶつけ続ける。


なぜイライラしているのか?


なぜ動揺しているのか?


言葉にすれば陳腐な葛藤が、胸の中を駆け回っている。


部屋着にしているティーシャツと短パンを身に着け、髪をタオルでくるんで二階へと階段を上る。


「ちょっと綾音、夕食はすぐできるのよ」


キッチンから可奈子が声をかけてきたが、また聞こえないふりをした。




 どうしてあのとき、隠れようとしたんだろう。


 わたしが隠れなきゃいけない理由なんてないのに。


 隠れようとした自分が、みじめで悔しい。




 西山花蓮と大仏亮が付き合いはじめ、いままでぴたりと呼吸が合っていたはずの親友との間に、わずかなズレを感じている。


海道市立中央図書館に行ったときには、大仏大と田原崎哲子を見かけた。


優等生二人は『社会のデジタル化は分断を加速させるのか?』とゴシック体で書かれた市民講座のポスターを見つめながら、手をつないでいた。




それはそれで、綾音はいいと思っている。


二組のカップルを素直な気持ちで祝福し、応援したい。




でも、藤原先生とお母さんが?




こんなときに。


木霊大御神が、根っこごと撤去されてしまうと知ったその日に。


泣きたい。でも、なぜ? もし涙を流すとしたら、何のために?




「綾音、一緒に食べましょう」


 一階から可奈子が声をかけてくる。いつになく、おずおずとしている……かのように感じる。


「どうしたの? おなかでも痛いの?」


 なによ、子ども扱いして……。反発したものの、ずっと無視するわけにはいかない。


「……明日の準備するから、先に食べていて」


 返答した瞬間、自己嫌悪で胸が悪くなった。


 明日の準備? よりによって何それ。いい子ぶって、ほんといや。


 加奈子が階段下からキッチンへと引っ込む気配がした。綾音はベッドにうつぶせた。


「何を拗ねている」


「拗ねてないもん」


 枕に顔をうずめた綾音の声はくぐもっている。声をかけてきた人影の正体は、振り返るまでもなかった。


「木霊さま、あなたにも分からないことってあるでしょうね……」


「そなたこそ、母にどうあってほしいのだ」


「わたしの人生をコントロールしないでほしい。はなしを聞いてほしい」


「それはみな、諸見沢綾音が自分のために要求していることであろう。母親自身のこの先について、そなたは何を思う?」


綾音はゆっくりと起き上がった。


部屋の中にいるはずの、木霊の姿を視線で探した。英語のテキストやスケッチブックが収まったブックスタンド、学習机、カーテンを閉じた出窓、クローゼットを。


「木霊さま……」


 もう姿を現す力も無くしたのだろうか。それでも綾音を心配し、声をかけてくれたのだろうか。


……わたしのことより、そなたは自分自身を守れ……


かつてそう告げた木霊の声がよみがえる。


自分自身を守ることと、あの巨樹を地上に残すことは一緒だと感じ始めている綾音だ。


だからこそ、いまは理解している。


可奈子がビジネスで成功したのは、自分自身の野心を満足させるためではなく、娘の将来のためだったのだと。


綾音は髪からタオルを外しながら、一階へと降りた。


ダイニングテーブルにはバジルソースのスパゲッティと、レタスを添えた塩レモン風味のソーセージ、ピクルスを盛りつけたサラダボールがあった。


食器棚から二人分のフォークを出してきた可奈子と、綾音は鉢合わせになった。


「夕食、いただきましょ」


「お母さん……た、単刀直入に聞くよ」


声が震える。


「あら、なあに? 食べながら聞くわ」


 席に着いた可奈子に、綾音は首を振った。食事をしながらなんて、こんな話はできない。


「さっき藤原先生……お母さんと、うんと親しそうに見えたけど……」


 耳に触れていた。あれはなんだったの? 問いただすのは勇気がいる。


「説明したでしょ。偶然……」


 ガタンと音を立てて綾音は可奈子の正面の席に座った。皿の上では香ばしいオリーブオイルをまとったバジルソースが輝いている。


「……お母さんには……幸せに、なってほしい……。だけど、その前に、説明して」


「いいわよ、だけど何を?」


 椅子の上で可奈子が背筋を伸ばす。綾音はごくりとのどを上下させた。


「わたしのお父さんのこと」


 加奈子は眉間を曇らせたが、表情の変化はそれだけだ。


「ちゃんと説明したことないよね? 服装や髪形、進路のことはさんざん指図するのに。……それってフェアじゃないと思う」


 グラスに水を注ぎ、一口つけてから可奈子は綾音を見つめた。すぐにぎゅっとまぶたを閉ざす。頭痛を癒すかのように、こめかみに手をやった。


「そうね。お母さんはフェアじゃなかった。いままであなたが、子どもだと思っていたし、シングルマザーだからバカにされまいと一生懸命だったから」


「もし……。もしも、だよ? もしも、藤原先生とお母さんが……つ、つ、付き合うなら、お父さんについてわたしに説明する義務がある……よね?」


「付き合っていいの?」


「はぐらかさないで」


 たいして激しい口調ではなかったにもかかわらず、意外にも可奈子は綾音の様子にたじろいだ。


決まり悪げに視線を落とし、それから深呼吸してから目をあげる。


「そうね、いつかは説明しなきゃって思っていたのだし……。いい機会だから率直に言うわ」


 再び水を口にふくんだ。吐息をついてグラスを置く。


「あなたのお父さんと結婚したのは、わたしが二十二の歳。モデルで貯めたお金で、ビジネススクールに通っていたわ。翌年、あなたが生まれた。そうそう、お父さんはカメラマンでモデル時代に知り合ったの」


 言葉を切り、可奈子は遠い目をした。頬が上気したのは、過去の恋の名残りなのか。怒りなのか。


「……ファッションブランドを起業するといっても、最初は悪戦苦闘。あなたは夜泣きもしない、大人しくて手のかからない赤ちゃんだった」


 ……生まれて来てくれて、ありがとう……そうお父さんはあなたを抱いて言ったのよ……


 不意に周囲が陽だまりで満たされた綾音とは対照的に、しかし可奈子の表情は静かに沈んでいた。


「……あなたが一歳半になったとき、お父さんは事故を起こしたの。後部座席にあなたを乗せたまま」


息をのんだ綾音に、可奈子は安心させるように小さくほほ笑んだ。わずかだが、瞳がうるんでいる。


「ある山荘に行く途中のハンドルミス。幸いガードレールが車体の転落を阻止してくれた。……でも、あの人はウソをついていた。……助手席に若い女性を乗せていたの。……モデル相手のカメラマンって、もてるから」


 初めて聞く父親の逸話。離婚の理由。綾音は呼吸を忘れていた。


 生まれて来てくれて、ありがとう……その言葉は。


 うそつき。裏切者。綾音は心の中で罵った。いまここにいない父親に。


過去の可奈子もまた、同じ心理かそれ以上の激しい怒りを向けただろう。だが、今の可奈子は淡々と続けた。


「不幸中の幸いで、チャイルドシートにいたあなたは無傷。運転していたあの人も、相手の女も軽傷ですんだわ。でも、わたしは許せなかった。あの人が赤ん坊のあなたを危険にさらしたことが」


「それで、お父さんは……。わたしと会いたいって言ってこなかったの?」


 恐る恐る綾音が問う。


「浮気と事故で、離婚したのは分かったよ。でも、娘に会いたがらないはずはない。お父さんとの絆を、お母さんが断ち切っていたとしたら……わたし」


お母さんを憎むかもしれない……とは口にできなかった。可奈子の喪失感を想えば。


 水のグラスに手を伸ばしかけ、それが空になっていることに気づいて可奈子はテーブルの上で両手を重ねた。呼吸を整えて、ゆっくりと顔を上げる。


「……正直に言うわ。離婚成立後、あの人はすぐに再婚したの。車で事故を起こした女とは、別の……八つも年上で資産がある女との再婚……。前妻と娘、つまりわたしとあなたのことで、『心に負った傷を、君のもとで癒したい』……。そう口説いたそうよ」


「ばかにしてる……その口説き文句!」


「でしょ? 心に傷を負ったのは、どっちだと思っているのかしら」


「……でも、連絡は、取り合っているんでしょ?」


再婚相手への口説き文句を知っているなら、きっと定期的にメールか何かで近況を語り合っているはず。


そう見当をつけたが、可奈子は弱々しくほほ笑んで首を振った。


「お父さんは、わたしと会いたくないってこと? そうなの?」


「会いたい……。そう言ったし、言葉にウソはなかったと思うわ。でもそれは、その瞬間だけのことなのよ」


「どういう意味?」


「あの人は弱い人なの。会いに来て、もしもあなたに憎まれているとしたら立ち直れない……。それが最後に電話で交わした会話だった」


 弱い人。


綾音は胸がしめつけられた。


 弱い子。あの人の血を引いた、弱い娘。


 いままで可奈子は、綾音をそう観察していたのかもしれない。だからこそ、必死になってさまざまなルールで縛り、進路を指図してきたのかもしれない。綾音を守るために。


おかげで綾音自身、従順ないい子を演じるクセがつき、母親を問い詰めたり責めたりしない無気力な曖昧さで自分をごまかしてきた。


「お父さんが、わたしに憎まれているとしたら立ち直れないって言ったのはいつ?」


「あなたの三歳の誕生日だったわ。外は雨だった。あなたは覚えてないでしょうけど、『誕生日をパパと過ごす』って朝からはしゃいでいたわ」


 覚えている。ぼんやりとだが……。




 小さなロウソクがともったバースデーケーキがテーブルに用意されていて、お母さんはきれいなワンピースをまとっていた。


電話のコール音。


雨が流れ落ちる窓辺で、お母さんがスマートフォンを耳に当てて何かしゃべっている。低くて聞き取れない。小さなクマのぬいぐるみで夢中に遊んでいたわたしは、何もわかっていなかった。


そして……。いくら待ってもお父さんは現れなかった。




「……それ以来、音沙汰なし。資産家の妻が、あの人をお屋敷に閉じ込めているのかも」


「おとぎ話だったら、閉じ込められるのはお姫さまなのに」


 母と娘はそっとほほ笑み合った。


 加奈子が椅子から立ち上がる。


「すっかり冷めてしまったわね。温め直すわ」


 綾音と自分の分の皿を取り、キッチンへと可奈子は移動した。そのあとを綾音は追った。


母は憎悪をためこむタイプではない。いつわりで、娘と父親を引き離すタイプでもない。そう理解している。


可奈子と綾音は、いま改めて確かめ合ったのだ。お互いにとって、お互いがどういう存在かを。


レンジに皿を入れている可奈子の肩をながめ、綾音は静かに告げた。


「お母さん……。わたしはわたしを守れるし、あの大きな木霊大御神も守りたい。だから、お母さんは安心して。幸せになって……」


 レンジがチンと音を立てる。ミトンをはめた両手で熱くなった皿をシンクに置いてから、可奈子が振り返った。


「藤原先生はいい人よ。もしかしたら、友だちになれるかも。……だけど誤解しないで。彼がわたしの耳に触れていたと思ったのでしょうけど、イヤリングに虫が飛んできたのを払ってくれただけだから」


 その言葉を真に受けていいのだろうか。


 綾音はいぶかしく思いながら、熱い皿をテーブルに運んだ。


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