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十一

 アルベロでイタリアンを楽しんでから、可奈子は綾音への態度を少し変えた。


一日に必ず二〇〇ccの牛乳を飲みなさい……と言わなくなったし、午後十一時きっかりにスマートフォンを取り上げることも、門限を十五分遅れても、きつい叱責で綾音をへこますことがなくなった。


理由は簡単。可奈子自身が忙しかったからだ。


「隣の東港区にあるショッピングモールがリニューアルされるのよ。そこのテナントに、ウチの服飾店をオープンさせるから。……事務所からの帰宅が遅くなるわ。綾音は勉強をがんばるのよ」


 秋の開店準備で、陳列棚や商品の搬入、照明の交換や新しいスタッフ採用の面接などが目白押しだという。


そんな可奈子に綾音は一応、伝えておいた。


「緑野学習塾に通う日は、必ず木霊大御神に逢いに行くから帰りが遅くなるね」


「あの木は落雷で幹が空洞になってしまったのでしょ? 逢いにいくって、ヒトみたいに言うのね」


「空洞がちょっと秘密の部屋みたいで素敵なの」


「まだまだ子どもねえ」


 ダイヤのイヤリングをつけながら、可奈子は苦笑する。


公園のすみに、秘密基地を作っていた幼いころの綾音を思い出したのかもしれない。


その笑みを消してキッチンに入った。綾音は二人分の目玉焼きをレタスとトマトを添えた皿に盛りつけ終わったところだった。


可奈子は綾音に真顔を向けた。


「でも、遊歩道は危険じゃない? 以前、あんなことがあったんだし」


 頬疵Zとドクロピアス二人組のことが頭にあるらしい。


「不審者を見たら、すぐ防犯ベルを鳴らすのよ。それからスマホで……。いいえ、やっぱり夏期講習がすんだら真っすぐ家に帰って来なさい」


「朝食のロールパンは二個?」


「目玉焼きと野菜ジュースだけにするわ。それより綾音」


「大丈夫だよ、お母さん。夏期講習が終わる時間と、花蓮の部活終了時間がだいたい同じだから」


「じゃあ、友だちと一緒なのね? くれぐれも気をつけて。気温が高いとおかしな人が出てくるから」


「心配性すぎ」


「これって普通よ」




 木霊大御神を守る。


 そう決意したものの、どうすればいいのか。




 最初に相談したのはやはり、西山花蓮だった。


部活が終わる時刻を見計らい、塾へ行くついでに顔を合わせた。そのとき、大仏亮もいた。


「インターネットがなんでも教えてくれるじゃん?」


 柔道着姿の花蓮はタオルで額の汗を拭き、亮が差し出すペットボトルの麦茶を受け取る。


「ところで、亮くんも柔道部に?」


「おれ? 入部してもいいけどさ~。筋肉つけてーし」


「入んなよ。乱取り楽しいよ」


「マジか」


「マジだ」


「あのね……お邪魔虫で悪いけど、ネットで検索したらAIが簡単な要点を表示してきたの。他には植木店の宣伝HP。とある寺院の土質改良の動画が出てきただけ……」


「地味だね~」


「うん。参考にならなくて」


 ネット情報以上の知識を、花蓮に求めてどうする?


友だちを困らせていると気づき、綾音は申し訳ない気分になった。


当の花蓮は首を左右に振って、肩を回している。のんきな表情で「ええ~困ったね」と腰をひねる体操を続行した。


「あ、でも『樹木医』と『樹医』っていう二つの資格があるって知って驚いちゃった。実務的なのは樹木医の方らしいけど。その樹木医講座の受講生をネットで募集してた……」


「まさか綾音、樹木医の勉強を?」


 花蓮は腰を前方に折り、広げた両足の間からドレッドヘアをさかさまにしてこちらをのぞきこむ。


「そこまで考えてないよ。第一、お母さんが許可しない」


「んんー。綾音ママってばムスメが女医でなく樹医になったら、マジ驚くよ」


「あ? 諸見沢さん、よーするにぃ『ずぶの素人が落雷で傷ついた巨樹を手軽に癒す方法』が知りたいんだよね。おれ、兄貴に聞いてみよっか?」


「うん、それいい。大くん物知りだし、綾音が困っているなら必ず力になってくれるよ」


「わ、いいのいいの。やめて」


 あわてて綾音は両手を顔の前でひらひらさせた。


大仏大は確かに優秀な男子だが、夏祭りにタキシード着用で現れる少々ずれた感性の持ち主だ。関わってはややこしくなる可能性が大きい。


「それに、きっとこの夏は忙しいよ。田原崎さんと付き合っているみたいだし」


「マジか!」


 西山花蓮と大仏亮が同時に目をむく。綾音は大きくうなずいて、思わず声をあげた。


「マジだ!」




木霊大御神を守る方法は……。


 同じ悩みを緑野学習塾の黒岩塾長に持ち掛けた。


西日が差す窓辺にすわっている黒岩塾長の額は、煌々たるオレンジ色に輝いている。後光が差しているかのようだった。まぶしさに目を細め、綾音は切り出してみた。


「木霊大御神を管理しているのは、塾長が代表をつとめる老人会なんですよね」


「ほう、若い子があの木を気に賭けてくれるとはうれしい。木を気に賭ける……か。やや舌を噛みそうな言い回しだが」


「天然記念物なら、町役場が保護してくれるんでしょうか?」


「役場より県かな? わしらも気をもんでいるんだよ。なかなか難しくてね。……役場に都市整備課街路公園班という部署があって、街路樹などを管理している。老人会はその下働き……というと情けないが、要するに樹木の見回り役さ。勝手に伐採したり、枝を折ったり、掘っくりかえして持っていく者もいるからね。そういう被害実態や強風による倒木などを届けるわけだ」


「木霊大御神はどうなるんでしょうか? 樹木医が診察に来てくれるんですか?」


「あれは県が指定した天然記念物なんだよ。普段の見回りはこっちがしているけどね。一体、どうするつもりなのかな……。個人で樹木医を雇うことは金額が大きいからむずかしい。『山や森が御神体だ』と、町のみんなは知ってはいるが、特別な神社や祠があるわけでもない。だから自然神の依り代が木霊大御神なんだが……幹に大穴が開いている状態で、やっと生きている。下手に素人が手をかけて、枯らしてしまってもいけないし……」


「でも、この暑さでは……。せめて、水やりでもしてやりたいんですけど」


「わしも暇なとき、遊歩道近くの川から水を汲んであれにかけてやるのだが……なにしろあの巨樹だ。焼け石に水、ならぬ『焼け木杭に水』だな」


 変なことわざで返されて、綾音は脱力した。




 とにかく、素人でも水やりくらいならやっても問題はないらしい……。


そう見当がつくと、緑野学習塾に通う日の綾音はリュックサックにテキスト類を詰め、その他に二リットルのペットボトルを二本入れた。


塾で勉強し終わると、遊歩道を通って渓流で水をくみ、木霊大御神のもとへ運ぶ。


ペットボトルいっぱいにくもうと、流れに容器を浸したものの、細い注水口ではなかなかいっぱいにならない。


「バケツの方がよかったかも……」


なんとか二本のペットボトルに水を満たし、リュックに入れて背負った。重量がずしりと肩に食い込む。


一歩ごとに汗がにじむ。水がこんなにも重いとは思ってもみなかった。


橋を渡り、草地を踏み、背中の重みを揺すりながら綾音は懸命に山道を登る。


それを一日に三回はくりかえした。


途中、ハイキングの人たちが「こんにちは、暑いね」と声をかけてきた。


「あなた、さっきもこのあたりを歩いていた子だよね? 往復しているの?杉の木に水やりなんて、えらいね」


「大丈夫? 顔が真っ赤だよ」


「平気です」


笑顔で挨拶を交わし、綾音は木霊大御神の根元にたどりつく。


ペットボトルの水は、根元にちゃんと吸収されているのか。それともすぐ蒸発してしまうのか。流れてしまうのか。


落ち葉にまぎれて、水滴のあとすら見届けることができない。




そういう毎日が続いた。


八月半ばまで、一滴も雨は降らなかった。




その日も綾音は重い水を背負い、遊歩道を登っていた。三往復目だ。


木霊大御神が見えてきた。


ぽっかりとした洞。木漏れ日の部屋。心の中でそう名付けている空洞に入ると、綾音はゆっくりとペットボトルの水を撒いていく。


「あら、水音がすると思ったら……」


声がした方を見ると、おそろいのトレッキングパンツとチェックのシャツをまとった男女がいた。そばには五歳と七歳くらいの男の子が二人。


家族連れ……と察するのに、やや時間がかかった。綾音はそれほど暑さで頭がぼうっとしていたのだった。


「幹の空洞の中って涼しいね~」


 物おじしないたちなのか、男の子二人が木漏れ日の部屋に入ってくる。綾音は曖昧に微笑んだ。


母親らしい女の人がぎこちなく綾音に会釈した。


「あの……ここで何を?」


「……水まきです。この木、枯れてしまうといけないから……」


「こんなに暑い夏に、自然の木に水やりなんて……。水、重かったでしょ」


「……はい」


「熱中症になると大変。水筒はある? もしよかったら、これ」


塩タブレットをリュックから取り出し、綾音に握らせる。


ありがとうございます……。


そうつぶやいたかどうか、綾音にはわからない。


 ふらついた綾音に、女の人が手を差し伸べた。美しい樹皮が敷き詰められている段になったところに、綾音を腰掛けさせた。


 塩タブレットを口に入れ、吐息をつく。


なんとなく片手で棚状に突き出した木肌に触れると、つるりとした小さな感触があった。


見ると、そこには水晶の勾玉が光っている。以前、綾音が木霊大御神にあげたお守りだ。


 はしゃぐ男の子二人に、父親が注意をしていた。


「あのお姉さん、具合が悪いようだから静かに」


 その間にも、女の人の声が綾音の鼓膜を揺らしている。


「わたしたち、この木が根元ごと撤去されるってニュースで知って、最後に一目見ておこうと思って。子どもたちと一緒にここまで登ったんですよ。せっかくの夏休みだから」


「……え、この木が……撤去?」


 女の人がハッと口元に手をやった。


「ごめんなさい、知らなかったのね。……今朝のニュースで、放送されていたんですよ。……あ、でも、変更されるかも。……せっかく水をやっているのに、悪いことを知らせてしまって……」


なぜ声が途切れるのだろう。


聴覚にノイズが入っている。水中の中で声をかけられているみたいだ。


暑さと疲れで意識がぼやける。


綾音は吐き気がした。頭痛がこめかみを脈打っている。きつく目を閉じると、涙が一筋目じりからこぼれた。




この木が……根元ごと撤去……。


木霊さま。だからあなたは、現れてくれないのですね……。




「わたし、無神経にニュースの受け売りなんかして、すみませんね……」


人のいい女の人が綾音の様子に戸惑っている。


違います、あなたは悪くありません。わたしがうかつだったんです……綾音ののどはひくひくするばかりで、言葉が伝わったかどうかわからない。


 この親切な人たちの目に、いま自分は滑稽に映っているにちがいない。


 バカなことをしている。無意味なことをしている。


もう撤去が決まっている巨樹の根元に、洞に入ってまで水を撒くなんて。この炎天下……。


 はずかしい。


はずかしさに、綾音は身をよじった。


そんな重要なニュースも知らなかったなんて。


辛い、苦しい思いをすれば、きっと木霊さまが現れてくれる……。


わたしを見捨てるはずがない。絶対に逢ってくれる。


この木がよみがえれば、もう一度木霊さまと、逢える……。


そう思い込んでいたのに。


無邪気にそう信じていたことが、自分の愚かさが、ひたすらはずかしい。




地上から、木霊大御神は奪い去られてしまう……。永遠に。




「気を確かに……っ」


 女の人の声が鋭くなる。


おかげで昏倒しかけた綾音は、なんとか意識を保った。弱々しく「大丈夫です」と何度も繰り返す。手の甲で濡れた目元をぬぐった。


「水筒に冷たい水はある? もう少し塩タブ分けてあげる」


「救急車を呼んだ方が……。でも、狭い山道を救急車は登れないだろうし」


 夫婦が代わる代わる綾音の容態を心配した。いまや二人の男の子たちも目を見開いて綾音をのぞきこんでいた。




 さわやかな風が舞い込んだ。


木の香が強く香り立つ。


奇妙な感覚が綾音の胸にきざす。


敷き詰められた落ち葉の上を、ひそやかに踏む気配がある。


それはヒトの気配ではなく……。




綾音は意識が明瞭になっていくのを感じた。


目の前にかかっていたベールが、取り除けられていくかのようだった。


「ご心配かけて……すみません。あの、ほんとに大丈夫です」


 自分でも驚くほど、しっかりした口調で綾音は言った。


「少し休んだら、ゆっくり山を降りますから、どうぞ気にしないでください」


「そう? わたしたち、しばらく一緒にいましょうか?」


女の人はそう申し出たが、下の男の子が「ママ、おしっこ」と騒ぎ出した。それにつられたように、もう一人も「おなかすいた」と跳びはねる。


「まったく、しようがないな……」


 父親が目でうながすと、女の人も綾音のそばを離れた。振り返りって軽く手を振る。


「わたしたちは先に降りるけど、もし、気分が悪くなったら、すぐ救急車を呼んでね。遊歩道の入り口であなたが無事かどうか、しばらく待っているから」




 木漏れ日の部屋で一人になると、再び冷涼な風が綾音の肌をさました。


 改めて見回してみる。


 水晶の勾玉はそのままだ。ハイキングの登山客が見つけて、持ち帰っても不思議はないはず……と綾音は首をかしげた。


「お守りが必要なのは、わたしよりそなたの方だ」


 落ち着いた少年の声色が背中に触れる。


 振り返ると、ペパーミント色の広い袖の装束に袴を身につけた木霊が立っていた。紗がかかったように全身が半透明ではあったが。


「諸見沢綾音、礼を言う。沢の水を飲ませてくれて。そなたのまごころが、ここの草木を癒してくれた」


「木霊さま……。なぜ、わたしにだけあなたは見えるのですか?」


「不満か?」


腕組みした木霊が、愚問に首をかしげる。意外そうな表情は、ごく普通の少年だ。


「もしも……あなたの存在をみんなが知れば、きっとこの森が大切だって誰もが納得してくれる。木霊大御神の根だって、撤去なんかされないはずです」


 袖を広げ、木霊は全身が透明になっていく様子を綾音に示した。


「この姿は借り物。この顔、体を持つ者の意識が現世を夢見て、わたしをこの容姿にしているにすぎぬ」


 綾音には木霊の説明が理解できないし、問題ではなかった。


「木霊さま、わたしはいやなんです。ここが変ってしまうのが……。長い時間が過ぎて、自然に山の様子が変わるのは仕方がない。でも、ヒトの都合で勝手に変えられてしまうなんて……。何かを犠牲にして、ヒトは便利な生活をしてきたけど、その代償を支払うのはいつだって未来の世界……。だからせめて、わたしはあなたを守りたい」


 あなたは長い年月、ずっとヒトも獣も癒し、育み、守ってきた。


それなのに傷ついたあなたを、誰も守ってやらないなんて。


わたしだけは、あなたを守る。


 一気にそう続けようと息をつめたとき、木霊の両腕が綾音を包む。


そして、消えていった。



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