十
藤原先生も可奈子も綾音も、手土産のチョコムースは手をつけなかった。
それらを冷蔵庫に入れてグラスを下げながら、綾音はふと思う。
(お母さんは、藤原先生に好意を持ったみたい……?)
まさか、と強く頭を振ったとき、「出発よ」と可奈子にうながされて白いセダンに乗った。
エンジンスイッチを押す可奈子の指先には、きれいなマニキュアがほどこされている。その人差し指を軽く振り、可奈子は駐車場からセダンを発進させた。
「生真面目な先生ね。ちょっぴり間が悪かったけど……。出会いって大事よね」
綾音は曖昧にうなずいた。
誰に対して『大事な出会い』なのか。自分にとって藤原先生は担任教師でしかない。一方、可奈子は生徒の保護者。唐突な訪問で、相手の人となりを知ったことを言っているのだろうか。
「口先だけきれいごとを並べて、行動を起こさない人より、ずっと上等な人格だわ」
やや熱っぽい吐息をつく。
「……そうだね、お母さん」
「今度訪問するときは、事前に連絡してもらわなきゃね」
生き生きしている可奈子の目元をながめ、綾音は少し身じろぎした。
いまなら聞けるかも。わたしのお父さんてどんな人? もしかして、藤原先生に似ている?
「藤原先生が、また家庭訪問するかな?」
「さあどうかしら。そうたびたび訪問されても困るけど」
「いま言ったことと全然ちがう」
母と娘は吹き出した。
街路樹が、午後六時でやっと傾いた日差しを受けていた。
「毎日暑いわねえ、これも地球温暖化の影響よね。将来のわたしたちの生活、どうなるのかしら」
「ウィンタースポーツ、できなくなるかも」
決まりきったかけあいを可奈子と綾音が交わしたとき、セダンはコンビニの手前で右折した。
ハンドルを握ったまま、可奈子は助手席の綾音をちらりと見た。
「警察署からあなた、表彰されるかも。チンピラ二人組の逮捕に貢献したんだもの」
「貢献って、ただ不審者の届けを出して、サマフェスのとき通報しただけだよ」
「ふふ、だけどその二人組って、ホライズンに雇われていたのでしょ? あなたと山の遊歩道で遭遇したのだって、ただ山を見回っていただけじゃないかもしれない。余罪があるんじゃないかしら?」
「怖いね」
「強気でいなさい。あなたたちが大人になって生きる世界は、きっと今より大変よ」
「はぁい」
綾音と可奈子はまた微笑み合った。
ビラを配っていた藤原先生の姿と、そのときの会話が脳裏によみがえる。
尾仁ヶ岳の西側斜面。中国資本の不動産会社ホライズンが買収。メガソーラー建設計画。
あの土地は十年くらい前、地権者がだまされて手放している。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「むかし……手塚治虫ってマンガ家の作品を読んだんだけど」
「あら、そんなむかしのマンガ家、よく知っているわね」
「小学生のとき通っていた塾の本棚にあったマンガでね。巨樹は落雷を避けられる……って描かれていたような気がする」
その短編マンガのタイトルすら覚えていない。
「ええっとね、ストーリーは……。森の中でみなしごになってしまったリスの子を、巨樹が自分の木の実で養い、洞の中で育ててくれるの。ところが、森の開発が進んで、木々が人間によって伐採されてしまう。大人になったリスは、住み家が荒れていくけど育ての親の巨樹を見捨てられず森から離れようとしないの。……巨樹はリスを別の場所へ逃がすため、自ら落雷を受けることで……リスを森から引き離そうとする……ってオチだったかな」
「犠牲的。なんだか悲しいわね」
少ししんみりした可奈子だったが、すぐ理屈っぽく打ち消した。
「でもね、樹木に落雷を避ける能力があるとは思えないわ。ただの創作よ。インターネットで調べた? 樹木が落雷を避けるなんて。むしろ、落雷のときは高い木の下に入ってはいけないって書いてないかしら?」
ちがう、綾音が言いたいことは。
かつてなら、母親の正論に屈して押し黙り、迎合して自分の考えをまとめるのをやめて、いらだちをそのままにしていただろう。
「そうじゃないの、わたしが言いたいのは……」
綾音は言葉を探した。
「もしも、木霊大御神が『人間は自分を必要としていない』と感じて悲しんで、絶望して……落雷を避けられたのに避けなかったとしたら……」
「こだまのおおみかみ……? なぁにそれ」
「学校の裏が尾仁ヶ岳の南斜面で、そこから遊歩道が伸びているでしょ。その先に生えている古い大きな杉の木」
精霊が依り代にしていた巨樹だ。
「ああ、樹齢千年以上とかパンフにあったかもね……天然記念物、だったかしら」
「うん、ネットで調べたら、地元の老人会が管理しているんだって。藤原先生が配っていたビラを緑野学習塾に持っていったとき、黒岩塾長からそう教えてもらった」
「まあとにかく、落雷を受けちゃったんだから、そのマンガは間違っていたのよ。もしくはあなたの記憶違いかも。植物に関する学説って色々あるんじゃないかしら」
いい感じに会話ができたのに。綾音は吐息をついた。また先回りして断定され、話しを打ち切られてしまった。
ライトアップされた『創作イタリアン・アルベロ』の看板のすぐ近くに、セダンは止まった。
「その老人会だけどね」
自然石を模したアプローチを歩き、レストランの入り口で綾音は可奈子に蒸し返す。
レジ脇の受け付けで、「禁煙席に二人」と可奈子が係りのウェイターに告げた。
案内された窓際の席につくなり、綾音は切り出した。
「緑野学習塾の黒岩塾長が、木霊大御神と周辺の遊歩道を管理している老人会の代表なの。藤原先生が言っていた有志って、老人会の人たちも含まれていたんだよ。……わたし、塾に通いながらあの木について何か出来ることをしたいんだけど、いいよね?」
メニューを娘に手渡しながら、可奈子が首をかしげる。
「何かできることって?」
メニューを開きもせず、綾音は少し口ごもった。
「まだ自分でも分かんない。でも、何かあると思う。藤原先生のメガソーラー建設反対の手伝いでもいいし」
あの巨樹を絶望から救うこと。
それだけが、少年の姿の精霊を消滅させない手段ではないだろうか。
メニューでは、クリームパスタやマルガリータピザがバジルソースの緑を添えていた。
目を挙げると、可奈子が眉根を寄せている。
「そういうことは、夏休みの宿題じゃないでしょ? 綾音。成績が上がるわけでもない。時間の無駄よ」
少しとがめるようなきつい色彩が可奈子の瞳に宿っている。予想していたこととはいえ、綾音は肩を強張らせた。
「注文を決めてしまいなさい」
いままでなら、それでひるんで従ってしまう綾音だ。けれど、もう心は決めている。
「宿題じゃなくても、やらなきゃいけないの」
木霊大御神を守る。
「これって人生の宿題だと思う」
素敵なイタリアンは、綾音の決意表明を祝う晩餐だった。