一
「諸見沢綾音さんは英語、国語、中国語の成績はクラスで常に上位についています」
そう前置きした担任の藤原先生をさえぎったのは、綾音の母・可奈子だ。
「そんなことは分かっています。ずっと大手学習塾に通わせていますから。それより、数学はどうです」
三者面談が行われる教室は、どうしてこう声が響くのだろう。可奈子の隣で、うつむいたまま綾音は唇をかんだ。
夏休みに入って二日目。
とはいえ大事な三者面談では、生徒の服装は制服と決まっている。綾音は白いブラウスを飾る、チェックのリボンを指先でそっとなでた。
椅子から腰を浮かし、机を拳で叩かんばかりにして、可奈子が前のめりになる。
「総合的にこの子の成績について、ご意見をうかがいたいのですわ。ゆくゆく綾音には国立大の医学部に入ってもらい、将来はもちろん、女医。責任ある医療の現場で活躍してほしい」
「……おかあさん」
小声で綾音がたしなめても、可奈子の決めつけ口調はかわらない。
「大体、この私立中学を選んだのは一年から特進クラスがあって、授業内容が充実しているからです。義務教育の必修科目に、中国語を加えると文部省が決めてすぐ、対応したのもここ敬明学園でしたし」
「ええ、諸見沢さんは外国語を熱心に勉強しています。ノートを見たとき、単語を覚える工夫をしていたのには驚きました」
綾音が小さくほほ笑んだ。
「エンピツや花のイラストをノートに描いて、外国語の単語を入れておくと覚えやすいんです。子どもっぽいかもしれませんけど」
「美術部顧問のわたしから見ても、あのイラストは上手だよ」
「そんなこと、どうでもいいのです!」
可奈子は今度こそ、本当に机を叩いた。その音と勢いに、藤原先生と綾音がたじたじとなる。
「綾音が文系なのはわかっています。本人は某大学の文学部か、もしくは美術系を志望しています。といっても、まだ子どもですからね。人生を棒に振る無意味な進路を選択するなんて、断固阻止ですわ。親が先回りして子どもの間違いを正すのは、義務です! まだ中学二年生と言っているうちに、手遅れになったら大変じゃありませんか! 将来、困るのはこの子本人ですから」
実際、藤原先生は「まだ諸見沢綾音さんは二年生ですし、進路については後日」と話題を変える心づもりだった。ところが到底かなわない。会話の先手を打ち、先回りして自分の考えどおりに事を運ぶ、諸見沢可奈子の熟練した話術には。
(先生、しっかりしてください)
上目遣いに瞳に力をこめて、綾音が担任を励ます。
そういう表情をすると、かつてファッション雑誌の専属モデルだった可奈子と綾音は、よく似ていた。
もっとも、華やかで押しの強い美貌を生まれ持った母親とは対照的に、綾音はずっと大人しい。
むしろ人の言いなりになりそうな線の細さが甘く、清楚だ。不満を胸の奥にくすぶらせながら、無気力にあきらめている影が長いまつ毛に宿っていた。
そしてそういう自分の容姿と性格を、綾音は嫌いだ。大嫌いだ。
「えっと……」
無造作になでつけたらしい髪型に黒ぶちメガネをかけた藤原先生が、やっと「明日から夏休みです」と笑顔を浮かべる。いかにもくたびれた独身の三十代。
「とりあえず、こちらを」
歯切れ悪く咳払いし、成績表と夏休みの注意が書かれたプリントを一つにまとめて差し出した。
「お母さまもいまおっしゃった通り、諸見沢綾音さんはまだ二年生です。特進クラスでの授業に加え、学習塾での勉強は……がんばっているなぁと感心いたしますが、本人の負担になってはいけません……。なによりも本人が希望する進路志望を第一に考えて、ご家族全員で納得するまで話し合いの場を」
「話し合うことなんか」
可奈子が首を振った。それからいま気づいたかのように、目を見開いて藤原先生をながめる。
「美術部顧問……藤原先生……。って、あの?」
「お母さん、その話題は」
綾音はさすがに、可奈子がまとうシルクブラウスの袖をつつく。
「あの事故は、自然災害で、先生のせいじゃない……」
その言葉を最後まで聞く可奈子ではない。大げさな身振りでのけぞると、額に手を当てて可奈子が一気に吐息をついた。
「去年、ニュースになりましたよね? 中高一貫の私立・敬明学園中等部に通う美術部の二年男子生徒が……落雷にあったって」
「はあ」
敬明学園は首都から電車で二時間という立地。
低山がつらなる尾仁ヶ岳の南側の、なだらかな山稜にかかえられている。
学園のすぐ裏は地元で「鎮守の森」と親しまれ、そこに根を降ろす木々やシダ、雑草の花々、落ち葉も石も土も、すべてが御神体だという。
といっても手つかずの樹海ではなく、きちんと山頂まで遊歩道が整えられている。
山頂に幹の周囲が十五メートルほどの杉の巨木があり、その根元に立つと晴れた日には遠くに太平洋の水平線が見える。
巨木は「木霊大御神」と名前がつけられて、鎮守の森のシンボルとなっていた。
その巨木をスケッチしに行った生徒が、落雷にあったのだ。一年前に。
「去年のいまごろだったかしら」
記憶を確かめるように、諸見沢可奈子がこめかみに指をやった。
過失を責めるときの母のクセに気づいて、綾音は藤原先生の肩を持つつもりになった。
「お母さん、森の遊歩道は途中、吊り橋やベンチもあるの。生徒が気軽に昼休みを過ごすこともあるし、運動部がジョギングすることだって。つまり、慣れた山道なのね。杉の巨樹・木霊大御神は人気スポットだから、誰だってスケッチしたくなると思う。落雷は自然災害で、藤原先生のせいじゃないよ」
言いながら、綾音は複雑な気分を味わった。
敬明学園が中高一貫校だから惹かれたわけじゃない。
ここを受験しない? と可奈子から持ち掛けられたのは小学四年生のとき。
ホームページを目にしたとき、大自然に囲まれた白い校舎がまぶしかった。白いアーチの南門と北門。校門から玄関までのアプローチはしゃれたレンガ敷き。親しみやすいプロバンス風校舎とでも呼びたいくらい素敵だった。
可奈子は校舎の外観などよりも、高校までエレベータ式に進学でき、しかも大学受験のための特進クラスを設けている点に心惹かれたのだが……。
おまけに校舎には風力や太陽光による自家発電施設と蓄電池を備えてあり、「災害にも強い」「ネット環境充実」という謳い文句がある。
意識の高い教育熱心な保護者が、いかにも好みそうな敬明学園なのだ。
問題の杉の巨樹・木霊大御神の写真もホームページにアップされていて、一目で綾音は気に入った。
絵心が湧く、とでも言うのだろうか?
樹齢千年から三千年と推定されるその巨樹の実物を目にしたい。スケッチしたい。樹皮に触れたい。
いつになく熱い気持ちが綾音の胸を焦がし、中学受験を選んだというわけだ。
だから、シャレた校舎とチェック柄スカートのかわいい制服に心奪われた他の女子生徒とは少し違う。
入学し、念願かなって……というのは大げさだが、その巨木を見上げたときの感動は忘れられない。
風を受けて枝がざわめき、よく来たね、と語りかけられた気がしたものだ。
ところが一学期が終わるころに、その落雷があった。
晴れ渡った空から、ほとんど垂直に落ちてきた稲妻。
あの巨樹は一瞬で太い幹が裂けて枝葉はばらばらになった。
その落雷の衝撃で、そばにいた生徒が弾き飛ばされた。それが二年生の美術部員の男子生徒だ。
焦げた枝葉や樹皮が散乱した場所に至る遊歩道入り口は、しばらくのあいだ『危険・立入禁止』の立札と、黄色いテープがしめ縄のように張り巡らされたものだった。
一年が過ぎ、立札は撤去され、ようやく遊歩道は元通りになっている。
怖いもの見たさと巨樹へのいたわりから、綾音は一度だけ、かつて木霊大御神が枝を伸ばしていたそこへ行ってみた。
以前は天高く枝を伸ばしていた老木は、無惨にも地上から五メートルほどになってしまった。しかも、幹にはぱっくりと空洞が開いていた。
落雷と、その後の枝を撤去する作業で傷つけられた、地面を這う太い根。
三畳間ほどの暗い空洞をかかえた木霊大御神。
ショックだった。
敬明学園の生徒になって、ほとんど毎日のようにその巨木近くでお弁当を広げていたのだから。
綾音は喪失感と落胆で、いまも胸が痛む。
自分より一学年上の落雷被害者に、強く同情するのと同じくらい、綾音は巨樹の変貌を悲しんでいた。
「被害者は美術部の生徒……その男子生徒が森に入ったのは、水彩画を仕上げるようにと……顧問の先生がおっしゃったせい。ウワサではそう聞きましたわ。ええと、その生徒の名前はなんていうか、知っている? 綾音?」
可奈子にのぞきこまれ、綾音は首を振った。
木霊大御神を描こうとしたのだから、その先輩も巨樹が気に入っていたのだろう。とはいえ、会ったこともない。
「斐川彰人……です」
決まり悪そうに藤原先生が肩をすぼめる。青ざめた殉教者の表情だった。
「あの日は、晴天で……落雷の危険など想像もつかなかったのです。美術部顧問として、部員の管理が行き届かなかった責任を感じています。……なぜあの日、インターネットで落雷注意報を確認しなかったのか? と」
「先生は悪くありません」
ふるふると綾音が首を振る。
「晴天の日の落雷なんて、予想できないことだったし……杉の巨木を描けって先生が命じたわけじゃないし……その、斐川彰人先輩? には同情しますけど」
生徒にかばわれて、藤原先生は気まずそうに額に手をやった。
「まあとにかく……。あの巨樹はまともに落雷を受け、ぱっくりと洞が空いてしまいました。一応、天然記念物なので管理している老人会が県に保存を申し出ているようですが、ハイキングコース保全のためには残った樹木を根ごと撤去して展望台を設置すべきだ、と意見する団体もあって……意見が割れているようです」
ハッと藤原先生が自分の口を押さえる。咳ばらいをして可奈子と綾音を交互に見た。
「すみません、三者面談中に話がそれて」
「いえ、いいんです」
綾音は言った。
「それで斐川先輩は無事だったんですよね?」
「不思議なことに、斐川くんには幸い火傷一つない状態だったよ。……わたしが駆け付けて、彼を抱えて山を下りて救急車に乗せたんだが……」
「どうかしましたか?」
「そのときには、すぐ回復すると医師からの説明もあったのだけど……。なぜか意識が戻らない。いまも病院で昏睡状態なんだ……。休学扱いなので、もし意識が回復できたら改めて二年生として、このクラスに編入させる予定になっているんだよ」
神妙な藤原先生に追い打ちをかけるように、可奈子は綾音に「ほらね」と目を輝かせた。
「美術なんて、人生をつまずく原因にしかならないことが分かったでしょ?」