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 天若陽暈の耳に、骨が砕ける音が幾度も届いた。乾いた破裂音は、やがて数を失い、ただの連続音と化す。指先に伝わる軋みと反発は、壊れた関節の叫びであり、もう一つの悲鳴だった。


 京鹿の兵士たちは、腕を折られても立ち上がった。その様はまるで、自我を手放した機械人形。理性も痛覚も、とうの昔に捨て去っているかのようだった。

 ならばと、陽暈は足を狙った。動けぬように、間接を粉砕した。だが彼らはなお、地を這い、牙を剥いて迫ってくる。意思ではなく、本能に突き動かされる獣のように。

 そうして陽暈は悟った。殺さなければ、道は開かれない。先へ進むことは叶わないと。


 戦場に血は一滴も流れなかった。

 一人ひとり、その首に手をかけ、静かに、そして確実に命の芯を断った。関節が捻じ切れる音は、もはや風のうねりに紛れるほどに耳馴染んでいた。

 インヒビターを装着して拘束する暇も、その数も足りない。ただ、殺すしかなかった。


 色とりどりのオーラを纏い、無表情に戦場を彷徨う構成員たち。その姿が、心を削ぎ落とされた人形のように映った。だが、それは同時に、陽暈自身の投影でもあった。

 かつて刑務所で犯した大量殺戮──あのときには、胸の奥で何かが軋み、怒号のように心をかき乱していた。

 だが今は違う。内側の感情は、研ぎ澄まされた刃のように静かで冷たい。ただ触式の感覚にすべてを預け、気の流れを読むことだけに没入していた。

 攻撃を見切り、躱し、返す。そこに情はなく、温もりもなかった。あったのはただ、復讐を果たすという一念。そして、その執念だけが陽暈の四肢を動かしていた。


 遺体をかき分け、陽暈は京鹿が去っていった方向へ足を向ける。やがて行き着いたのは、襖で隔てられた、ひときわ広い空間──大書院。

 襖を引き開けた瞬間、静寂が肌に張りついた。

 畳が敷き詰められた室内は、几帳と衝立に区切られ、淡い月光が障子越しに射し込んでいる。

 装飾は最小限。だが、空間そのものが威圧の象徴だった。床の間には、かすかに墨の香を残す掛け軸と、生けられた枝ものが一対。どこか死の気配すら孕んだ、静謐な美がそこにはあった。


 陽暈は一歩、また一歩と足を踏み入れる。畳が微かに鳴るたび、空気が震えるように揺れた。

 その奥。最も光の届かぬ床の間の陰、静かに腰を据えていた人影が、ゆるやかに顔を上げる。


「殺したのか」


「あぁ、殺した」


「そうか」


 京鹿は、その重い腰を上げた。

 薄く張っていた白いオーラが、厚みを増した。


「俺はやっぱり、お前が嫌いだ」


「くだらん」


 京鹿に対抗するかのように、青いオーラを強めた陽暈は、全力で畳を蹴った。深々と抉り、凄まじい走力で家族の仇に肉薄する。

 未来が見えると聞くが、もはやその能力に対する恐怖はなかった。

 怒りを込めた拳を振りかぶり、悠長に構える京鹿の顎に狙いを定める。


「ふぅぅぁぁあああアア゛ア゛ッ!」


 咆哮しながら、陽暈は力を出し切るつもりで右拳を押し出した。

 渾身の一撃──だが、その拳が届く寸前、京鹿の身体は風に押し流されるように滑る。わずかな体重移動。だが、それで十分だった。拳は掠りもしない。


「力任せか」


 呆れたような声で、そう呟いた京鹿の仮面の奥に浮かぶ青い双眸は、どこまでも冷え切っていた。

 陽暈は連撃を仕掛けた。足払い、手刀、肘打ち。速度と力を兼ね備えた一連の技。だが、そのすべてが無へと還される。

 京鹿は舞うように避けていた。足音すら立てず、まるで彼の周囲だけが時間から解放されているように。


「愚かだな」


 陽暈の攻撃が、ことごとく虚空を切り裂く。畳がめくれ、柱がえぐれても、京鹿の影すら捉えられない。

 それでも、陽暈は攻撃の手を緩めなかった。

 相手が未来が視えるオーバーアビリティを持っていることは、当然ながら分かっている。

 しかし、なんとしてでも、京鹿に一発叩き込みたかった。


 やがて動きのキレと、パワーが落ちてきた時、陽暈の拳が京鹿の手によって、軽々と受け止められてしまった。


「少し頭を冷やせ。そうでなければ相手にもならん」


 そんな京鹿の挑発の直後、捕まれていた陽暈の拳が、一気に引き寄せられる。

 視界が大きく揺れ、気がつけば宙を舞っていた。

 数メートル浮遊した後、大きな花瓶に衝突し、なかに入っていた水をかぶった。

 冷水が頭上から降りかかると同時に、脳に走ったのは痛みではなく、激しい屈辱だった。濡れた髪が額に張りつき、視界が霞む。だが陽暈は、その痛みすらも意識の底へ沈めるように、ぐっと奥歯を噛み締めた。


 京鹿は一歩ずつ、着々と近づいてくる。


「怒りに任せれば勝てると思ったのか? その程度の頭でよく生きてこられたな。いっそのこと母と弟と共にあの世へ行っていれば楽だったのではないか?」


 陽暈の瞳が揺れた。理性よりも先に、心が突き動かされる。何度も噛み殺してきた記憶──目の輝きを失った母と弟。自分が居合わせなかった後悔。それが一気に胸へと溢れ出す。


「うるっせえッ……!」


 濡れた服が張りつく身体を無理やり起こし、陽暈はまた走り出した。足元は滑る。それでも構わなかった。ただ拳を握り、視線を京鹿にぶつける。

 京鹿の目は冷えたまま、ただ見下ろしていた。


「情に溺れ、怒りに支配されることの愚かさに、まだ気づかないのか」


 乾いた声が響いた刹那、陽暈は吠えるように地を蹴った。


「黙れ……ッ!」


 怒気を剥き出しにした突進──だが、その動きには明らかな乱れがあった。

 濡れた足裏が畳を叩き、湿った音を立てる。拳の軌道に迷いが生じ、研ぎ澄まされていたはずの意識は霧のなかへと沈みかけていた。


 京鹿は、ただ一歩身を傾ける。静かに、確実に、その拳を避け──そして右手で陽暈の肩を軽く押さえた。

 次の瞬間、腹の奥から爆ぜるような衝撃。京鹿の拳が鳩尾に深く食い込み、全身の空気を強制的に押し出されたかのような感覚が、陽暈を襲った。


 視界が反転する。

 体が宙に浮き、次いで襖を突き破る破音。京鹿の部下たちが屍として転がる部屋へと、陽暈の身体は押し戻されてしまった。

 まるでボス戦に敗れ、セーブポイントに戻されたかのような滑稽さだ。


 安らかに息を引き取っている構成員の表情が視界に入り、ようやく陽暈は冷静さを取り戻した。


「そうだ。こんなんじゃ勝てない」


 この短時間で、無数の攻撃を仕掛けたが、一つとして京鹿を捉えることはできなかった。それどころか、二度も反撃を食らった。触式の弱点である掴み技をされて。

 つまりいまの陽暈は、気流を感知することすらできないほど、集中の糸が途切れている。


 自分の愚行に気づいた陽暈は、痛みを堪えながら上体を起こすと、ひとつ、大きく息を吸った。そして、吐く。熱と怒気、過去と憎しみを、肺の底から押し出すように。


「集中しろ……長かったんだ…………ここまで……」


 全身に張り巡らされた薄い膜を意識する。

 たとえ未来が視えたとしても、京鹿の攻撃を避ければなんの驚異でもない。

 そうだ。集中すれば、きっと勝てる。

 心に言い聞かせながら、陽暈は京鹿がいる書院まで戻った。


「なにをしている。さっさと来い」


「っ……!」


 憎悪が再び理性を食い破った。京鹿の冷ややかな眼差しと、どこか愉しげなその態度。

 気づけば、体が勝手に動いていた。拳を振り上げ、怒りに任せて突進する。気流の変化は読み取れず、動体視力すら定まらない。


 あっさりと四肢を京鹿に捉えられ、鈍く重い衝撃が全身に走った。

 痛みと悔しさを抱えたまま、陽暈はなおも手数を繰り出す。

 だが、未来視を持つ京鹿の前では、それらすべてが無意味だった。拳も蹴りも、読む前に読まれ、動く前にいなされる。


 そして、打ち尽くされた陽暈の隙を京鹿が見逃すはずもなかった。

 正面から振りかぶられた前蹴り。

 音を置き去りにして突き刺さるような一撃が、陽暈の頬を捉えた。


 脳が揺れ、視界が跳ねる。

 数度、畳の上を転がった。身体を強く打ちつけられながら、なお止まれず、やがてようやく動きが途切れた。


 視界がぼやけ、天井の木目すら曖昧に滲む。無謀な怒りに呑まれた代償を、陽暈の肉体は確かに受け取っていた。


「かはぁッ……」


 喉奥から吹き上がった血が、咳と共に唇を染めた。鉄の味が口内に広がる。痛みよりも、虚しさが勝っていた。


 いったい何がしたいのだろう──。

 陽暈自身にも、その問いの答えが分からなかった。

 怒りに突き動かされるまま拳を振るい、感情に任せて蹴りを放つ。だが、そのすべてが空を切り、地を這い、無意味に消えていく。

 京鹿に届くことすら叶わぬ現実を、頭では理解していた。それでも──体が、勝手に動いてしまう。思考と行動が乖離していた。


「興醒めだな。天若陽暈」


 京鹿の声が遠くから聞こえるが、平衡感覚さえも失った陽暈には、その方向までは分からない。

 寝返りをうち、体の至るところの痛みに耐え、悶える。


「うぐっ…………」


 いままで、なんのために戦ってきた。なんのために強くなった。

 なんのために──。


 その時、悔しさと憎悪が渦巻く脳内が晴れ渡った。


 なんのためか。

 目的なんて一つしかない。


 ──復讐だ。


 波留と幻陽の痛みを、京鹿にも味わわせてやらねばならない。

 それこそが自分の役目。その役目を果たせずに死ぬなどあってはならない。持てる力を最大限に発揮せぬまま、この世を去るわけにはいかない。 


 思い出せ。集中しろ。

 尋芽をいなしたあの時の感覚を。


「ふぅ……」


 横たわったまま大きく深呼吸をした陽暈。

 集中力が高まっていくと同時に、体の節々に負った傷の痛みが和らいでいく。


 そして、ゆっくりと立ち上がった陽暈は、再び息を吐き、京鹿を見据えた。


「…………悪かったな京鹿。ちょっと取り乱してた」


 陽暈の目は、まだ死んでいなかった。


「ほう。そうでなければトドメを刺す価値がないというもの」


「あぁ。もう手を抜かなくていい」


 みるみるうちに集中は最高潮に達した。

 合気道の構え──半身の姿勢を取る。


「少しはマシになったか」


 その一言とともに、京鹿の重心が低く沈む。

 次の瞬間、陽暈の視界から彼の姿が霧のように掻き消えた──と錯覚するほどの速さだった。しかし、鼓膜をかすかに揺らす畳の軋みが、現実へ引き戻される。


 気づけば、京鹿は陽暈のすぐ右隣に肉薄していた。あまりに迅速。もはや速さという尺度では語れず、瞬間移動と表現するしかない。

 視界の端にかろうじて映った京鹿の影に、一瞬、陽暈の心が揺らぐ。だが、集中は切らさなかった。全神経を気流の変化に研ぎ澄まし、即座に身を引いて、迫る手から逃れる。


 その流れを断たぬまま、伸びてきた腕を掴もうと試みるが──京鹿の腕がすり抜けた。

 直後、世界が遅れる。空気が膨張し、音が遠ざかる──時の遅延が発動していた。

 幸い、触式が警鐘を鳴らし、反射が導くままに身体が逸れ、危機を免れる。続く鋭利な連撃も、遅延の恩恵を受けてかろうじて回避を重ねた。


 致命傷を回避できているものの、陽暈の胸には驚愕が渦巻いていた。

 時の遅延は万能ではない。時間の流れを遅くするのみで、完全に止めるわけではなく、その減速にも限界がある。つまり、相手の攻撃が速ければ速いほど、考える暇など与えられない。

 そしていま、京鹿の攻撃は、速さもさることながら、一打一打に重さが宿っており、時の遅延が起きたとしても、ギリギリ躱せるかどうかという次元。


「どうした。こんなにも容易く触れられるとはな」


 冷ややかな声が耳を打つ。次いで、うなじに生ぬるい手の感触が這う。


「くっ……!」


 即座に京鹿の腕を払おうとするも、動きは一瞬遅れた。

 三発──連撃が風を裂き、京鹿の掌底が陽暈の腹と胸を穿つ。


「バッ……ふぅッ……!」


 内臓を叩かれ、喉の奥から血混じりの息が飛び出す。

 追い打ちのように掴まれていた後頭部を押され、陽暈の身体は前方に叩きつけられた。顎が畳に擦れ、乾いた音を立てながら滑る。ようやく止まったときには、視界が霞んでいた。


「……まったく。相も変わらず触式というのは煩わしい」


 足音がゆっくりと背後に近づいてくる。

 陽暈は、畳に手をついて膝を立て、よろよろと立ち上がる。

 乱れた呼吸を整えながら、再び構えを取った。


 劣勢──否、完膚なきまでに押されている。それでも、陽暈の心には確かな灯が宿っていた。


 出発前の作戦会議で、零士と早乙女が提示した仮説。


『京鹿の未来視は、敵の脳波を読み、そこから動作の未来を予測する。だが、脊髄反射による運動指令は脳から発せられないため、触式であれば京鹿の未来視をすり抜ける可能性がある』


 その仮説は、おそらく正しい。

 実際、戦いのなかで、京鹿の数々の攻撃は触式によって回避できた。もしそれが通じなければ──陽暈はすでに立っていられなかっただろう。

 そして京鹿が触式を煩わしいと言ったことが、なによりの証拠。


 希望はある。わずかでも、確かに。

 ただ、問題は触式により回避行動を取った後だ。反撃に転じ、拳を振るったが、その脳波は読まれてしまう。

 とどのつまり、攻撃は回避できるが、有効打となる反撃が決まらない。


「ふぅ…………」


 深呼吸をし、京鹿を見据えて構え直す。


 激突──否、交錯。

 陽暈の拳と京鹿の拳が、ぶつかり合うことはない。互いに危機を察知する能力を持つため、正面衝突は起きず、絶えず交わり続けた。

 しかし、やはりと言うべきか、先に集中を切らせてしまったのは陽暈だった。いや、強制されたと言っても過言ではない。

 勢いが落ちることのない京鹿の猛攻は、凄まじかった。


 今度は足首を掴まれるや否や、陽暈は宙を舞って壁に叩きつけられた。

 畳を転がり、即座に立ち上がる。


「そうだ……また忘れてた…………」


 明らかな劣勢にもかかわらず、意外にも冷静だった陽暈の脳裏によぎったのは、合気の心得だった。

 合気の道に、勝ち負けは存在しない。一般的に試合というものもなく、分かりやすい優劣が介在しない。

 型稽古と呼ばれる、元より決められた動きを繰り返し、体に染み込ませる。一見、ただの演技の域を越えないと思われがちだが、そんな浅いものでもない。

 初めに攻撃をしかけ、反撃を食らう『受け』と、実際に技をかける『取り』に別れ、型を反芻する。むろん、立場を逆転させ、攻めと守りの双方を体で覚える。

 技をかける側とかけられる側、両方の感覚を知ることで、互いに共感し、一つにまとまる。

 そこに勝敗などあるはずはないのだ。

 尋芽との戦いで、師に教わったその心を思い出したはずだったが、この世で最も憎い人物を前に、乱れていた。


 心頭滅却すれば火もまた涼し。集中し、和合の心を思い起こすのだ。


「ふぅ…………」


 そうして陽暈は、改めて集中力を高め、半身を取る。


「いくら集中しても無駄だ。貴様では私に敵わん」


 飽き飽きとした様子の京鹿が、吐き捨てるように言った。しかし陽暈の心の炎は揺らぐことはなかった。ただ一点、京鹿の青い目を見据え、待つ。


 次の瞬間、京鹿が踏み込んだ。間合いを潰すように右腕を伸ばし、喉元を狙う掌底──。

 皮膚に触れた。

 陽暈の肩がわずかに動く。そこからの動作は、本人にも制御不能なほど滑らかだった。

 踏み込んできた京鹿の腕を逸らし、脇に導くように流すと、陽暈の体が低く回り込む。京鹿の身体が、陽暈を軸に半回転しながら宙を舞った。


「──ッ!?」


 叩きつけられることはなく、滑るように前方へ転がる京鹿。受け身を取ったが、そこには明らかな遅れがあった。動揺が、反応を鈍らせたのだ。

 陽暈は、投げたあとの腕を自然に引き戻しながら、自分の手が無意識に技を終えた形をなぞっていたことに気づいた。


「なんだいまの……」


 自分の体なのに、自分のものでないような感覚。

 極限の集中の先に見出だした光明──。

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