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「え、えっと……」
戸惑う太文。そんな彼を見下ろす一人の男が低い声で言った。
「ボスがお前に会いたがっている。ついて来い」
太文は焦燥感に駆られた。
あの時と同じ。また子供に騙され、制裁を食らうのか。そんな不安を覚え、逃げ出そうとした。しかし男たちに、半ば強引に体を持ち上げられ、黒いバンに詰め込まれた。
いったいなにをされるのか。恐怖で仕方なかった。
だが、思いもよらぬ人生の岐路であったと知ることとなる。
立派な和風の屋敷に連れてこられた太文は、とある人物の前に跪いた。
「お? 来た来た。お前さんが鬼咫先生だな?」
その男は、歳の頃なら四十代後半。若さの名残と、修羅場を越えてきた者だけが纏える静かな圧を同居させていた。
髪は黒々としていながら、こめかみにわずかに白いものが差し始めている。顎に蓄えられた短く整った髭は、意志の強さと品格を両立させている。
身に纏うのは、濃い青地に白い青海波が大胆に配された着物だ。肩と胸元には円形の家紋らしき紋様が控えめに染め抜かれ、その下からは深紅の着物がのぞいている。
一見、落ち着いた色調でまとめられているが、細部に格を忍ばせた着こなしだ。
朱塗りの煙管を手にした指には、翡翠の指輪が一つ、控えめに光を宿している。
言葉よりも、視線よりも先にその場を支配していたのは、立ち姿ひとつで背中に百人を背負うような、統べる者の風格だった。
「は、はい……そうですが…………」
周囲を見渡すと、部屋の隅に何十人ものスーツの男が立ち並んでいた。もちろん、太文は悟っていた。昨夜、公園で会った隼斗の言っていたヤクザとやらの邸宅にいることを。
「俺は緋鐘守道ってんだ。お前さん、冤罪で捕まったんだって?」
「え、えぇ。まぁ…………」
「でもホームレスになったってか?」
「はい…………」
「だぁっはっはっは! 災難だったなあ!」
リンゴが丸ごと入るほど大きく口を開いて笑い飛ばす守道に、太文は頭を掻いて当惑する。
「は、はぁ…………」
「どうだ? うちのガキに勉強、教えてみねえか?」
守道の誘いに太文は目を丸くする。
「勉強……? 私がですか?」
「そうだよ。元々教師だったんなら、それくらいわけないだろ?」
太文は躊躇いながら答える。
「え、えぇ、まぁ……でも、家庭教師ならいくらでもいるでしょう。こんな薄汚い浮浪者なんかより──」
守道は静かに首を振った。
「教師ってのはよ。狭い籠のなかでしか生きてきてねえから、俺はあんまり好きになれん。自分の物差しでしか人を計れん浅いやつばかりだからな。でもお前さんは違うだろ。それに、社会の底を見てもなお、生きてるやつなんざこの世に数えるほどしかいねえ」
太文はその言葉を胸に刻む。自身の過去、死をも覚悟した日々が蘇る。
「……確かに、私は地獄を見ました。死を試みたことだってあります。ただ運良く生きながらえた、こんな私で、いいのでしょうか……」
守道の瞳が優しく光った。
「深みがあるってもんじゃねえか。あとな、俺はお前さんでもいいって言ってんじゃねえぞ。お前さんがいいって言ってんだ」
太文は驚きと共に、心が震えるのを感じた。
「どうしてそんなに私を……」
「逆に聞くが、お前さん、なぜ俺のガキを気にかけた? あれぐらいの子供に、いい思い出がねえんだろ?」
太文は言葉を探し、答えに迷った。
「難しい質問ですね……私自身も、よく分からないんです……」
守道はゆっくりと頷き、太文の瞳をまっすぐに見据えた。
「なら代わりに教えてやるよ。お前さんには、子供を想える愛があるんだ。これは誰になんと言われようが自信を持って胸を張れ。お前さんの天職は、間違いなく教育者の道だ。だがお前さんは運が悪かった」
その言葉は太文の胸に深く響き、痛みと同時に希望の灯火をともした。
「私の天職が──」
自分の頭では混乱していたことが、一挙に整理された気分だった。
昨夜、どうしてトラウマとも言える子供を気にかけたのか。それは、子供が好きだからだ。
軸がしっかりしていない子供を、立派に一人で立てるよう、歩けるよう、育て、道を示すこと。それこそが、彼が目指していたこの社会における役目。
「残念ながら、公の場にはお前さんの居場所はないが、ここなら作ってやれる。どうだ。もう一度、挑戦してみねえか。鬼咫よ」
太文は覚悟を決めた。堅気ではないことが明らかだったが、教育者としての道を歩めるならと。
正座に座り直し、無礼な姿勢を正す。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
両手を畳にピタリとつけ、そこに額を押しつけた。
「よし。まずはクリームパンの返礼だ。おい、飯持ってきてやれ」
「かしこまりました」
隅に佇む女が、キレのいい返事をして、退室した。
斯くして、太文は菫という組織に入り、頭の息子の教育担当の任を命じられた。
ホームレス時代の悲惨な生活から一変、豪華な食事、温かい風呂、心地好い布団、なに不自由ない生活が始まった。
男女隔たりなく、体格のいい怖い見た目の人ばかりが行き来する屋敷では、常に緊張感が漂っていたが、太文はあくまでも教育係。
ほかの者がどのような悪事に手を染めているのか知る機会すらなかった。
隼斗はいつも、守道の愚痴をこぼすが、どういうわけか太文の言うことは聞いてくれた。
そんな隼斗に、算数を教えていると、ごく稀に、京鹿御門という白いオーラを身に纏った男が無言で部屋に入ってくることがあった。
もちろん、初めは問いかけた。なにか用があるのかと。
しかし京鹿は、一言も発することなく、ただじっと太文の目を見ていた。
どうも隼斗は京鹿のことをあまり好いていない様子だったため、あまり気にせず、授業を進めるようにしていた。
ただ、一度だけ京鹿に声をかけられたことがある。
「お前、見えているのか」
「は、はい……?」
「私の体から発せられているオーラが見えているな」
「あ、え、えぇ。見えていますが、私も初めての経験でして、幻覚かと思っていました……」
「以前、死に直面したことはあるか」
「え? し、死……ですか? 一応、まぁ……」
「教えろ」
「恥ずかしながら、以前、練炭自殺を試みまして。ギリギリのところで救出されたのです」
「その時、全身に電流が流れる感覚はあったか」
「えっと……あぁ、ありましたね。確か」
「そうか」
そう言った京鹿は、振り返り、立ち去ろうとした。
「京鹿くん!」
太文はひとつだけ聞いておきたいことがあったため、呼び止めた。
「なんだ」
「あの、どうしていつも隼斗くんの授業を見に来られるのですか?」
「…………私は子供の頃から数字が苦手だった。たまには勉強も悪くないと思ってな」
京鹿は斜め下に視線を落として言った。ずいぶんと後ろめたい様子だったが、太文は即座に提案した。
「そうでしたか! だったら一緒に勉強しましょう! 後ろで見ているだけでは実になりませんから!」
「…………考えておく」
京鹿はどこか嬉しそうに、去っていった。
その翌日から、早速彼は授業に参加するようになった。初めは隼斗があまりいい顔をしなかったが、勉学に関しては京鹿の方が劣っていると判明してから、鼻が高くなっていった。
ギャングエイジと呼ばれる年頃。マウントを取ったり、反抗したりしたくなるのも仕方ないことだ。
しかし京鹿の方が大人であり、彼は隼斗の挑発に一度も激昂することはなかった。お坊っちゃまと呼び、失礼な態度を取ることもない。
やがて京鹿は、算数以外の授業も参加するようになった。色々と忙しい様子だったが、合間を縫って出席していた。
そうして太文は日々、二人のために奮闘した。
ある日、事件は起きた。
どうも敵対勢力が屋敷に乗り込んできたとのことで、ずいぶんとみな慌ただしく駆け回っていた。
太文は、「俺も戦う!」と言って聞かない隼斗を押さえ、部屋の隅で静かに嵐が過ぎ去るのを待っていた。
叫び声や銃声が鳴り渡るなか、一人の男が戸を開けた。
「見っけたあ! 守道の息子だ!」
サングラスをかけたスキンヘッドの柄シャツの男が叫んだ。
すかさず太文が隼斗の前に立つ。
「な、なんですかあなたは……!」
「なんだお前、誰だ。死にたくなかったらそのガキよこせ」
「断ります! 隼斗くん。大丈夫。私が守りますからね」
後ろで怯える隼斗に優しく声をかけた太文。
「いい度胸じゃねぇか。ぶっ殺してやらあ!」
ハゲの男はポケットから拳銃を抜き、構えた。
勝手に殴り合いになると考えていた太文は、銃口を突きつけられ、動揺した。
どうすべきなのかすら分からなかったが、咄嗟に前へ踏み出していた。




