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「報道……?」
留置所に拘束されていた太文には知らされていなかったのだが、彼の名と容疑はもうすでに、ニュースになっていた。
SNSにも拡散されており、根も葉もないことが書かれまくっていた。
太文は信じられなかった。
判決も出ていないにもかかわらず、まるで犯人だと言わんばかりの口ぶりのニュース記事に、憤った。
いや、そもそも犯人かどうかも分かっていない段階で、実名報道するのは法的に問題ないのだろうか。理不尽過ぎないか。
混沌とする脳を必死にコントロールし、太文は抜け殻になったように学校を出ようとした。
そのとき、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
「先生!」
振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた歩実がいた。
「白河さん……」
ぼそりと名を呼ぶと、彼女は笑顔を解いた。そして歪んだ顔で言った。
「おつかれ」
女子にしてはずいぶんと低い声だった。
太文は、全身に鳥肌が立った。怒り、憎しみ、憤り、恨み、負の感情が沸点に達し、ボコボコと湧き上がるのを感じた。
しかしスッと冷却された。
大好きだったはずの子供に対し、心の底から殺意が噴き出た自分に嫌気がさした。
子供が好きで選んだ教員の道。
ダメだ。このままではなにをしでかすか分からない。
「さようなら。白河さん」
太文は歩実にそう言って再び歩み出した。あまりに素っ気ない態度に納得いかなかったのか、歩実はその後も太文が校門を跨ぐまでついて来て、嫌味な言葉を吐き続けた。
先生もう終わりだね──。
どうすんのこれから──。
変態ロリコン教師──。
二度と来るなよ──。
全て、太文の耳には届かなかった。
彼の頭にはもう、ひとつしかなかった。
駅前のホームセンター。
自動ドアが音もなく開く。蛍光灯の白い光が、まるで彼の内側を透かし見るようだった。
棚の隅に目を走らせる。練炭。着火剤。火ばさみ。ブルーシート。
一つひとつ、静かに、淡々と買い物かごに入れていく。それが生活に必要な日用品であるかのように。
レジ係の若い女はブリーチしたばかりらしく、やけに明るい髪色だった。品物を読み取り、袋に詰めながら言った。
「お客さんまさか練炭自殺!?」
フレンドリーな店員のジョークに、太文は首を振るだけだった。ノリの悪さに興醒めしたようで、店員はそれ以上詮索してくることはなかった。
太文は基本的に現金主義だったのだが、わずか一円足らず、クレジットカードで決済をした。笑った覚えはないが、一円に泣く羽目になるとは。
使い過ぎ防止の観点から、カードは使わないのだが、もう先は短いため、そんなこと気にかける必要もない。
家に帰り、カーテンを閉め、窓を目張りする。換気口にも新聞紙を詰めた。準備は、慎重に。失敗すれば、かえって苦しいだけ。
荷物を一つひとつ、布団の上に並べた。
そして、最後にスマートフォンを手に取る。SNSでの罵声と中傷の嵐は、いまも流れていた。
しかし太文の心は、風ひとつ起こっていなかった。
彼は、ゆっくりとペンを取った。白紙の便箋に、最初の一行を書き始める。
『これは、私が何を見て、何をされたかを、記すものです──』
せめてもの復讐であった。
無罪を勝ち取ったにもかかわらず、実名を報道されたことで社会的に抹殺された事実を、世間に知らしめることができれば、同じ境遇の人間が救われるかもしれない。
淡い期待を込め、書き留めた。
そして、着火剤に火を点け、練炭を燃やす。煙は静かに、しかし確実に部屋を満たしていった。
酸素の薄れゆく空気の中で、太文は床に敷いたブルーシートの上で、膝を抱えた。目を閉じると、これまでの光景がフラッシュバックのように脳裏をよぎる──歩実の笑顔、教頭の無表情、生徒たちの筆跡の揃ったアンケート用紙。すべてが、無音の映画のように彼の前を通り過ぎていく。
最初に感じたのは、全身の力が抜けていく感覚だった。四肢の末端から冷たさが這い上がり、次第に胸の奥まで沈んでいく。眠気とは異なる、底なしの虚無が身体を包み込む。
次に、耳鳴りが始まった。ブゥン……ブゥン……という低い音が、意識の底で渦を巻く。頭はボーッとして、自分の考えが自分のものではないような感覚に襲われる。
呼吸が浅くなり、心拍が落ちていく。だが、不思議なことに、恐怖はなかった。ただ、すべてを終わらせるという諦めが、彼の中で確かに根を張っていた。
そのときだった。
どこかで──死にたくない、と思った。
言葉にならない感情が、意識の奥底から突き上げてくる。苦しい。まだ、やれることがあるのではないか。生きていれば、なにかあるのではないか。
再び感じた。今度は──生きたい、と。
その瞬間、全身にビリリと走る電撃のような感覚が太文を襲った。喉の奥がひゅうひゅうと鳴り、心臓が暴れるように鼓動し始める。脳のどこかが開かれたような衝撃が走り、世界がゆがんだ。
見える。音がする。でも、体が動かない。脳が叫んでいる。生きろと。しかし、体は沈むだけだった。
直後、玄関の扉が激しく叩かれた。太文は、目を薄く開けた。夢か、幻覚か。誰かの声が聞こえる気がしたが、それが誰の声かもわからない。
意識は、そこまでだった。
次に目を開けると、天井が、白い。蛍光灯が眩しい。機械の音が規則正しく鳴り、薬品の匂いが鼻をついた。
太文は、病院のベッドで目を覚ました。口には酸素マスク、腕には点滴。心電図モニターが隣でピッピッと命の音を刻んでいる。
「よかった……目が覚めましたか」
そばに立っていたのは、白衣を着た中年の医師だった。穏やかな顔で、太文を見下ろしている。
「ここは……」
「都内の総合病院です」
「どうして……」
「あぁ、通報があったそうですよ。近くのホームセンターから」
太文は、瞬きをした。あの、冗談を言ってきた女店員の顔が、ぼんやりと浮かんだ。
「買われた品目と、あなたの虚ろな表情を見て、不安に思ったそうです。警察というのは、やはり優秀です。すぐにあなたの自宅が特定されたらしいです。カード決済がどうとかって警察の方は話してましたね。とにかく、間に合って本当によかった」
太文は、言葉が出なかった。喉が、詰まっていた。
通報を受けた警察は、ホームセンターにて決済の履歴を確認し、カード情報を取得。その後、クレジットカード会社に照会し、太文の住所を得て救出に向かった。
現金が足りず、やむなく利用したクレジットカード。それこそが、太文の命を繋いだのである。あの一円が、たった一円が、だ。
もっとも、そんな奇跡が起きていたことなど、目を覚ましたばかりの彼には考え至るはずはなかったが。
「本来なら後遺症が残ることが多いのですが、見たところ無事でなによりです。とにかく経過を見ます…………命拾い、しましたね」
命拾い。
その言葉に、涙が込み上げた。死のうとしていた自分が、誰かの行動で救われた。しかも、その誰かは、一介の店員だった。
太文はそっと目を閉じ、静かに肺の奥まで空気を吸い込んだ。どんなに醜く、どれほど不格好であっても、生きているということは、かけがえのない奇跡。
そして、どれほど痛みが伴おうと、これからもこの命を抱えながら歩いていこうと、彼は思った。
数日後。
退院は、あっけないほど簡単だった。医師の言葉通り、身体には驚くほど後遺症が残らなかった。
だが現実の社会は、太文の回復を喜んではくれなかった。
彼はすぐに職探しを始めた。
もちろん、もう教壇に立つ気など毛頭ない。あの場所は、もう彼にとって忌まわしき過去でしかないからだ。
選んだのは、全く異なる業界。倉庫作業、清掃員、コールセンター……どれも経験はなかったが、手を動かせば誰かの役には立てるはずだと思った。
だが、壁はあまりにも高かった。
実名報道──その一事が、太文の行く先をことごとく閉ざしていった。
履歴書に記した名は、すでに汚れていた。
面接で顔を合わせた途端に態度を曇らせる担当者もいれば、あからさまに事件のことを問い質す者もいた。
無罪を勝ち取ったと伝えたとて、それを受け止めてくれる者はいなかった。どんなに言葉を尽くしても、過去は拭えなかった。社会は、潔白よりも、話題性を信じる。
やがて、彼は住まいを失った。
日雇いの仕事も続かず、所持金も尽き果て、気づけば川沿いの土手で寝起きするようになっていた。
それでも──太文は、生きていることに感謝していた。一度、死を受け入れた人間にとって、寒さも空腹も、恐怖にはならなかった。名誉も職も失ったが、生きている。それだけで、十分だった。
しばらくホームレス生活が続いていた太文は、なけなしの小銭をはたいて買ったクリームパンとコーヒーを引っ提げて公園に足を踏み入れた。
時刻は夜十一時を過ぎており、辺りは静けさに包まれていたが、ベンチには先駆者がいた。
小さな少年だった。
膝を抱え、俯いていた。
太文の脳に、歩実の顔がフラッシュバックした。子供を見る度、忌まわしき過去がよぎる。
逃げるように公園から立ち去ろうとした太文の目は、かすかに捉えた。少年がベンチから崩れ落ちる瞬間を。
「──っ!?」
体が勝手に動いた。あれだけ子供を憎んだにもかかわらず、少年のことが心配になり、駆け出していた。
地面に崩れ落ちた少年を起き上がらせる。
「だ、大丈夫か? きみ!」
声を発するのは久々だった。ゆえに喉がつまりそうだった。
「え! あ! ごめんおっちゃん……!」
少年はパッと目を開いた。思いのほか元気だった。
「よ、よかった。大丈夫なんだね」
「ごめんごめん。俺、ちょっと家出してて、寝ちゃってただけ!」
「そうかい。よかった」
「ありがとうおっちゃん!」
直後、少年の腹が鳴った。
「ご飯、食べてないのかい?」
「えへへ……まぁね…………」
「こんなものしかないけど、食べるといい」
気がつけば太文は、生命線とも言える、勝ったばかりのクリームパンと缶コーヒーを差し出していた。
「え! いいの!?」
少年は目をキラキラさせていた。
「いいよ。全部あげるよ」
「ありがとうおっちゃん! でもコーヒーは苦手だからいいよ! そこで水飲めるし!」
太文は少年が気を使ってくれたのだと思い、ありがたくお言葉に甘えることにした。糖分だけでも摂取できるのは大きい。
その後、二人でベンチに座り直した。
「きみ、名前は?」
「俺は緋鐘隼斗! おっちゃんは?」
「隼斗くんか。私は太文だよ。鬼咫太文」
「太文のおっちゃん、優しいね。父ちゃんとは大違いだ」
「お父さん。厳しいのかい?」
「うん……厳しいっていうか、認めてくれないんだ。俺んち、俗にいうヤクザ? なんだけど、俺が継ぐことを認めてくれない」
「ヤ、ヤクザ……そうなんだ。大変だね……でも隼斗くんはまだまだ若いよね?」
「そうだけど、俺は絶対に継ぎたいんだ!」
「そ、そうなんだね。いいと思うよ。きっといつかお父さんも分かってくれるよ」
「だといいんだけど。太文のおっちゃんはなにしてんだ? ホームレス?」
「いたた……恥ずかしながら、そうなるね」
「どうしてそうなったの?」
「それは……」
太文は躊躇した。こんな子供に、重い話をすべきではないと。
しかしどういうわけか、話したくなった。長らく人と会話していなかったせいか、コミュニケーションを取ることが楽しかったのかもしれない。
「私は以前、小学校の先生だったんだ──」
太文は、大の大人が子供に騙され、転落した情けない人生を、包み隠さず話した。いまとなっては笑い話だが、いざ思い起こしてみると胸が苦しくなった。
「小学四年ってことは俺と同じだ。おっちゃんも大変なんだね……」
「まぁね……」
「なんか、俺の悩みがちっぽけ過ぎて馬鹿らしくなってきた。太文のおっちゃん、ありがと! 俺、帰るよ!」
「そうかい。元気でね。隼斗くん」
「うん! またな!」
そう言って、少年は駆けて行った。太文は、腹は減れど、胸はいっぱいだった。少年から元気を貰えた気がした。そしてなにより、トラウマとも言える子供を、助けようと思えた自分が嬉しかった。
あれだけ憎い記憶しかないのに、体が勝手に動いたことを、自画自賛した。
その夜は、公園で一夜を明かした。
肌寒さで自然と起床──。
目を開けると、サングラスをかけた男たちに囲まれていた。




