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喜咫太文は、都内の小学校に努める教員だった。
新任一年目、四年生の担任を持つことになり、色々と分からないことも多いが、夢だった教師の仕事をしっかり果たそうと意気込んでいた。
新学期が始まり、学生よりも学びを得る多忙な日々を走った。
夏休みを経て、ずいぶんと慣れてきた頃、太文はクラス内の違和感に気づいた。
それは放課後、教室で白河歩実という女子生徒と遭遇した時のことだった。
「どうしたんですか白河さん。忘れ物ですか?」
なにかを探している様子だったため、入り口から太文が優しくそう問いかけると、彼女は振り向いて答えた。
「いえ! なんでもないです!」
その後、なにもなかったかのように太文が立つ方とは異なるもう一方の扉から出ていき、走り去って行った。
歩実の胸中を理解できなかった太文は首を傾げ、その日は教室を施錠して職員室へ戻った。
後日、またもや歩実が放課後の教室にいた。今度はロッカーの前で膝をついていた。
「白河さん。また忘れ物?」
太文は歩実のすぐ後ろまで忍び足で近づき、問うた。すると彼女は肩をビクつかせた。
「わぁっ!」
「驚かせてすみません。それ、どうしたんですか?」
太文が見たのは、ロッカーに詰められた無数の紙切れだった。
「これは……」
歩実が口ごもる。
床に落ちた紙の切れ端を拾い上げ、わずかに残る文字を読んでみると、太文はそれが社会の教科書の残骸であることを理解した。
「白河さん。もしかして──」
「違うんです! これは家の犬が噛み千切っちゃっただけんなんです!」
ずいぶんと慌てた様子で、歩実は太文の手から紙切れを奪い取り、ロッカーに残る紙屑をランドセルに押し込み始めた。
「白河さん……」
「先生! さようなら!」
詰め終わり、ランドセルを背負った歩実は、引きつった笑顔を見せて教室を後にした。
太文は確信した。彼女はいじめられているのだと。
破られ、断ち切られた教科書の断片。そして、あの時の彼女の過剰とも言える怯えた反応。それらはすべて、同じ一点を指し示していた。
太文は、教師としての責任を噛みしめた。この子に手を差し伸べねばならない。そう、心に誓った。
放課後、人目をはばからず、しかし過度にならぬよう歩実に声をかけ、帰り道をさりげなく重ねる。彼女が書き残す日誌のわずかな言葉にも目を凝らし、誰かの手で机に刻まれた落書きや、筆箱に紛れたごみ、配布プリントの角に刻まれた小さな切れ目──。
そうした沈黙の暴力に、決して目を逸らさなかった。
職員会議でも、太文は毅然と訴えた。
しかし、教頭から得られたのは、生徒から直接声が上がらない限り、学校側は動かないという回答だった。同時に、大事にはするなという無言の圧力を感じた。
もちろん、太文はその程度の圧に屈するつもりはなかった。
後日、生徒一人一人との面談を設けた。
直接的な質問は避けた。面談の影響で歩実へのいじめが加速する可能性を懸念したからだ。
面談のなかで、とある女子生徒が、初めて心の内を明かしてくれた。
「実は……歩実ちゃんは男子のみんなにいじめられてるんです……」
太文の推察は、やはり正しかった。
他の生徒の面談でも、次々と共通する声が上がった。
それをまとめ、再び議題に上げた。だがやはり事態は動かなかった。
報告書を前にした教頭の顔は渋く、学年主任は視線をそらした。校長に至っては、まるで関わりたくないとでも言うように、曖昧な表情を張りつけたままだった。
「そう言われましても、やはり、決定的な証拠がない以上は……」
教頭の言葉は、要するに、なにもしないという意味だった。
太文は、言いようのない怒りを胸に呑み込み、ひとりで動く決意を固めた。
翌日、放課後に歩実に直接話を聞くことにした。
「白河さん。正直に話してほしいです。クラスメイトに嫌なこと、されてないですか? ほかの生徒からも、話は聞いています」
黄昏時、窓から夕陽が差し込む静かな教室。
やや間を空けて、歩実はついに心を開いた。
「先生。私、もう限界です……」
「白河さん。私に全部話してくれませんか?」
太文は優しく声をかけた。
すると、歩実は涙ぐみながら数々の嫌がらせを吐露した。彼女の証言から、暴力を振るわれたことも発覚した。
「助けて……先生…………」
歩実は吹き消えそうな声でそう言った。そして太文の胸に飛び込んできた。
「大丈夫です。私が絶対に守りますから」
太文は歩実の勇気を称え、強く抱き締めた。そして優しく、包み込むように頭を撫でた。
その夜、太文は帰宅するなり、ネットで調べ尽くした。
いじめに対し、教員がとるべき行動は。最善の策は。ただ単純に、ホームルームでいじめがよくないと説くだけでは改善されるはずがない。歩実も居心地が悪くなるだけだ。
かといって、男子を集め、叱りつければいいという話でもない。
なにが正解なのか。教員としての経験が浅い自分には、明確な答えが出せない。
ブログやヨーチューブ、論文など、様々な情報を漁った。
結局、一晩で答えが出るわけもなく、朝を迎えた。そんな簡単に解決策が出るなら、この世にいじめなどないというもの。
学校に到着すると、なにやら怒声を上げる女を、教頭がなだめていた。
近づくと、その女の正体が、歩実の母であることに気づいた太文は、割って入った。
「ちょ、ちょっと! 白河歩実さんのお母様ですよね? なにかあったんですか?」
すると、歩実の母は、眉間に皺を寄せて太文を睨んだ。
「鬼咫先生! これ、どういうことですか!」
太文はスマホの画面を突きつけられた。画面には、教室が撮されていた。
そして、抱き合う二人の影。
「これは……?」
「あなたからセクハラされてるって、娘から聞きましたよ!」
「セ、セクハラ!? そんなことあり得ないですよ!」
「ならこの動画はなんなんですか!」
「これは、昨日、彼女と話したんです! 彼女は……」
周囲を見渡し、多数の生徒が見ていることに気づいた太文は、声のボリュームを下げて言った。
「彼女はいじめられています。その相談を受けて、泣き止むよう胸を貸しただけです」
「はい!? いじめられてるなんて一言も聞いてませんよ?」
「きっと言いづらかったのでしょう。本人から話を聞きましょう。とにかくここは他の生徒の目もありますから、応接室へどうぞ」
なぜあんな動画が撮られていたのか。
予想外の出来事に動揺していた太文は、そんな疑問を持つ余裕はなかった。しかし、冷静に考えてみれば、おかしな話だった──。
その後、教頭と共に昇降口から移動し、歩実本人を交え、事実確認を進めることとなった。
「白河さん。少し言いづらいかもしれませんが、昨日のこと、話してくれますか?」
不安げな面持ちの歩実は、コクりと頷いた。
「私は、ずっと前から……」
太文は自身の潔白を証明するためにも、静かに耳を傾けた。しかし、歩実の口から出た言葉は、予想していたものとは全く違った。
「鬼咫先生に、体のいろんなところを触られていました。そうしないと、成績を落とすって言われました。怖かったです……」
そう言って、歩実は俯き、目を擦り始めた。
当然、太文は黙っていられなかった。歩実の両肩を掴み、揺らした。
「白河さん!? なにを言ってるんですか!?」
「きゃぁあああああ゛ッ!」
歩実は大声で叫んだ。
直後、同席していた体育教師が太文に飛びかかった。
「鬼咫! なにやってんだお前!」
床に突っ伏させられ、両腕を背に回された。
「ちょっと待ってください……!」
必死に首を捻り、歩実の方を見やると、彼女は母の胸に飛び込み、怯えた様相を浮かべていた。
その後、教頭が立ち上がって白河親子に頭を下げた。
「申し訳ありません! この件は後日、正式に謝罪させていただきます! 鬼咫の処遇についてもご報告いたしますので、今日のところはお帰りいただけませんでしょうか!」
「教頭先生……! 違うんです──」
「大人しくしろ!」
背に乗るガタイのいい体育教師が、押し込む力を強めた。
息をすることも苦しくなった太文は、去り行く歩実を見届けるほかなかった。
扉がしまる寸前、彼女の表情が見えた。恐ろしいことに、涙袋につくほど口角が上がっていた。
そう──歩実は笑っていたのだ。
その時、遅ればせながら、太文は自分の置かれた状況をようやく理解した。
はめられたのだ。こんな小さい子供に、騙された。
終わりだ。性暴力を働いた教師というレッテルを貼られれば、教員人生に終止符が打たれたようなものだ。
いや、そんな次元の話ではないのかもしれない。
当日、校長と教頭、そして学年主任の四人で話をした。
もちろん、歩実が嘘をついていると訴えたが、まともに取り合ってくれることはなかった。会議は事実確認のためではなく、今後の方針についてのものだった。
さなか、ヘルプで太文のクラスを担った教員から、アンケート用紙が届けられた。
内容は、太文に関するアンケートであり、回答者は太文が持つクラスの生徒全員。
太文は内心、歓喜していた。
歩実以外の生徒とは、先日面談を設け、様々な証言を得ていた。つまり、太文の身の潔白が、今度こそ晴らされる。
そう思っていた。
だが、現実はもっと残酷だった。
誰一人として、歩実がいじめられているという証言を、文字にしていなかった。
それどころか、太文の性暴力が、歩実以外の女子生徒にも及んでいるという証言が多々書き留められていた。
ゾッとした。
太文を騙していたのは、歩実だけではなかった。彼が担うクラスの生徒全員が共謀だったのだ。
もはや弁解の余地は残されていなかった。
とは言え、絶望の淵に立たされた太文に、光明が差し込んだ。
後日開かれた裁判で、無罪を勝ち取ったのだ。
証拠として提出されたれいの動画では、太文が能動的に歩実を抱きしめたのではなく、受動的だったため、証拠不十分と結論付けられた。くわえて、同クラスの生徒の証言が、一致し過ぎていたことが功を奏した。
本心を語っている者同士の証言を集めると、自ずとバラつきが出る。十人十色、みな同じ光景を見ても、感じることは異なる。
しかし生徒たちの証言は、まるで誰かに誘導されたかのように似通っていたのだ。
とどのつまり、小学生の悪巧みの域を越えなかったということ。
そして、結局、様々な裏付けの結果、生徒らが共謀し、画策したことであると判明。主犯格は、白河歩実だった。
その事実を知り、太文は安堵と共に驚愕した。
いじめられていたと思っていた生徒が、むしろクラスを支配していたのだ。驚くのも当然だろう。
無実を証明した太文は、留置所から出て、晴れて復職できると考えていた。
しかし、社会は理不尽極まりなかった。
まず、学校に行き、校長や教頭に顔を合わせた。謝罪の一つでもあるのだろうと思っていたが、そんなものはなかった。
いや、正確には一言謝られた。だがその謝罪は、別の意味合いだった。
「鬼咫先生。申し訳ない。事件のことを報道されてから、保護者からのクレームが殺到してね。もうきみのポストはないんだ。もう別の道を探してもらうほかない」
校長から直々に通達された。




