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仲間を離脱させた九頭零士は、ワイラーを見据えて言った。
「やっぱりリベンジを受ける側が数押しするってのは、どうもプライドが許さないかな」
「ずいぶんと思い切ったな。もはやリベンジは果たしたも同然だ。お前一人では俺に太刀打ちできなかっただろう」
「それは時期尚早ってやつだよ? 俺はまだ倒れてないからね。それにさっきはハンデを背負ってたようなもの。いまはお互い、穴があるじゃん?」
冗談交じりにそう言うと、零士は腹部の銃創を親指で指差した。
「ふん。相変わらず憎たらしい余裕ぶりだな。いや、それは余裕ではないな。痩せ我慢というやつだ」
「どうかな。それに、きみも不完全燃焼でしょ?」
「確かにそれもそうだ。二度と立てないよう、完膚なきまでに叩きのめしてやらないと、気分がよくないな」
「いいね。俺も燃えてきた」
零士は十手を握り直した。疼く腹の傷など忘れるほど、目の前の敵に集中する。
ワイラーもまた、拳を握り込み、片足を半歩後ろに引いて構えた。
数秒の沈黙──。
先手、零士は十手を振るい、地面を抉った。鉄と石が擦れ、鈍い音が響く。土と砂利が爆ぜるように宙へ舞い上がり、銃弾のごとくワイラーの顔面を覆いかぶさるように飛散する。
もちろん視界を奪うのが目的ではない。彼の気流感知──その繊細なセンサーを、乱流で惑わすための一撃だった。
ワイラーの眉がわずに動いた。
零士の影が、虚空を滑るようにしてワイラーの懐へと潜り込むと、無駄のない動きで、ついに襟を掴むことに成功。
弾丸に撃ち抜かれたダメージにより、彼のアビリティも鈍り始めているのかもしれない。
笑みを浮かべた零士は、即座にワイラーの鳩尾に、抉るような膝蹴りを振り抜く。
「ほいさぁァァアアッ!」
ワイラーの上体がくの字に折れ、低く唸るような吐息が洩れる。地に足がつかず、無様に背を仰け反らせたまま、彼は後方へ吹っ飛ぶ。
だが──。
「悪くない」
着地の寸前、彼は地面を蹴って身体を捻り、受け身を取りながら空中で姿勢を立て直す。瞬時の判断と卓越した反射神経。蹴りを喰らった直後とは思えない、獣じみた動きだった。
そして即座に土煙を蹴散らして跳躍。零士との距離が一瞬で詰まる。
ワイラーの拳が、零士の顎に迫る──後退しつつ、体を逸らして拳を避けるが、風圧だけで頬に灼けるような感覚が走った。
間髪入れずにワイラーの蹴りが、零士の脇腹を薙ぐ。
「っぶなっ……!」
すんでのところで回避。
生の実感が湧き上がる。満身創痍の肉体を押して、零士は地を蹴った。
死線を越えるため、言葉では語れない執念が、闘志が、激突の幕を切り裂いてゆく。
次、零士の攻撃──姿勢を極端に低くし、ワイラーの脛をめがけて十手を振るう。
しかしその軌道を、ワイラーは正確に読んでいた。
「ふんッ……!」
低く、地を這うような声と共に、ワイラーの脚が先んじて動き、十手を踏みつけられた。乾いた音が鳴り、柄の部分まで地面に深く突き刺さった。
「くっ──!」
手に伝わる異様な反動。骨が軋む感覚に、零士は瞬時に手を放すしかなかった。鋼の武器が、無力に地に封じられる。
瞬間、ワイラーの拳が容赦なく襲いかかる。近すぎる。避けきれない。
咄嗟に零士は左腕でガードを取ったが──。
ズンッ。
音ではなく、質量がぶつかった。そんな感覚だった。凄まじい衝撃が零士の全身を揺るがし、膝が崩れかける。腕の内側に激痛が走り、骨がひび割れるような音が内耳で鳴った。
次いで、ワイラーの足が唸る──連続の回し蹴りが、零士の腹を撃ち抜く。肉が、内臓が、凶器で掻き回されたかのような痛み。
体が宙に浮き、そのまま十メートルほど吹き飛ばされた。
「どぅわッ……!」
しかし空中で体を翻し、難なく着地。まだまだ落ちない。
十手を手放し、右手が寂しそうにしているが、零士自身はそうでもなかった。文字通り、丸腰での殴り合い。それこそが漢の闘いというものだ。
次、零士の身体が空を切る。腹の奥に沈んだ痛みを引きずりながら、地を駆ける。
深く沈んだ低姿勢からの加速──重心を殺し、音を断ち、次の一瞬にはすでにワイラーの間合いへと踏み込んでいた。狙いは、右脚。否、明確な陽動。
靴先がワイラーの膝に届く刹那、その直前、手が風を裂くように伸びる。目にも留まらぬ速さで、ワイラーの腰へ──そして、指先が革の感触を捉えた。
確かにそこにあった。硬質な感触、引っかかり、弾力。ワイラーの腰に巻かれた革製のベルト。それを、零士は確実に掴み取っていた。
数合前まで、自分の手がワイラーの動きを捉えることは困難だった。斬り込む隙など、影もなかったはずだ。
だがいま、自分の指は確かに、彼の身体の一部を捉えている──。
実のところ、視式の精度が徐々に落ち、感覚の鈍りに焦燥を抱いていた零士だったが、この一瞬の接触が静かな確信へと変わった。
ワイラーもまた、確実に削られている。零士と同じように、反応の鋭さも、踏み込みの重みも、わずかずつ蝕まれているのだ。
「アイヤァッ!」
握ったベルトを引き寄せ、零士の膝がワイラーの腹部へめり込む。
鈍い反発が手足に返る。手応えはあった。だが、その一瞬で死角が生まれる。
ワイラーの肘が素早く回り込む──死角からの肘打ちが、零士の肩甲骨に鋭く叩きつけられた。
空気が肺から弾け、地面に突っ伏しそうになったが、漏れ出す酸素を逃がさぬよう唇に力を込め、踏ん張る。
いまだ手放していなかったベルトを再び引き寄せ、今度は拳を胸に叩き込む。
振りかぶることもなく、至近距離で放たれたはずのその左拳は、凄まじい威力であり、ワイラーの体が吹っ飛んだ。
銃創が疼き、背に受けた衝撃で肩甲骨が軋む。わずかに片膝をついたが、零士はすぐに立ち上がる。血の味が口に広がっても、視線は一切逸らさない。
その間にワイラーも受け身を取るどころか、すでにこちらに向かって跳躍していた。鋼鉄のような拳が、一拍の間もなく叩き込まれる──が、零士は紙一重で躱し、腕を巻きつけた。
掴んだ。
今度は袖口。反動を利用して体を旋回させ、逆の手でワイラーの背中を押す。体ごと翻した勢いで、弾くように投げつけた。
ワイラーが宙に舞う。だがそのままでは終わらない。空中で体勢を立て直し、着地と同時にバネのように跳ね返る。
そのとき、零士の眼球の渇きが限界に達し、まばたきをしてしまう。直後、肩口に衝撃──ワイラーの回し蹴りにより、踵が捻じ込まれていた。
零士の身体が再び吹き飛び、壁に叩きつけられる。砕けた石材が舞う。
痛みに意識が霞みかけるが、その中でも足を止めない。壁を蹴り、跳ぶように前へ。
今度は真正面から、腕を大きく広げて飛び込む。
ワイラーのカウンターを読んだ上で、その拳を滑るように躱し、肩を掴む。肉と布の感触。そこに体重を乗せ、ワイラーの体を引きずるようにして倒しにかかる。
二人の身体が地を這い、もつれ合うように転がる。土と砂埃が舞い、視界が閉ざされる。
だが、互いに逃しはしない。距離が開けばまた詰め、掴めばまた打ち込み、吹き飛ばされてもまた返す。
踏みとどまるだけの戦いは、すでに終わっていた。
削り合いではなく、食らい合い。力と力、痛みと痛み、気迫と気迫が、互いの身体にぶつかっていた。
呼吸は乱れ、傷は深くなり、意識も遠のきかける。
しかし、二人のその瞳にはまだ、どこか嬉しそうな光が残っていた。
この場に立っていられること、この命を賭けられる相手が目の前にいること──その事実だけが、二人の全身を再び突き動かしていた。
再び肉薄──。
間合いなど、もう意味を持たない。互いの呼吸が肌を打ち、血の匂いが鼻腔を焼くなかで、本能だけが命を支えているのだ。
零士はわずかに左へ。斜めに身体をずらし、低い姿勢で滑り込むように。ワイラーの右肩には銃創がある。そこにわずかな隙が生まれると、零士の感覚が告げていた。
手が伸びる──腕を掴む。
次の瞬間、零士の体が回転する。腰を軸にして、ワイラーの腕ごとその身体を引きずり落とすように地面に叩きつけた。
土埃が舞い、振動が空気を震わせる。
ワイラーもただ転がされるだけでは終わらない。倒れた体勢のまま左脚を鋭く振り上げた。
あまりの速さに零士の視式が間に合わず、顎にクリーンヒット。今度は逆に零士の身体が宙を舞う。
落下する前に、ワイラーが跳び起きる。背中から落ちる零士を迎え撃つように、跳び膝を叩き込む構え。
ほんの一瞬だが意識を飛ばした零士。しかしすぐに息を吹き返し、空中で体を捻ってワイラーの膝を躱す──落ちるついでにワイラーの首を掴み、後頭部を地面にめがけて叩き込む。
衝撃が地面を震わせる。石と骨のぶつかる嫌な音が響いたが、ワイラーの動きは止まらない。むしろ首の衝撃を軸に、背筋をバネのように反らせて反動で跳ね起きると、零士の脇腹に強烈な拳をねじ込んだ。
零士の身体が一瞬くの字に折れた。息が詰まり、肺が悲鳴を上げる。だが、後退は最小限にとどめ、一歩だけ下がって体勢を立て直す。
ワイラーはすでに完全に立ち上がっていた。
次いで零士のローがワイラーの脛をかすめ、ワイラーの回し蹴りが零士の肩を弾く。続くパンチの応酬。拳と肘が空気を裂き、腕と腕がぶつかるたびに鈍い衝撃が響く。
ワイラーのフックを前腕で受け止めた零士は、同時に左膝をワイラーの太腿に叩き込み、ワイラーも反射的に肘を零士のこめかみに当てる。どちらも一歩も引かない。
ただ激しさだけが増していく。
いつしか、零士の視式も、ワイラーの触式も、その機能をほぼ果たしていない。
そして──瞬間、同時に踏み込んだ。二人の拳が同時に突き上がる。
ワイラーの右アッパーが零士の顎を撃ち──零士の右アッパーがワイラーの顎を跳ね上げた。衝撃の余波が骨を震わせ、意識を奪う。
そしてふたつの肉体が、同時に浮き上がった。回転しながら空を切り、天から差す月光を一瞬だけ背に受ける。
そして、二人同時に落ちた。
零士の背が石床を裂く。ワイラーの体も、肩を下にして叩きつけられる。両者ともに身を軋ませながら、しかし同時に起き上がる。
肩が外れかけていた。膝が震えていた。
だが、気迫はむしろ膨張していた。
「いいなぁあこの感じ! 生きてるって感じだなあああ!」
息をすることすら苦しいはずの零士は、目をひん剥いて昂る。
「ふん。狂人め……」
そうは言うものの、ワイラーの口角は上がり、目尻には皺が入っていた。
この一撃の応酬が、あと何合続くか。それはもう、誰にも分からなかった。だが、二人の意志は明白だった。
終わるまで、止まらない。潰れるか、削りきるか、どちらかの意識が絶えるその時まで、戦い続ける。
「ぐッ…………限界を知らないのか。お前は……」
平静を保っていたが、突如ぐらついたワイラーが、満面の笑みの零士に問う。
「そうか……! 限界……限界!」
その時、零士は思い出した。二十歳にもなっていない陽暈に、偉そうに説いた教えを。
「ありがとうワイラー! 俺としたことが、すっかり忘れてた!」
むろん、ワイラーは目の前のいかれた男を見て、眉根を寄せた。
「限界は……ない! 俺は信じない! あったとしても、それは限界じゃない! 壁だ! 越えるべき! 越えられる壁! それなら越えて当然……!」
そのとき、途切れかけていた零士の集中は、一気に最高潮に達した。今日一番──そんな次元の話ではない。
彼の生涯でも類い稀な精神状態の境地に達した。
もはや全身の痛みが吹き飛んだ瞬間、零士の動きは触式を超越してしまう。
吹き流れる夜風よりも速く、染み入る音よりも速く、地を蹴った彼は、一瞬にしてワイラーとの距離を詰めた。
「──ッ!?」
戦いも佳境に差し掛かろうかというところで、これまでで最も鋭い動きを見せた零士に、ワイラーは息をこぼすことしかできない。
原点に立ち返り、零士は全身全霊、最速の正拳をワイラーの頬に打ち込む。
拳が皮膚に触れた。視式によってそれを明確に視認。
その後、ワイラーの頭部は後方へ引き始める。だがしかし、零士の速度がそれを上回り、頬に拳がめり込む。
多少の勢いは殺されたとはいえ、強烈な一撃がワイラーの顔面に激突した。
またもや彼の体が宙を舞うかと思いきや、ワイラーは片足を半歩引いて踏みとどまる。
「ふんぬぉぉォォオオオオアアッ……!」
咆哮と共に、反撃の右フックが零士の眼前に迫る。
しかしその頃、零士は瞑目していた。
ただのまばたきではない。生理現象ではなく、自ら目を閉じた。
いまの自分なら起こせる。
根拠はない。
ただ、確信した。
もし限界がこの世に存在するなら、これで自分は敗北するだろう。だがしかし、限界など存在せず、それはただの壁であり、越えられないものではないとすれば。
開眼──。
直後、視覚から大量の情報が、大津波のように脳へ流し込まれる。
眼前に迫るワイラーの拳。逆立つ体毛。皮膚に刻まれた無数の傷跡。血走らせた眼。なびく髪。巻き上がる微細な土。夜空に輝く星々。
月に照らされた全ての物質が、鮮明に映った。
そうして脳の処理速度は、ゼロから一気にマックスまで到達。瞬間、零士の視界が大きく歪み、頭部を鈍器で殴打されたような衝撃が襲う。
「ふぅ……」
零士は軽く息をついた。そんな余裕さえあった。
なぜなら、彼以外、人も、虫も、浮遊する塵さえも凍りついているからだ。
強制フリーズ──。
それは常人には到底辿り着くことのできない領域。
純粋な視力の向上により、目に映る世界の細部の細部まで視認し、驚異的な動体視力により、万物の動きをひと時も逃さずに捉える。
瞑目し、視覚情報を限りなく失くした後、突如として流し込まれるその情報量を処理するため、脳はフルスロットルで稼働する。その結果、世界は──バグる。
さりとて、この停止がいつまで続くのかは分からない。
彼は静かに片足を一歩下げ、右手を力強く振りかぶる。その動きには一切の迷いがない。今、この瞬間、全てを賭ける覚悟で、彼はその拳を引き寄せた。
「ワイラー。あとは俺に任せてくれるかな」
そう呟き、限界まで引き込んだ右拳に持てる力を全て込め、押し出す──。
花火が散ったかのような弾ける音を伴い、世界が時間を取り戻した。むろん、同時にワイラーの頬骨は砕け、体は宙を舞った。
彼は彼で、拳を押し出そうと前に重心を置いていたこともあり、零士の打ち放った正拳の威力は、規格外の破壊力だった。




