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天若陽暈は、尋芽を打ち砕いたのち、日下部のGPSが示す座標を頼りに迷いのない足取りで闇を突き進んでいた。
月光が斜めに差し込む月見台。その脇を通り過ぎようとした刹那、視界の端に、場違いな静けさが滲む。
そこには、二枚の座布団が並べて敷かれていた。
一枚は空虚に、夜露を受けて冷たく沈黙している。だが、もう一枚には、男がひとり、静かに腰を下ろしていた。
男のまわりには、まるで冷気を視覚化したかのように、煙のような白いオーラが漂っていた。微細にゆらめくそれは、風もないのに輪郭を揺らし続け、男の身体を中心に淡く滲んでいた。
月光と交わりながらも、決して混じり合うことのない白。
「京鹿……」
急ブレーキを踏み、震える声で陽暈が名を呼ぶと、男はこちらを振り返る素振りすら見せず、満ちた月を仰ぎながら言った。
「ようやく来たか。貴様も座ったらどうだ」
京鹿は仮面はかぶっておらず、素顔を晒したままだった。
「断る」
「まぁそう言うな。最後に話をしようではないか」
直後、陽暈の背後に、多数の靴音がこだました。硬質な響きが幾重にも重なり、空気を圧迫する。
振り返った彼の視界には、黒い犬の仮面をかぶった構成員たちが静かに立ち並んでいた。
一瞬、陽暈は息を呑んだ。
包囲されたことへの驚きではない。彼の目を見開かせたのは──全員の身体から、明確なオーラが立ち昇っていることだった。
赤、橙、黄、緑、青。
どの色も、脳の制限を二段階以上解除した証。オーバーまで達している者はいないにせよ、それぞれがなんらかのバーストアビリティを有していた。
戦慄すべき光景──常人であれば、膝が震えるような。だが、陽暈の中に焦りはなかった。
つい先ほど、尋芽をねじ伏せたときのあの集中。世界が輪郭を失い、時間さえ薄まるような深淵の思考領域。
そこに入ってさえいれば、たとえこれだけの数に襲われようとも、脅威ではない。
「もう少し期待していたのだが、やはり日下部は優秀だった。FRCの欠陥を見事に発見し、完成に近づけた。あくまでもリリースしていない者にのみ有効だが、一度の投与でバーストまで可能にしてしまうとは恐れ入った」
「やっぱり完成してたのか」
「いいや、まだ完成していない。現段階では投与時のバースト成功率は二割程度。あとはみなランペイジ状態になった末、息絶えてしまう。ゆくゆくは強制的にオーバーできるよう改良を重ねるつもりだ」
「二割……?」
ざっと視線を巡らせただけで、周囲を取り囲む構成員の数はおよそ二十。
ということは、この場に至るまでに、八十人近くが命を落とした計算になる。その事実が、脳裏に冷たい鉛のように沈み込んだ。
バーストアビリティ保持者を量産するために、何人の人間を素材として扱ったのか。人を育てたのではない。削り、壊し、絞り出したのだ。
その非人道的な現実を、陽暈は決して受け入れることができなかった。
「そうだ。だからいま、作れたのはそこにいる二十人程度だ」
「作れたって。お前は人をなんだと思って──いや、もういい。月乃はどこだよ」
京鹿に人道を問うことは、もはや無意味だと悟った陽暈は、本来の目的を思い出した。
「案ずるな。手は出していない」
「お前の言うことなんか信じられるわけねぇだろ」
陽暈の声には、刺々しい怒気が滲んでいた。だが京鹿はまるで意に介さず、無表情に一言返す。
「とにかく座れ」
言い争ったところで、時間を浪費するだけか。
そう考え至った陽暈は、渋々ながらも座布団に腰を下ろした。京鹿との間には、ちょうど一メートルほど。
不意に襖の隙間から吹き込む夜風が、室内に静かな冷気を運んだ。
京鹿は黙ってお猪口を手に取り、その中を静かに覗き込むように見つめた。酒の表面が、月光を受けてかすかに揺れる。
「父上は、いつもこうして夜空を眺めていた。なにも言わずに、ただ仰ぎ、酒を嗜んでいた」
そう語る京鹿の声は、どこか遠い場所を見ているようだった。感傷というより、記憶の中に身を浸すような響き。
陽暈と向き合っているのではなく、何年も前のある夜へと心を飛ばしているようだった。
「貴様の母は、弟は、どんな人物だったのだ」
京鹿はちらりと陽暈を一瞥すると、手元の酒を静かに啜った。
「お前なんかに話さない。話したくもない」
その返答に、京鹿はわずかに目を伏せた。
「そうか。だが貴様の憤りから、ある程度は察せる」
「お前……バカにしてんのか…………?」
言葉を吐き捨て、睨みつける陽暈。だが京鹿は平然と、むしろ憐れむような声音で続けた。
「少しは成長したのかと思っていたが、相変わらず稚拙だな」
「チッ…………親父のこと、どこまで知ってる」
「天若阿稀か。私も、それほど深く知っているわけではない」
「阿稀……そんな名前なのか。親父が、お前の父を殺したって言ってたよな。それは……本当なのかよ」
「ああ。やつは父上を殺した。そして、父上が可愛がっていた息子もな」
「俺の親父が、子供を……?」
信じがたい言葉に、陽暈の声がかすれた。
「そうだ。その報復に、私は貴様の母と弟を殺させた。天若阿稀が罪を償っていれば、そうはならなかった。ゆえに貴様は父を恨むべきなのだ」
「っざけんな……!」
怒声とともに、京鹿との間に置かれていた酒瓶を弾き飛ばした。瓶は欄干に叩きつけられ、粉々に──。
酒の飛沫が舞い、彼の怒りが空気に散ったようだった。
しかし、京鹿は微動だにしない。最初から、陽暈の激情すら計算に入れていたかのように。
「親父とお前のいざこざに、どうして俺たちが巻き込まれなきゃいけねぇんだよ! だいたいな、俺たちは親父に育てられた覚えはないんだぞ!?」
その叫びに、京鹿は静かに応じる。
「貴様の言うとおりだ」
意外なほど穏やかで、あっさりとした返答。陽暈は一瞬、言葉の意味を測りかねて、息を呑んだ。
「はぁ……?」
その疑問も、京鹿はまるで見透かすように受け流す。
「貴様の気持ちは痛いほど分かる。私も同じだったからな」
空になったお猪口をそっと床に置いた京鹿は、ぶちまけられた酒の溜まりに目線を落とした。
「天若陽暈。教えてくれないか。どうして父上は殺されなければならなかったのだ」
「そんなの知るか……!」
「そうだ。それこそがこの世の不条理。理由もなく、人は命を奪われる。いや、死ぬ理由などこの世にありはしない。あってはならない。私もそう考えていた。だが現実はそれほど甘くはなかった。幸せの絶頂を生きる者が、数刻後に息絶えるなどという理不尽はザラにある。だがそこに理由はない。それが人間であり、生きるということなのだ」
「それが人を殺していい理由になるのかよ」
怒気をはらんだ声が、思わず口をついて出た。
「これは良し悪しの話ではない。確定した真理を理解するか否かという話だ」
京鹿の言葉は、鋼のように冷たい理屈だった。
「傲慢だろ。それは」
陽暈は睨みつける。
「どこがだ。むしろ謙虚であると言えよう」
火照るような怒りを胸に秘めながら、陽暈は静かに言葉を吐き出した。
「お前がなにを感じてなにをしようが俺には知ったこっちゃない。でもな、お前は俺の大切な家族を奪った。その罪は必ず償ってもらう」
語尾が震えるのは、恐れではない。確固たる意志がその声を揺らしていた。
対する京鹿は、珍しく笑い声を漏らす。
「ふっはっは。ずいぶんと素直になったな。どうやら張りぼての正義は捨て置いたらしい」
だが、その笑いには体温がなかった。口元はほころんでいても、目は氷のように冷えきっていた。
陽暈は正面からその虚ろな視線を受け止め、低く吐き出す。
「俺はもう正義のヒーローにはなれない。だから人の行いを正すなんて偉そうなことは言わない。でも、お前だけは償わせる。俺が殺めた人たちのためにも、絶対にだ」
胸の奥に沈むのは後悔なのか、それとも贖罪の渇きか──もはや自分でも判別がつかなかった。ただ一つ、京鹿を止めなければならないという一点だけが、陽暈の全存在を支えていた。
「そうか。そうだな。だがまだまだ本心は隠しているな。貴様はこれまで手にかけた人間のことなど微塵も考えていない。私と同じ目だ」
その言葉に、陽暈の心臓が一瞬、脈を跳ね上げた。
「なに……?」
京鹿の目が、深淵のような無色透明の光を宿す。
「復讐だ。貴様の心を支配しているのは、結局、仇討ち。それだけだ」
「違う!」
思わず陽暈は立ち上がっていた。反射的な拒絶が身体を突き動かした。
「俺は……!」
口を開くが、言葉が続かない。心が言葉に追いついてこない。言い訳にすらならない思考が、頭のなかで空回る。
「俺は…………」
声がかすれ、足元の地面に自らの影だけが揺れた。怒りとも悲しみともつかぬ感情が、喉の奥で濁ったまま滞る。
苛立ちが自分自身に向かう。そんな自分が、ひどく惨めで、哀れで、腹立たしい。
──そして、気づいた。
ここまで来られたのは、気高い理想でも、燃えるような使命感でもなかった。ただ、すべてを呑み込むような一つの感情。
純粋な憎悪。
それ以外の何もなかった。陽暈の胸に残っていたのは、復讐を果たしたいという、剥き出しの執念だけだった。
利他心を育め。過去ではなく現在を大事にしろ。
様々な忠告を、人生の先輩から受けてきた。
しかし結局、残っていたのは復讐心だけだったことに気づいた陽暈は、やるせなくて仕方なかった。
「……認める…………お前の言うとおりだ」
声は低く、感情に濁っていた。
「夢を見るんだ。死んだ母さんと弟の夢を。もうこれは俺だけの話じゃないんだよ。どんな形であれ、仇を打つ。そんで俺も償う。俺にできるのは、それだけだ」
正義も後悔も、一度剥がれてしまえば、その下には憎しみという名の執念しか残っていない。そう思い知った。
「償う、か。くだらぬ倫理観はもう捨てろ。貴様が思っているほど世界は壮麗ではない。薄汚く、底が見えぬものだ」
京鹿の言葉は、沼の底から這い上がってくるようだった。乾いた諦念の中に、確かな真実がある。
それでも──。
「それでも、俺は俺の筋を通す。そこから目を背ければ、本当に人じゃなくなる」
陽暈の目は揺らいでいなかった。怒りも迷いも、その奥にあったのは、自分だけの答えだった。
「……確かにそうかもしれないな。いや、きっとそうだ。貴様の言うとおり、私はもう人ではないのだろう。そうでなければ、いまこの場で酒を嗜んでいるはずがない」
京鹿がそう呟いたとき、わずかに目を伏せたのが見えた。仮面をかぶっていなくても、彼の本心はつかみにくい。それでも、今だけはわかる気がした。
「お前のことは零士さんから聞いた。どんな人生を歩んできたのか、その全部を知っているわけじゃないし、知りたいとも思わない。だから同情もする気はない。結局、俺たちが分かり合える日は、来ないんだよ」
対話の限界を悟り、陽暈はわずかに口を引き結んだ。
「……そうだな」
京鹿は静かに応じると、傍らに置かれていた黒い犬の仮面を手に取り、それを顔に当てた。そしてゆっくりと立ち上がると、踵を返し、無言のまま部下たちの方へと歩き出す。
「どこ行くんだよ」
陽暈の問いかけに、京鹿は立ち止まらず、ただ言葉を残す。
「天若陽暈。貴様は正しい──やれ」
その言葉と共に、周囲の空気が一変した。
色とりどりのオーラを身にまとった構成員たちが、一斉に陽暈へと襲いかかってくる。怒涛のような殺気が周囲を包み込んだ。
「ふざけんなよ……京鹿…………」
呼び止めるも、京鹿は足を止めない。
「っざけんじゃねぇええええ゛!」
押し寄せる敵の波の中で、唯一遠ざかっていく京鹿の背中に向かって、怒声をぶつけた。
だが──京鹿は一度も振り返ることなく、その場を去っていった。




