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「触式の新たな弱点。見ーつけたぁ!」
零士は人差し指を空に向かって突き立てた。彼の視式は確かに捉えたのだ。常軌を逸した速度と精度で繰り広げられる応酬のなかに、ほのかに差した戦局の裂け目──光明を。
「どういうことや零士! なんか手応えあったぞ!」
「っす! あーしも感じたっす!」
「ヒントはね。きみら二人の息の合ったコンビネーション」
凱亜と綱海が訝しげに顔を見合わせたそのとき、ワイラーが無言のまま理解に達していた。彼の口が、先んじて真理を告げる。
「なるほど。逆方向からの同時攻撃、か」
「ピンポンピンポーン」
触式──それは敵の攻撃に対し、瞬時に反対方向へと身体を滑らせ、半自動的に回避する異能。だが、もしその逃げ場自体を消されてしまったとしたら。
前にも後ろにも退けぬ挟撃が迫ったなら──触式は、ただの無力な身のこなしに堕する。
理屈は明快だった。しかし、その条件を再現することは、ほとんど芸術の域だ。完全な同時性、正反対の角度、互いの動きを知り尽くした者同士の連携。
だが──それでも、子弟コンビの二人ならいける。
「俺は極力ワイラーの注意を引く。あとは頼むよ。二人とも」
「あい分かった! チビ助! いけるな?」
「うぃっす!」
綱海が無邪気に拳を突き出し、師と合わせる。その瞳に宿るのは、確信。
殴打が、決まる。
凱亜と綱海の呼吸は一つ。零士の陽動に応じ、挟撃が次々とワイラーを襲った。
右。左。斜め上。足下──。
拳が、肘が、膝が、獣のような勢いで交互に襲いかかる。回避の先を突く、巧妙に仕組まれた連携。触式を無効化する絶妙な角度とタイミングが、確実にワイラーの動きを奪っていく。
肉が震え、息が乱れ、漆黒のシャツが再び皺を寄せる。
零士の視線が、その変化を見逃さなかった。
押し切れる。このまま。希望が、輪郭を持って彼の胸に灯る。
だが──。
次の瞬間、空気が変わった。
鋭く。冷たく。刃物のように。ワイラーの動きが、突然変質したのだ。
綱海の拳が、虚空を裂く。空を打った瞬間、反対側から繰り出した凱亜の蹴りも同様に外れていた。
ワイラーの姿が、そこにはもういなかった。零士の視式をもってしても捉え損ねそうになるほどの速度で、目を見開いた綱海の懐へ。
「ぐあっ……!」
ワイラーの掌底が腹部に深く食い込み、綱海が呻き声をもらした。風を裂く轟音。骨が軋むような音と共に、彼女の身体が弾かれた。
「チビ助ぇ!」
叫ぶ凱亜の声を背に、綱海は庭の敷石を数メートルも滑っていき、石灯籠の根元に背中を打ちつけてようやく止まった。
動かない。息をしているのかすら分からぬほど、綱海の身体はぐったりとしていた。
その後、ワイラーは冷ややかに言葉を吐いた。
「考えてみれば簡単な話だった。どれだけ息が合った攻撃であっても、絶え間なく動き続ける相手には同時攻撃など叩きこめまい」
彼の眼差しには、さきほど見せた焦燥は、もうなかった。そこにあるのは、静かで冷たい、絶対的な自信。
「なるほどね……」
零士は自身の早計さを悔やんだ。
触式の真骨頂は、謂わば後出しの権利。相手の攻撃を受けた時ほど、その効力を発揮する。それすなわち、自分から動くのではなく、受動的に、相手の一打を待つのがベター。実際、ワイラーは自分から攻撃を繰り出すことは殆どなかった。
だからこそ、凱亜と綱海のコンビネーションは幾度となくヒットしていた。
しかし、その受動性を捨て、能動的に動かれてしまうと、二人の挟撃にはコンマ数秒のズレが生じてしまう。たとえわずかなズレであっても、触式にとっては莫大な差。
同時には避けられずとも順を追って回避できてしまう。
攻撃は最大の防御──まさにその言葉を体現する、最小の動作で最大の効果を得られる戦法なのだ。
降り注ぐ攻撃の雨を浴びながらも、冷静にその答えに辿り着いたワイラーに、零士は脱帽せざるを得なかった。
「さぁ、二人まとめてかかって来い」
ジャケットを脱ぎ捨て、黒いシャツの袖を捲り上げながらワイラーが言った。凱亜ほどの体躯ではないものの、無駄のない筋肉が、もはや美しい。
「フリーズは無理なんか」
凱亜の問いに、零士はわずかに眉間を寄せた。目線はワイラーを外さぬまま、低く息を吐く。
「ぶっちゃけ……何十回も試してる。でも無理っぽい」
その声には苛立ちと、かすかに混じる焦燥が。フリーズを引き起こせないという事実が、彼の中の計算式を崩していた。
凱亜は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに静かな頷きで応える。
「そら……しゃあないな。っちゅうことは力押ししかないってか」
「だね。ワイラーも無尽蔵ってわけじゃないだろうし」
「なにをこそこそと話している」
しびれを切らしたワイラーが小さく鼻を鳴らし、片足を引いて地を踏み締めた。
「来ないならこちらから行くぞ」
その低い声が響いた瞬間、彼の身体が風を裂くように動く。零士と凱亜も即座に反応し、互いに逆方向から軌道を描くようにして疾駆する。
零士は右側、凱亜は左側──逆方向からの同時攻撃。零士は視式を最大限に活かし、凱亜の攻撃に合わせて自分も放つ。
しかし、ワイラーはその場でじっとしてくれるはずもなく、難なく攻撃は躱されてしまう。わずかに体を捻り、無駄のない動きで。
直後、ワイラーのカウンター。零士には右の裏拳。凱亜には後ろ回し蹴り。
速度、威力、ともに異常。
零士はかろうじて視式のおかげで回避に至ったが、凱亜にはヒット。さりとて、太い腕でガードしたため、致命傷にはなり得なかった様子。
当然、それで終わるわけにはいかない。
零士と凱亜はアイコンタクトを取り、すぐさま次の攻撃に転じる。一瞬のズレも許されない同時攻撃を試み、不発ならば隙を見て四肢や衣服を掴みにかかる。
だがやはり、目まぐるしく動き続けるワイラーには、同時攻撃を当てることは至難であった。くわえて、気流感知のせいか、衣服の端すらも掴めそうにない。
トライアンドエラー。
その後も二人は、打ち所、リズム、呼吸など、様々な要因を変え、攻撃を続けたが、一向にワイラーには触れることすら叶わなかった。
ただ、誤解してはならない。
この場においてワイラーが異常なまでの強さを誇るがゆえ、あたかも零士と凱亜の攻撃が凡庸に見えてしまうかもしれない。だが彼らの攻防は、すでに並の特執捜査官では視認すら叶わぬ境地に達していた。
わずか一歩の踏み込み、指先の重心移動、視線の揺らぎに至るまでが、常人の感覚では測れぬ領域で繰り広げられている。
その極限の次元ですら、ワイラーの支配下にある──それがこの戦場の異常なのである。
そんないつ均衡が崩れてもおかしくない状況で、ほんのわずかに遅れを取ったのは、凱亜だった。
「……ぐっ……!」
顔を歪め、一瞬の硬直を見せた彼の腹部から、多量の血が漏れだした。どうやら合流するまでの戦闘で負った傷のようだが、ずいぶん深いらしい。
「凱亜……!」
零士が叫んだ。しかし、タイミングが悪すぎた。
──硬直。
凱亜の動きが止まったのは、ちょうど零士がワイラーの一撃を受け止め、わずかに後退した、その直後のこと。
距離が、足りない。どう足掻いても、凱亜を庇うには遠すぎた。
零士の視線の先で、ワイラーの体が沈む。
蛇のようにしなやかに、だが獣のように鋭く、凱亜の懐に飛び込んだ。
そして拳が深く引き絞られる。
「これで三人」
打ち倒した人数を冷たく告げたワイラーは、これでもかと引き込んだ拳を、地面を抉るように振るう。
凱亜の顎を粉砕するかと思われたその瞬間──。
「ぬォッ……!?」
呻き声を漏らしたワイラーは、右肩から血飛沫を上げながら後ろに吹き飛んだ。いや、どちらかと言うと、自身で地を蹴り、退いたという印象が強い。
数度地面を転がりながら、ワイラーは渡り廊下の木柱へと激突。古びた木材が悲鳴のように軋み、柱ごと屋根が崩れ落ちる。
鈍く、重たい衝突音が境内に響き、粉塵が舞い上がった。
「待たせたわね二人とも」
「ご無事ですか!」
巨大なスナイパーライフルを軽々と担ぎ上げた花染と、銀色の刃に月光を集める真壁が合流した。二人とも、ずいぶんと負傷している様子だった。
「すまん……助かったわ…………」
片膝をつき、腹を押さえる凱亜が絞り出したような声で言った。
「くぅ……! マジでナイス梨紗ちん! カスミンも無事だったんだね!」
あと一歩遅ければ凱亜がやられていたということもあり、零士は思わずサムズアップ。
「てかなにいまの。あたしの撃った弾が当たったの?」
「あぁ。間違いなく当たったね」
「でも触式って避けられるんじゃないの?」
「たぶんワイラーは、凱亜を全力で殴ろうとして力を出し切った直後に撃たれたから、触式でも避けきれなかったんだと思う。とはいえ体は勝手に避けようとするから、その分力んで、自分で吹っ飛んでったって感じかな」
花染の狙撃銃は、威力も弾速も並ではない。そんな高速の弾丸を避けるには、触式による脊髄反射でも間に合うかどうかの世界だ。
だが、あのときのワイラーは、凱亜を殴りつけようと、体重ごと拳に乗せていた。全力で前に踏み込んだ直後に、前方からの狙撃。
皮膚に弾丸が触れた瞬間、反射的に回避しようと、全身の筋肉が強制的に動いた。しかしそれはすでに殴るために出し切っていた動きに逆らう形となった。
逃げようとする力と、踏み込みによる慣性が拮抗した結果、ワイラーの体が、まるで電車に跳ねられたかのように、真後ろへ弾け飛んだのだ。
「ダメ。いまはちょっと理解できそうにないわ……」
花染は額に手を当て、横に首を振った。
「まぁ梨紗ちんの狙撃のタイミングが完璧だったってこと。んで、ファウンドは片付けたのかな?」
「えぇ、なんとかね。でも燐仁が重傷だわ」
「オッケー。そんじゃみんな、もう帰っていいよ。おりんとツナとあだっちゃんを連れてってね」
「なんやてえ!?」
「はぁ!?」
「……っ!?」
凱亜、花染、真壁、ワードは違えど、三者同様のリアクション。
「帰れってあんた、なに考えてんのよ!」
真っ先に花染が声を荒げる。それに凱亜も続く。
「そうや! わしと二人でも互角やっちゅうのに!」
「我々もなにか、助太刀を……!」
真壁もまた、戦意を示す。
「残ってるのはワイラーと御門だけ。会議で言ったよね。御門は俺でギリ。陽暈くんならワンチャンあるかもってレベル」
「だからって──」
「ごめん! こんなこと言うのもなんだけど、足手まといなんだよね」
花染の声を遮り、零士は非情な一言を三人に突きつけた。もちろん、誰よりも負けず嫌いな凱亜は眉間に皺を寄せた。
「さっきわしが来んかったらお前やられとったやないかい!」
「あたしの援護射撃もそうよ!」
「確かにそれは助かった。でもそれとこれは別。そもそも、俺も陽暈くんの足を引っ張るかもしれない。だからみんなはもう帰ってくれるかな」
しばしの沈黙。返す言葉を見つけられず、誰も口を開けない。その後、零士は一人一人の目を見て、静かに告げた。
「それに、俺と陽暈くんじゃなきゃダメなんだ。ケジメをつけるのは」
その言葉に、花染が口を結んだ。唇をかみ、なにかを飲み込むように目を伏せる。凱亜は悔しそうに、拳を震わせた。真壁もまた、納得いかないようで頷こうとはしない。
やや間を明け、口を開いたのは同期である花染だった。
「……分かったわ。こういうとき、あんたはなに言っても折れないわよね」
「お、さすが梨紗ちん」
零士は微笑んだ。
「確かに梨紗の言うとおりやな。悔しいけど、わしもそろぼち限界や……」
「お二人とも……」
依然として、真壁は首を縦に振りたくない様子。
凱亜と花染が引いたのは、同期だからこそ通じ合えるなにかがあったのかもしれない。
「カスミンももう、厳しいよね」
真壁が全身に負った傷を眺めながら、零士が諭す。
「それは……」
彼女は小さい体ながら、おそらく根性は誰よりもある。多くは語らない性格ゆえに、無理をし過ぎるのが長所でもあり短所でもある。だからこそ、いまは帰ってもらわねばならないのだ。
遠くで巻き上がる粉塵の向こうに、人影が立つ。逆光の中、青いオーラがたゆたうように揺れていた。
右肩にはぽっかりと空いた穴。そこから、赤黒い血が流れ落ちているにもかかわらず、その男──ワイラーは、まるで何事もなかったかのように歩を進めてくる。
「ぞろぞろと……煩わしいやつらだ……」
低く、吐き捨てるような声音。その言葉が、辺りの空気をいっそう重くした。
「これは命令だよ。ほら、みんな行った行った」
零士は、冗談めかした口調の奥に、明確な意志を込めて告げた。
「絶対、帰ってきて」
震える声が背中に届く。花染だった。振り返らずとも、零士には彼女の顔が思い浮かんだ。強がりと優しさの混じった表情が、痛いほど。
「この前梨紗ちんに奢ったアイスの分、返してもらわないとだしね」
死亡フラグにしては薄かったが、花染は鼻で笑った。ちなみにアイスを奢ったのは事実である。
「零士……わし以外に負けたら殺すからな」
今度は凱亜。腹部を押さえながらも、なお鋭い声音で釘を刺してくる。
「おっほほっ。怖い怖い。凱亜に殺されるのは御免だ。じゃあ負けるわけにはいかないね」
彼と同じく、腹の銃創が疼くが、零士は笑みをこぼしてジョークに付き合う。
「……天若さんのこと、お願いします」
やはり納得がいかない様相の真壁。彼女は陽暈のお目付け役と言っていい存在ゆえ、心配する気持ちが強いのだろう。
「カスミン。任せて」
心配そうな真壁と視線を交わし、頷くと、彼女もまた、深く頷いた。
そうして、三人は、静かに戦線を離脱した──。




