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「パパ! お帰りなさい!」
玄関に駆け寄り、飛び跳ねるようにして悪立を出迎えたのは、彼の愛娘──琴葉。眩しいほどに溌溂とした笑顔が、家の中に春の風を吹き込んでいた。
「え、早いじゃん! おかえり!」
廊下の奥、リビングの扉を開けて顔を覗かせたのは、妻の茜。その声には、少し驚きと、柔らかな喜びが混じっていた。
「ただいまー!」
そう言って悪立は琴葉を軽々と抱き上げ、その場でひと回し。娘の笑い声が天井に跳ね、家中に幸福の気配が満ちてゆく。
悪立は、幸福な家庭を手に入れていた──。
高校時代、彼は柔道界の頂点に立ち、日本一の座を勝ち取った。誰もが彼の将来を疑わず、実業団での活躍は既定路線。プロ入りは確実とすら言われていた。
だが、運命は静かに、唐突に、針路を変えさせる。
大学二年のとき、転機は訪れた。
──結論から言えば、できちゃったのである。
茜とは、大学の講義で隣同士になったことがきっかけだった。悪立が一目惚れし、笑ってしまうほど不器用なアプローチを重ねた末、ようやく想いが実を結んだ。
妊娠を告げられたとき、周囲の人間は口を揃えて言った。「結婚しても柔道は続けられる」と。だが、悪立の心はすでに決まっていた。
柔道への情熱が、ふと消えた。
嫌いになったわけではない。ただ、それよりも──妻と、そして生まれてくる子を、何よりも優先したくなったのだ。
在学中は惰性で柔道を続けた。だが、琴葉が生まれたその日から、世界は一変した。
朝が来ればオムツを替え、夜泣きには寝ぼけた目でミルクをつくる。茜の隣に並び、眠そうな顔で笑い合う。柔道も、授業も、もう心を引き留める力を持たなかった。
悪立は、名門大学の柔道特待生として進学していた。そのため学業にはまるで自信がなく、柔道を捨てることは即ち、大学を辞めることを意味していた。
それでも、彼は迷わなかった。退学届に署名した手は、むしろ清々しくさえあった。
すぐに始めた就職活動でも、苦労は少なかった。
人懐こい笑顔、誰にも負けない体力、そして、飾らず「妻と子どもを養うためです」と語る率直さが、面接官の心を動かした。結果、大手不動産会社の営業職として内定を得る。
建築や土地の知識はゼロに等しかったが、努力を惜しまなかった。
柔道で鍛えた粘り強さと、何より「家族を食べさせる」という揺るぎない覚悟が、彼を突き動かしていた。
夜遅く帰っても、家の灯りは彼を迎えてくれる。茜が差し出す湯気立つ味噌汁。琴葉が「パパ」と呼ぶ声。
この家が、今の彼にとっての金メダルだった。
汗にまみれた畳の上も悪くはなかった。勝敗に一喜一憂し、傷だらけになりながらも前へ進む日々は、確かに誇れる青春だった。
だがあのときとは違う種類の幸せを噛みしめている。静かで、温かく、尊い──そういう幸福だ。
これからもずっと、茜と琴葉とともに、静かな暮らしを続けていけたらいい。
毎日が平凡で、何ひとつドラマなんて起こらなくていい。ただ、三人で笑い合っていられれば、それでいい。
彼は、そんな当たり前を、誰よりも大切にしていた。
だがその幸福は、驚くほど脆かった。
あまりにも簡単に、一瞬にして奪われてしまう。
休日──家族三人でショッピングモールに行ったときのことだ。
なにやらオープンして間もなく、土曜日ということもあってか、ずいぶんと賑やかだった。
フードコートにて昼食を済ませた後、琴葉に手を引かれながら玩具屋を回った。
その後、中央の広場で、なにやら五人組の女子アイドルグループによるミニライブが開催されており、休憩がてら三人で見ていくことにした。
初見だったものの、可愛らしい衣装で踊るアイドルを見て琴葉が楽しそうにしていた。
間もなくライブも終盤に差し掛かるかといったところで、観客席から悲鳴が上がった。
「きゃぁああああ!」
女の叫喚だった。
悪立は声の方を見やったが、人が多く、なにが起きたのか分からなかった。しかしその後すぐ、アリの群れが四方に散るように、観客が走り出した。
まさに阿鼻叫喚。誰かの叫び声が誰かの動揺を誘い、それが連鎖し続ける。
みなパニックになり、我先にと走っていった。
さなか、見知らぬ男に衝突された琴葉が倒れたため、悪立はすかさず彼女に覆い被さり、二次被害が起きぬよう踏ん張った。
すぐに身を寄せてきた茜も抱き寄せ、とにかく衝撃に耐えた。何度も何度も背中を蹴られるような感覚が襲ったが、人の雪崩がおさまるのを待った。
そうして静かになったところで、顔を上げ、見回すと、目を血走らせた男が佇んでいた。
「はっはぁ! もうなんでもいいや!」
狂喜するように笑みを浮かべる男。手には赤黒い液が滴る、金槌を握っていた。
悪立は茜と琴葉に背を向け、男に向き直った。
「なんだお前……」
男の足元には、頭部から多量の血を流す女が横たわっていた。
どうやら悲鳴が上がった理由はそれらしい。
「パパ……」
背後から琴葉の震えた声が鳴る。
「大丈夫。絶対に俺が守る」
力強く答えた。
とはいえ、凶器を持った男とは数メートルほど距離が開いている。わざわざ戦う必要はないだろう。
「茜、琴葉を担いで走れるか」
男に聞こえぬよう小声で問い、視界の端で彼女の顔を見やると、憂いた面持ちではあるものの、ゆっくりと頷いた。
「よし、行け!」
悪立が指示を出すと、茜は琴葉を担ぎ上げ、後方に駆け出した。
男が動き出さないことを確認し、悪立も二人に続いて踵を返した。
そして一歩踏み出したその瞬間、後ろの襟を引かれ──後頭部を床に叩きつけられた。
「だはっ……!」
なにが起きたのか理解できなかった。
しかし、彼の視界には、琴葉を担いで駆ける茜と、二人を追う、金槌を持った男が認められた。
意味が分からない。一瞬にして詰められるような距離ではなかった。それなのに、気がつけば自分だけが置いていかれている。
いや、いまは考えている暇はない。
とにかく茜と琴葉を守らなければならない。二人は自分の全てなのだ。
後頭部に走る激痛など意に介さず、悪立は即座に立ち上がり、男の背を追った。
そこでようやく理解した。男の走力は、人間離れしていると。
全身全霊のダッシュでも、追い付くどころか、距離を離される一方だった。それ即ち、茜たちと男の距離が詰まるということでもある。
「ダメだ……やめ……」
全力で足を回すが、全く追いつかない。
「やめてくれ……」
悪立の願いも虚しく、駆ける男は金槌を振り上げた。
「やめてくれぇぇええええええええええ゛!」
届くはずのない手を伸ばし、叫んだ。
しかし無意味だった。
男が振るった金槌は、茜の頭部を粉砕した。鮮血が弾け飛び、前に滑り込むように倒れた。
慣性により、抱えられていた琴葉が、勢いよく床に叩きつけられた。
「茜ええ゛え゛ッ……!」
悪立は泣き叫んだ。しかし冷静に、琴葉だけでも守らなくてはと、走り続けた。
「さいっこぉおおお!」
狂喜乱舞する男は、茜を殺しただけでは止まらなかった。
すぐに琴葉の腕を掴み、持ち上げた。
「パパぁッ……!」
「待ってくれ!」
ようやく追い付いた悪立が、待ったをかける。
「頼む! 話を聞いてくれ!」
男は手を止めたものの、目が据わっており、話せる状況ではなさそうだった。しかし悪立には、懇願するほかなかった。
「その子は俺の命より大事なんだ! だから頼む! 殺すなら俺を殺してくれ! その子は殺さないでくれ! 頼む……!」
やや間を空けて、男は口角を上げた。
「はぁ?」
やはり対話できるような相手ではなかった。
「だったらなおさら、殺したくなっちゃったなあ!」
薄ら笑いをこぼしながら、男は叫んだ。そして宙に浮かぶ琴葉にめがけて、金槌が振り上げられる。
「待ってくれ! 頼む!」
再び悪立が懇願する。
その声が届いたらしく、男はピタリと手を止めた。
「お前、人にものを頼む態度ってもんがあんだろ?」
バキバキの目で、男が言った。
悪立はすぐさま膝をつき、両手を前に添える。
「お願いです……娘を、殺さないでください…………」
額を床に擦りつける。このまま後頭部をカチ割られてもいい。それで琴葉が助かるなら。
そんな覚悟を持っていた悪立は、床を見続け、男の返答を待った。
数秒後、男は答えた。
「よぉし! いいだろう! 許してやろう!」
その声を聞き、悪立は嬉しさのあまり顔を上げた。
直後、琴葉の額に金槌が叩きこまれた。べちんという、粘度を含んだ音が響いた。頭蓋が割れ、皮膚が裂け、赤い液体が床に飛散。
琴葉の小さな身体はぐにゃりと力を失い、まるで壊れた人形のように垂れ下がった。
「……ぁ、あ……ああああああああああああああああ!」
悪立の叫びは、咽を裂くような慟哭となってこだました。視界が歪む。脳が追いつかない。琴葉の顔が、琴葉の頭が、琴葉の──。
理解した瞬間、何かが崩れ落ちた。
胸の奥にあった芯が砕け、同時に、そこから膨れ上がるように、熱が噴き出した。
怒りだった。
憤怒、激昂、憎悪──それらを全て煮詰めて濃縮したような、真っ黒な感情が、全身の毛細血管を逆流し、脳髄の中で爆ぜた。
「よくも……よくも……よくもよくもよくもよくもッ!」
悪立は立ち上がった。脚が震えていた。吐き気がした。だが、それでも前に出た。
男はニヤついていた。それがまた、怒りに火を注ぐ。
「殺す……お前ぇだけは絶対に許さねえ……ッ!」
叫びと共に、男に飛びかかる。拳を振るい、渾身の力で殴った。
だが──空を切った。
次の瞬間、視界がぐるりと回る。顎に強烈な一撃を喰らい、悪立の身体は簡単に宙を舞った。
「ぐあっ……!」
床に転がった。口内が鉄の味で満ちる。骨が軋む。立ち上がろうとした瞬間、みぞおちに蹴りが叩き込まれた。
「げっ……ほ……ッ!」
呼吸ができない。肺が縮まり、視界が赤く染まっていく。
「どうしたどうしたあ! 殺すんじゃねぇのかよ!」
男が叫びながら、次の一撃を振りかぶった──金槌が、容赦なく頭蓋を狙う。
あぁ、この程度だったのか。これが俺の最後が。
そう思った瞬間──意識の奥に二つの文字がよぎった。
復讐──。
正直、自分が死ぬことなど大して怖いとは思わなかった。人はいつか死ぬものだと分かっているからだ。
だがしかし、妻と娘を無惨に殺されたにもかかわらず、なにもせぬまま死ぬのは耐えられないと思った。
報復をせねば。するまでは死んではならないと、強く感じた。
脳の奥にあった蓋が、ぶち破られるような感覚を覚えた直後──抑制が、外れた。
次の瞬間、電流が全身に走り渡り、視界が一変した。
五感が研ぎ澄まされる。血液が全身をめまぐるしく循環し、筋肉の一つひとつが発火するように活性化していく。
「……ッ!」
反射的に腕が動いた。
振り下ろされた金槌を、空中で受け止めた。
「な、に……?」
男が目を見開く。
悪立は、まるで他人の身体を操っているかのように、力を加えた。ギリギリと手のひらに伝わる金属の感触。そのまま金槌をひねり上げ、男の手からもぎ取る。
「この……クズ野郎ガァァアアアアアアアッ!」
悪立の怒声とともに、金槌が逆に振るわれた。
今度は、男の側頭部が砕けた。ドシャッと、なにかが漏れる音が響く。
力を失った男の身体が、その場に崩れ落ちた。
呼吸が荒い。視界が滲む。膝が笑う。
それでも、悪立は金槌を手に、なおも男の顔を睨みつけていた。
「これは……」
低く呟く声が背後から降ってきた。いつの間にか、すぐ隣に青いオーラを纏った男が立っていた。しっかりとした体格だが、人相は悪くない、優しそうな男だった。
一時的な高揚に支配されていた悪立は、その男の存在に苛立ちを覚え、鋭く睨みつけた。
「なんだお前ぇ。こいつの知り合いか」
「え、えぇ、まぁ、私の部下です……」
男は申し訳なさそうに頭を掻いていた。
だがその一言で、悪立の中に潜んでいた復讐の焰が、さらに激しく燃え上がる。
この男も、因縁に連なる存在だ──そう判断した悪立は、咄嗟に金槌を振り上げ、男の顎を狙った。
だが次の瞬間、音もなく、手から金槌がすり抜けたかと思うと、それは既に男の手中にあり、あっさりと奪われてしまう。
「すみませんね。私が目を離したせいです」
男は反撃する素振りも見せず、無造作に金槌を脇に放り投げると、頭部が粉砕された遺体を静かに抱き上げた。
「待てよ……そんなんで済まされるわけでぇだろうが」
怒りを堪えきれず、悪立は男を呼び止めた。
「すみません。これ以上のことは私にもしてあげられません。許してほしいとは言いませんが、耐えてください」
「ふざけんじゃねぇ!」
男の肩を荒々しく掴み、悪立は怒声を上げる。
「こっちは大事な嫁と子供を殺されてんだぞ!?」
「すみません……」
「それだけじゃ許せねぇっつってんだよ!」
叫びとともに、今度は己の拳を握りしめ、男の頬を狙って突き出した。しかし拳は、虚しく空を切った。直後、男の手が、目の前を通り過ぎた悪立の腕を冷静に捕らえた。
「耐えてください。これ以上犠牲者を増やしたくありませんから」
「犠牲者って、どの口が言ってんだゴラァ!」
「そうですね。すみません」
男は再びそう口にし、そっと悪立の手を放すと、また歩き出す。
怒りは当然、鎮まるはずもなかった。悪立はすぐさま追いすがり、再び男の肩を掴もうとしたその瞬間。
鋭い痛みとともに、視界が跳ねた。振り返りざまに放たれた、腹部への重い一撃――男の蹴りだった。
激しい衝撃により、海老のように身体を折り曲げた悪立は、そのまま無様に地面を転がる。
「耐えられないなら強くなってください。そして討てばいいです」
男はその言葉を残し、軽やかにその場を後にした。
終始、怒りも嘲りもなく、ただひたすら懺悔の色を宿していたその背中は、奇妙なほどに真摯に見えた。
しかし、男の言葉には確かな真理があった。
妻と娘を手にかけた仇を討てたのは、己が勝ったからだ。
もしあの男にも報復を望むのなら、彼よりも力をつけなければならないのだ。
到底、敵う相手ではないと察した悪立は、男の逃走を見届けるほかなかった。
血の池に浮かぶ琴葉を抱き上げ、うつ伏せに倒れた茜のもとへと歩み寄る。
「琴葉……茜…………ごめんなぁ…………」
守ると誓った二人を守れなかった情けない自分。
これからなにを糧に生きていけばよいのか。生きる意味はあるのか。
二人のもとへ逝きたい──甘く脆い感情が心を蝕みかけた、そのとき。
「生きて」
幻聴のような声が耳を打った。
茜と琴葉、その二人の声が重なったような、やさしく、それでいて確かな音。
その一瞬に、彼は悟った。自分がすべきことは、復讐なのだと。
そして、心に誓った。
あの男を──いまは逃した、あの男を、必ず殺すと。




