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悪立喜永は、拠点の正面から堂々と侵入し、背に迫る銃弾の雨を回避しながら駆け抜けた先──二つ目の門をくぐった。
銃声はピタリと止み、静寂に包まれる。
石畳が続く正面。数十メートル先に待ち構えるように佇む男が認められた。事前に目を通しておいた資料に載っていた、ワイラーという人物の風貌と一致する。
普段、悪立は資料に目を通すことはあれど、敵の風貌を記憶することは滅多にない。ブラックドッグに至っては仮面をかぶった写真しかないため、覚える方が難しいというもの。
しかしワイラーだけは、妙な胸のざわめきを感じていた。
黒い犬面に、黒いスーツ、さらに黒いシャツに黒いネクタイ。とことん黒を突き詰めた装束。
青いオーラを身に纏っていることがなによりの証拠だった。
悪立の顔を見たワイラーは、首を傾げた。
「お前、なぜ特務執行局に入った」
突拍子のない問いに、悪立は困惑したものの、即答する。
「あぁ? お前ぇらみたいなクズどもを殺すために決まってんだろうが」
正義側に立つ人間のセリフとは思えないアンサーを返した悪立。対するワイラーは、再び首を傾げた。黒い仮面によりその表情は窺えないため、なにを考えているのかさっぱり分からない。
「なんだ? 気色悪ぃな。とりあえずここにいる奴は皆殺しにしていいって許可が出てんだ。お前ぇもぶっ殺す」
「そうか。来い」
丸腰のまま、ワイラーは構えた。
体格は悪立よりも遥かに彼の方が大きい。くわえて、オーラの色から察するに触式であることは間違いない。厄介な相手だ。
とはいえ、柔道の国体選手だった悪立にとって、好都合であった。
触式の弱点は心得ている。
「なめやがって……」
悪立はそうこぼして、スーツの内側に手を滑らせた。そして刃渡り25センチもある漆黒のサバイバルナイフを抜刀し、顔の前に添え構えた。
彼の愛用武器であるそれは、鋭い刃はもちろん、背にはセレーションと呼ばれる鋸の刃のような箇所がある。悪質なニュークに痛みを植え付けるためにその武器を選んだのだ。
「ぶっ殺す!」
アクセル全開で駆け出した。
ちなみに悪立はバーストしていない。だがその圧倒的な戦闘スキルと、勘の良さが強み。これまでもバーストしているニュークを幾度となく葬ってきた。
とはいえ、触式の相手は人生で初めてだった。だがそれが怯える理由にはなり得ない。
一瞬にして距離を詰めた悪立は、右手に握るナイフを掲げた。
そのままワイラーの首をめがけて振り下ろす──というのはフェイクで、狙いはワイラーの右腕。空いている方の手を伸ばす。
直接ナイフで斬りかかったところで、触式により回避されることは想像に難くない。まずは掴み固定し、切れ味抜群のサバイバルナイフで切り落とそうと試みたのだ。
しかし、掴もうとしたワイラーの右腕は、スッと後ろに退いた。その刹那、頬に強烈な衝撃を走る──ワイラーが放つカウンターの左フックだった。
モロに打撃を受けた悪立は、塵のように吹き飛び、灯籠に激突した。すぐさま転がりながら立ち上がり、体勢を整える。しかし、そんな暇はなかった。
「──っ!?」
気がつけば眼前に影が迫っていた。
咄嗟に顔の前に腕でガードを作り、衝撃に備えたが、今度は下腹部に激痛が走った──ワイラーの足の甲がめり込んでいた。
再び宙を舞い、木製の物置小屋に衝突した。
もはやなにが起きているのか理解できなかった。
悪立はこれまで、速さと勘において遅れをとることはなかった。それは幼少期から習っていた柔道の影響で培ったスキルだ。
「がふァ……」
吐血──。
すぐに立ち上がろうとしたが、その必要はなかった。目を押し開いた時にはもう首を掴まれ、容易く持ち上げられていた。
「アビリティなしでその強さは、敵ながら天晴れだ。だが、相手が悪すぎたな」
霞む視界のなか、かろうじて認められた黒い犬は、恐ろしい目をしていた。
殺される。全細胞がアラートを鳴らしている。久々の感覚だった。
「クズが……」
なけなしの力を振り絞り、罵倒する。
その直後、みぞおちに鈍痛が走った。意識が弾けそうだった。
そんな痛みから間もなく、空を飛んでいた。数秒間の浮遊を経て、ボロ雑巾のように地面に叩きつけられた。
「うガッ……」
圧倒的な力の差だった。
そもそも、零士から聞いていた話とは大きく異なる。
触式の真骨頂は脊髄反射。それゆえ、打撃や斬撃は容易く回避される。だからこそ、体の一部、もしくは衣服を掴み、固定──その後、攻撃に移る。それこそが常套手段であると聞いた。
それなのに、ワイラーの右腕は、まるで悪立の目論見を悟っていたかのような動きだった。
悪立には絶対的自信があった。なぜなら視式である零士ですら、悪立の独特なリズムに惑わされ、腕や足を掴まれることがあったからだ。
むろん、これまで殺してきたニュークだって一人として攻撃を読まれたことはない。
そんな疑問が浮かんだ時、すぐ近くまで迫っていたワイラーが、悪立の思考を見透かしたように答えた。
「なぜ、触式を使わずに回避できたのか。といったところか」
急ぐ素振りも見せないワイラーを尻目に、悪立は必死に上体を起こし、立ち上がった。
「お前は、いや、お前たちは、触式の本当の力を知らないだけだ」
「はぁ……?」
口から湧き出る鮮血を吐き出した悪立には、ワイラーの言う意味が理解できなかった。
「もちろんお前に教えてくれる義理はない。知らないまま、死ね」
「クソッ……クズが……」
触式は集中を極めた先に、気流を感知する力が眠っている。そんなこと、バーストすらしていない悪立には知る由もなかった。
そして、冷静に分析する余裕もなかった。
「こんなとこで……負けてたまるか……!」
悪立は無謀にも、再び特攻した。
もちろん単純な斬撃はしない。腕がダメならと、今度は足に狙いを定めた。
しかし、それは無策と同義だった。
掴もうとしたワイラー左足は、当然のように逃げていった。と思いきや、今度は足の方から迫り、気づいた頃には鼻頭に膝を叩き込まれていた。
再び吹き飛ばされ、今度こそ意識を保てそうになかった。
数秒間、浮遊した後、池に着水。沈む。水面に見える美しい月光が、その輪郭を損なっていく。
それほど深いわけではないようだが、まるで底の見えない海に飲み込まれていくような感覚だった──。




