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珀象戦祇は、裕福な家庭に生まれ育った。
両親はともに名門大学を卒業し、大手コンサルティング会社を経て起業。その才覚と行動力で、若くして成功を収めた人物である。姉もまた、優秀な成績をおさめ、両親の期待を一身に背負っていた。
しかし戦祇は違った。
姉が光なら、戦祇は陰。姉が月なら、戦祇はスッポン。できの悪い戦祇は、いつも虐げられてきた。
物心ついた頃には、様々な教材を机に並べられ、団塊ジュニア世代の母から、常に勉学を強制された。
勉強が不得意だった戦祇は、叱責され、体罰も日常茶飯事であった。食事を抜きにされることもしばしば。
母の笑顔を見た記憶はない。
いや、正確には──自分に向けられた笑顔を、だ。
姉の前では別人のように目尻を下げ、頬を緩めていた。誉め、笑い、撫でるその手が、己には決して触れることはなかった。
ゲームはもちろん、友人と遊ぶことすら禁じられ、睡眠時間以外は全て勉学に費やすという生活が続いた。
むろん、付き合いが悪いことで、ろくに友達もできなかった。それゆえ、学校に居場所はなく、いじめられるようになった。
そうして、学校でも家でも、窮屈な日々を過ごした。
小学四年の頃、中学受験することが決まった。当然ながら、戦祇の意思など加味されず、母の独断だ。それ即ち、拒否権はないということ。
受験に備え、大手進学塾に入塾。母が決めた志望校は最難関とされる女子校だった。
当時の戦祇の偏差値では、到底合格できるはずのない中学校だったが、塾に通い、合格を目指すこととなった。
だが、入塾後も成績は伸び悩んだ。
そもそも勉強は得意ではないため、好きにもなれない。そんな意欲のまま、進学塾の授業を受けても実になるわけがなかった。
模試の順位は最下位ばかり。
結果を告げる度、母は怒り狂った。以前までは物差しで叩かれるだけだったが、徐々に殴られたり蹴られたりするようになっていった。
一方、姉はピアノのコンクールで金賞を取りながらも、名門中学に合格した。
母は、姉を誇らしくて仕方なかったらしく、親戚や友人に言い回り、姉を立てるための比較対象として「妹と違って、姉は優秀」と、戦祇を蔑んでいた。
なにかと母の期待に応えられない戦祇は、姉や父と同じ食卓に着かせてもらえないことが頻繁にあった。
代わりに、床にご飯を並べられ「犬食いしろ。手を使わずに」と指示が出る。
栄養が取れるならと、戦祇は突っ伏するようにして食事を取った。そもそも、そうしなければ、罵詈雑言の嵐の末、体罰が待ち受けているのだ。そうする以外に道はない。
そんな滑稽な戦祇の姿を見た父と姉は、嘲笑っていた。「マジで犬じゃん」と言って、鼻で笑っていた。
そう──父も姉も、味方してくれることなど、一度もなかったのだ。
引き続き、虐待は絶えず、中学受験を経た。当然、志望校は合格しなかった。
不合格を告げてきた母の表情を鮮明に覚えている。まるで道路に飛散する吐瀉物を見るような、軽蔑を極めた目だった。
これまでにないほどの暴力を受けたことは言うまでもない。顔や頭などお構いなしだった。もはや母親のストレス発散のためのサンドバッグ同然だった。
結局、公立の中学に入学したが、そこでも散々だった。
母の体罰によりできた顔の痣を隠すために、髪をおろし、露出する肌の面積を最小限にしていたためか、「貞子」というあだ名が定着。入学初日から、いじめが始まった。
戦祇と体が接触した生徒は、菌がついたと言い、別の生徒にタッチしてその菌とやらから逃れなければならないのだとか。
くだらない──しかしそうは思いつつも、精神的ダメージは蓄積されていった。
中学受験で失敗したためか、母は勉学に対する方針を改めた。もちろん悪い方向に。
学習時間のスケジュールは、その過密さを増していったのだ。
学校から塾へ行き、その後真っすぐ帰宅すると、夜十一時までノンストップで授業の予習復習。弱音を吐けば叩かれる。点数が低ければ飯を抜かれる。
そんな地獄のような日々が続くなか、戦祇は気づいてしまった。こんな生活を送っているのは、自分だけなのだと。母が勉強に厳しく、暴力を振るうのが当たり前ではないことも知った。
ある日、戦祇は担任教師に相談した。いつも優しい男の教員だった。彼は真摯に話を聞いてくれた。
これでなにか変わると思っていた。良い方向に風向きが変わると。
しかし真逆だった。
その日、塾から帰宅すると、なんの前触れもなく母にぶたれた。
「ゴミ。先生に話したらしいなうちのこと。勝手なことしてんじゃねぇよ殺すぞ」
ごめんなさい──そう言うほかなかった。いや、なにを言っても無駄だっただろう。
その日は勉強をする代わりに、夜中まで叱責と体罰を受け続けた。
後日、担任教師との面談が設けられた。その後の経過を問われたが、先生のおかげで改善したと言うしかなかった。
どうせここでまた告げ口をすれば、母の耳に入り、また悪夢の夜が待っているだけだと思ったからだ。
そうして、なんの進展もないまま地獄は続いた。
母が志望する高校は到底合格できるラインではなかったため、言われるがまま推薦入学できる私立の高校へ進学することが決められた。
高校に入ってからも、母の干渉は続き、予備校や自宅学習の日々。時には夜中、時には朝まで勉強を強いられた。
もちろん、目指す大学も言われるがまま。
時は移ろい、高校三年──大学入試の結果発表の日。
母は受験料の無駄と断じたその大学だけが、唯一の合格だった。
ウェブ上に掲載された合否を確認した数日後、正式な合格通知が自宅に届いた。母はその封筒を開封するや否や、書面をビリビリと引き裂き、怒声と共に暴れ狂った。
その夜、戦祇はこれまでで最も長く、そして重たい体罰を受けた。
「いったいいくらかけてきたと思ってるのよ!」
母のその言葉により、自分が人として見られていないことを、戦祇は静かに理解した。
限界だった──。
表面張力でようやく形を保っていた精神は、ぽたりと一滴垂らされた滴により、音もなく崩れ去った。決壊した心は、それまで蓄積されていたストレスを濁流のように吐き出し、空洞になった。
もう、終わりにしよう──。
物心ついた頃から、戦祇の人生は母の掌の中にあった。一秒たりとも自由は許されず、学校ではいじめに耐え、誰にも頼れず生きてきた。
その果てがこれだ。全てが無意味だった。ならば、もっと早く終わらせていればよかった。
だがもういい。いま終われるなら、それで。
気がつけば、タワーマンションの屋上へ向かっていた。
不思議なことに、扉は施錠されておらず、まるで死神が道を開いたかのように、易々と屋上へ出ることができた。
そこにはヘリポートが設けられ、高い金属の柵が無機質に立ち並んでいた。
吹きすさぶ風は容赦なく彼女を揺さぶり、足元から奪われるような不安定さが続く。
それでも、戦祇は柵をよじ登り、外界へ身を差し出した。
見渡す。
これまで生きてきた窮屈な環境から一転、世界がとてつもなく広く見えた。
だが、そんな自由には、もう何の意味もなかった。
ようやく終われる。
母は。父は。姉は。自分がいなくなって悲しむだろうか。否、むしろ清々するだろう。
さぁ、踏み出そう。これまでの人生を終え、新しい一歩を。
だがしかし、足が動かない。
恐怖が、急激に胸を締めつけた。
こんなにも死を願っていたのに。揺るぎない決意だったはずなのに。
それなのに体は、意志に背いているようだった。
もしかして。もしかすると、自分はまだ、生きたいと思っているのではないか。まだこの世界に未練があるのではないか。
首を横に振る──そんなはずがない、と。
この人生に希望など、ひとかけらもなかった。苦しみしかなかったのだ。
終わらせる。今度こそ。
再び意を決した瞬間、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。もはや自分がなにを感じているのか分からなかった。
哀しみか。恐怖か。悔しさか。それとも……喜びか。
そこでまたもやよぎった。自分はまだ、生きたいのかもしれないと。
そのときだった──。
死神に背中を押されたかのごとく、突風が吹き荒れた。
「あっ……」
足を滑らせ、ふわりと身体が宙を舞う。すべてが一瞬の出来事だった。
浮遊感。恐怖。絶望。
そして、確信した──死にたくない。
だが遅すぎた。
地面が迫る。自由落下のさなか、彼女は叫んだ。
「いやだ……!」
その声は誰にも届かず、ただ風の中へと溶けた。
だが、彼女の中に眠る本能を呼び覚ますには、十分すぎた。
「死に……生きたいッ……!」
重力という死の手に引き込まれながらも、再び叫んだその瞬間、彼女の全身に電流が駆け抜けた。むろん、リリースしたことなどつゆ知らず、迫る地面に畏怖し続けた。
「助けて……!」
誰かに向けたわけではない。強いて言うなら、神。
非力な自分を、どうにか助けて欲しい。そう切実に願った。
その直後──またもや電気が総身に走り抜けた。今度はもっと強烈な電圧で、体が焼けるようだった。
二度目の電流を感じた直後、時間の流れがスローモーションになった。同時に、全身から真っ赤な煙のようなものが出始めた。
以前、どこかで聞いたことがある。そうだ、数学の教師が話していた。
「僕が車で坂を下っていた時にね、横から車両が飛び出してきたんだ。それを避けようとしてハンドルを切ったら、車体が尻を振っちゃって、横転して、ガードレールを跨いで崖から落ちたんだ。程よい太さの木に受け止められたからなんとか無事だったんだけど、横転してるとき、時間の流れが遅くなったんだ。ワイスピのドムはこんな感覚だったのかなーなんて悠長に考える時間すらあったよ」
結局当人は死ななかったからこそ、笑い話で済む話だ。とはいえ、人間には、元々そのような力が秘められているのかもしれない。
そんな記憶を呼び起こし、整理するほど、戦祇には余裕があった。
そうしてゆるりと地面が迫る──。
「ふッ……!」
息を漏らしながら、体を捻り、マンションの壁面を蹴った──軌道が変わる。
目指すは電線。
「届いてぇぇえええええ!」
この時も、戦祇が見える世界はスローだった。
電線は、触れると感電する──という常識は一般的に知られているが、その原理まで理解している者は少ない。
しかし彼女は知っていた。二本同時に触れなければ回路が完成しないため、感電のリスクもないということを。平然と電線にとまり、休憩している鳥がそれを証明している。
その時初めて、勉強してきてよかったと実感した。
戦祇は冷静に、電線に手を伸ばした。
「──っ……!」
しかし、ほんのわずかに、届かなかった。あと少しだった。
いまだゆっくりと流れる世界がゆえ、指先から電線までの距離が明確に視認できた。それがかえって、残酷だった。
どうせなら一瞬で終わりにしてほしかった。最後の最後に希望など持たせてほしくなかった。
そうして完全に諦め、瞼を閉じた──終わりを受け入れるために。
しかし、地に叩きつけられる衝撃に襲われることはなかった。激しい風切り音と共に、強く、温かな腕が横合いから巻きついた──何者かに、受け止められていた。
咄嗟に目を開けると、青い目の男の胸におさまっていた。
その後、男は通りかかったバスの屋根に軽やかに着地し、歩道に降りる──かと思いきや、驚異的な跳躍力で羽ばたき、道路向こうのアパートの屋上へ。
全く揺れる気配もなく、抜群の安定感を保ったまま、着地。
優しくおろされた戦祇は、足が震えて立っていられず、よろめいた。すかさず男が二の腕を支えてくれたおかげで、倒れずに済んだ。
戦祇は男の手を借りながら、ゆっくりとその場で座り込む。いつの間にか、体から出る赤い煙は消えていた。
「あ、あの……ありがとうございます……」
信じられない出来事に、頭が混乱していたが、とにかくまずは感謝を伝えた。
「無事か」
男は膝をついて目線を合わせてくれた。低いが、温かみのある声だった。
「はい。本当にありがとうございます……!」
ようやく頭が整理でき始め、改めて頭を下げる。
「構わない」
「あの……どうして……」
様々な疑問が浮かんでいるがゆえ、抽象的な問いを投げてしまう。しかし男は表情一つ変えずに答えた。
「死を拒んでいたから、助けた」
「よく……分かりましたね……」
「拒んでいなければ、抵抗せず地面に叩きつけられていただろう。どんな心境かは知らないが、お前は抗っていた」
「はい……確かにそうです。じゃあもし、私が抗っていなければ助けてくれませんでしたか……?」
そんなこと、わざわざ聞く必要はなかった。ただ混乱していたせいか、ふと戦祇は疑問に思ったことを、そのまま口に出していた。
「そうだな。助けることはなかった。この世には本当に死を望んでいる者がいる。それを助けるのは、自己陶酔に過ぎないからだ」
一見、冷たいように思える考え方だが、慈悲深いとも言える。戦祇はなんとも言えない気持ちになった。
「なぜ一時は死を望んだのだ」
当然の疑問が投げられた。戦祇は困惑した。これまでの人生を話すか否か、迷った。しかし目の前の男は命の恩人。それに、なにかを変えてくれそうな気がした戦祇は、洗いざらい吐き出すことにした。
「わ、私の母は──」
これまでの苦痛を全て、話した。包み隠さず、全てを。
長々と話した。途中、自分でもなにを言っているのか分からなくなるほど、思い出したことを、思い出した順に話した。
しかし男は、嫌な顔一つせず、じっくりと耳を傾けてくれた。
そうして話し終え、やや間を開けて男はこう言った。
「よく耐え、よく生きたな」
たった一言だったが、その効果は絶大だった。
落下の勢いで乾ききっていた眼球は、潤いを取り戻していき、やがて雫が溢れ出した。
初めてだった。これまで生きてきてよかったと思えたことも、それを肯定されたことも。
そっと抱き寄せられた男の腕の中で、大量の涙を流しむせび泣いた。息を忘れるくらい泣きじゃくった。
優しく背を撫でられる感覚が、心の奥の奥まで温めてくれた。




