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「甘えるな。泣くな。笑うな。闘え」


 火樫(かがし)次国(つぎくに)の父は、眉間に皺を寄せていつもそう言っていた。とはいえ、昔はそんなことはなく、次国の記憶には、別人のような父がいる。

 風邪を引けば雑炊を作ってくれた。転べば膝を撫でてくれた。日曜の朝はテレビを一緒に見て、笑っていた。

 子供は寝る時間であるにもかかわらず、庭に出て、一緒に天体観察をしたことだってある。


 次国は、真ん丸の月を見上げて父に問うた。


「どうして月は、あんなに光ってるの?」


 父は少し微笑んで答えた。


「月は自分で光ってるわけじゃないんだ」


「え? そうなの?」


「あぁ。あれはな、太陽に照らされているんだ」


「へぇ~そうだったんだ」


「人間も同じだ。一人で輝ける者はいない。みんな誰かに照らされ、誰かを照らす。持ちつ持たれつの関係で、この世は成り立ってる。それが人間の美しさなんだ」


 幼少期の次国には、あまり理解できなかった。ただ、父の優しさの根元が、そこにあるのだと直感した。


 そんな父は、ある日を境に変わった。

 数週間、仕事で家を留守にしていた父が戻ってきたとき、その瞳は空っぽだった。なにも語らず、ただ命令をするようになった。


「起きろ」「走れ」「打て」


 日が昇る前に叩き起こされ、拳を握らされ、感情を捨てさせられた。

 武道や格闘技などの競技ではなく、やけに実践的な近接格闘術を叩き込まれた。世界的にも安全だと言われる日本で、そんなものなんの役に立つのか、次国には理解できそうになかった。


 そうして理由も言わずに「強くなれ」とだけ繰り返す父に、戸惑いながらも従った。

 認めてほしかったからだ。もう一度、あの笑顔を見たかった。殴られても泣かなかった。寒さに凍えても声を上げなかった。

 けれど──父は、一度も笑わなかった。


 やがて次国は、強く疑問を抱くようになった。

 教えを守り、強くなったのに、なぜ褒めてくれない。正解を演じ続けたのに、なぜ、ずっと冷たいままなのだろう、と。

 自分がどれだけ努力しても、父の愛はもう戻らない──その現実に、次国は徐々に壊れ始めていた。


 高校三年の冬。

 次国は、とある結論を導きだした。

 鬱屈としたこの日々に終止符を打つ方法はただ一つ。父を打ち倒し、自分が強くなったことを知らしめることであると。


 いつもどおり、鍛錬と称して仕掛けてきた父の攻撃を、次国は初めて返した。真正面から、全力で。

 どうやら父もそれを待っていたらしく、久しく見ていなかった笑みをこぼした。

 次国は嬉しくて仕方なかった。あれだけ笑わなかった父が、昔のように笑ってくれたことに、歓喜した。

 しかしそんな親子対決はとどまることを知らず、その熱は高まり続けた。

 父がどのような仕事をしてきたのか、どんな過去を持つのか聞いても教えてもらえなかったのだが、彼の強さは本物だった。少し鍛練を積んだだけの次国には敵う相手ではなかった。


 だがその実力差は、いとも簡単に覆る。もはや殺し合いと言っても過言ではない激戦のなかで、次国はリリースした。いや、してしまった。

 骨が砕ける感触。血の匂い。

 気がつけば、身じろぎ一つ取らなくなった父の亡骸が転がっていた。光を失った父の目は、これまでで最も輝いていた。

 皮肉にも、強さを求める思想を拒絶していたはずの次国は、父を殺すことで証明してしまったのだ。力を持つことが全てなのだと。


 父を手にかけてから、幾日かが過ぎた。

 夕映えが街を薄く金色に染め上げるその時刻、次国のもとを訪れたのは、一人の見知らぬ男だった。

 背筋は針のように伸び、艶のない深緑のスーツを纏っていた。名乗りもせず、ただ沈黙を湛えたまま、扉の前に立っていた。

 その眼差しには、言葉よりも多くを語るものがあった。戦場という名の深淵を幾度も覗き込んだ者だけが持つ冷ややかな静けさ──。


「きみが、次国くんか。いろいろと話は聞いている」


 低く、砂を含んだような声だった。


「あんたは……?」


「きみの父の上官だった者だ。名乗る価値はない。ただ、話をしに来た」


 玄関をまたぐその足取りは、床に一音の重みも落とさず、まるで亡霊のようだった。

 次国は警戒の色を内に秘めつつ、無言で椅子を勧める。男はそれに応じ、音も立てずに腰を下ろした。


「きみの父は、陸自の特殊作戦群という部隊で、表沙汰にならぬ任務を数多くこなしてきた。彼の最後の任務は、中東での要人救出作戦だった。国同士の政治的均衡が崩れぬよう水面下で遂行された作戦だ。情報は乏しく、時間もなかった。選ばれたのは、特戦群のなかでも優秀なメンバーだった」


 男は一瞬、瞼を伏せた。そこに、微かな逡巡が見えた。


「作戦は成功し、目標の日本人技術者は無事、救出された。だが、帰還したのは、きみの父、ただ一人だった。敵勢力は予測を上回り、退路は封鎖された。撤退の判断を下す間もなく、仲間は次々に斃れ、最後には、彼だけが、血に濡れた負傷者を背負い、砂漠を踏破して戻ってきた」


 その瞬間、次国の胸の奥で、乾いた音がした。

 英雄譚であるべき物語が、返ってきた者が一人であったという事実によって、血の滲む呪詛へと変貌していた。


「私は本部にいた。現地には行っていない。だが、きみの父が帰還した時の顔を、今でも鮮明に覚えている。

 勝者の顔ではなかった。勝利を抱えて帰った者ではなく、敗北を抱えて立ち尽くす者のそれだった。

 それから、きみの父はすべてを拒んだ。昇進も、勲章も。彼の中で、戦友たちの声が、絶え間なく響いていたのだろう。きっと彼は自分を許せなかったんだろうな。だからこそきみに、強くなれと繰り返した。誰も守れなかった自分の代わりに、すべてを守れる人間になれと、きみの幼い肩に背負わせた。

 だがそれは……間違いだったのかもしれない」


 男は立ち上がった。影が壁に長く伸び、夕陽にかすれた。

 次国は、何も言わなかった。ただ俯き、指先に力を込める。


「きみがこの先、何を選び、何を壊していこうとも、私は口を挟まない。ただ一つだけ、伝えたくて来た。きみの父は、きみに戦士でいてほしかったんじゃない。生きていてほしかっただけなんだ」


 そう言い残し、男は背を向けて歩き出す。その後、扉の前で立ち止まった。


「そうだ。今回のきみの行いについては、こちらで対処する。きみの父から頼まれていたからな。ただ、今後はしっかりと考えて、生きていってくれ。自衛隊に入隊を希望するなら歓迎しよう」


 本心か冗談か分からないが、男はそう言って出ていった。扉が閉まる音が、どこか遠い銃声のように静かに響いた。


 その時こそ、次国の人生における分岐点であった。

 正常な思考と言ってはなんだが、もし彼が一般的な思想を持っていれば、父には愛があり、それが歪んだ形で自分に注がれていたのだと考えただろう。

 しかし、もはや洗脳とさえ言える父の教育により、次国の心には反省どころか、同情の念すらなかった。

 なぜなら、強さを求めた結果に過ぎないからだ。それだけが、生き残る意味なのだ。

 感情の起伏は弱さの象徴。理想も、希望も、すべて無意味。力のない者は、死んでも仕方がない。それが世の理なのである。


 そうして歪みを加速させ、大人になった次国は、自衛隊など入隊するはずもなく、手を血で染めて生きた。

 反社の連中に雇われては、その用心棒や処理役を黙々とこなす。金も名誉もいらなかった。ただ強いと恐れられることで、父を殺した自分を肯定し続けた。


 そんな日々の中、これまで力で捩じ伏せてきた人間とは異なる、強敵が現れた──京鹿御門。

 最初の接触は、対立勢力の抗争だった。雇い主を殺された次国が、単独で乗り込んだ先に、彼がいたのだ。

 体格差を加味すると、負けるはずがなかった。しかし次国は、完敗した。

 殴られた記憶がない。蹴られた感触も、倒れた感覚もない。それどころか、戦った記憶すらなかった。

 ただ、目の前が暗転して、気づけば見知らぬ天井があった。


 鈍い頭痛と、焼けるような喉の渇き。全身に激痛が走る。呼吸すら苦しい。

 だが、そんな身体の異常よりも、先に目に飛び込んできたのは、青い目の男だった。


「起きたか」


 椅子に座る男。その声には、哀れみも、嘲笑も、怒りもない。ただ冷静に、事実を確認するような無機質さだけがあった。

 次国は、理解した。

 ──負けた。完膚なきまでに。

 武器を持っていたわけでもない。奇襲を受けたわけでもない。

 ただ一対一で向き合い、勝負を挑んだだけだった。

 だというのに、次国はなにもできなかった。触れることすらできなかった。


「殺さねぇのか」


 かすれた声で言うと、京鹿は一瞬たりとも目を逸らさずに答えた。


「殺す価値がない。いまのお前はな」


「……ッ!」


 心が抉られた。その言葉は、拳よりも深く刺さった。

 父を越えたあの日から、自分にはもう敵がいないと過信していた。しかし世界は広かった。

 屈辱に唇を噛み、血がにじむ。


「俺を……雇ってくれ」


 次国は恥も外聞も捨て去り、頼み込んだ。なにも一生ついていきたいなんて温い考えがよぎったわけではない。圧倒的な力の差を感じた相手に、敗北したままでは気が済まなかったのだ。

 京鹿は興味なさげに立ち上がり、背を向けた。


「私を討ちたいのか」


 子供じみた次国の魂胆が、明瞭に見透かされた。それがまた、悔しくて仕方なかった。

 しかしいまの次国には、黙って頷くことしかできなかった。


「同じ土俵に立てたなら、その時は相手をしてやろう」


 足音が遠ざかっていく。

 その背中を見送りながら、次国は静かに誓った──いつか、必ず殺す。この圧倒を忘れずに、生きて、生きて、生き抜いて、いつか、あの背中に刃を突き立てる。

 それが、火樫次国という男の新たな生きる理由となった。


 そうして京鹿につき従うこととなった次国。

 彼が始めに驚かされたのは、驚異的な強さを持つ京鹿が、組織のボスではないということだった。

 彼は菫という組織の若頭として、多くの構成員を従える立場にいるものの、父上と呼び慕うボスには頭が上がらないようだった。

 といっても、血縁関係はないらしい。実際、ボスにも実子がいた。

 その息子が厄介で、大した実力もないくせに、頭の息子であることをいいことに、傲慢な態度が目立っていた。

 むろん、次国は黙っていられそうになかったが、京鹿に諭される日々が続いた。


 そんな組織に身を置き、次国は数年間キャバクラのケツモチや、借金取り、風俗嬢の斡旋など、細々した仕事をこなした。

 従来なら力を振るう必要のないことを指示されても従うことはないのだが、京鹿に命令されては反抗できなかった。

 もちろん、未来の対戦を目指してのことだ。


 犯罪組織である以上、仲間の死はそれほど珍しいことではなかった。それは当事者の力不足であると、次国は慈しむことはなかった。

 しかし意外にも、京鹿は違った。

 どれだけ下っ端の部下であっても、仲間の死は重く受け止め、自らの手で報復することを絶対としていた。

 主軸が冷徹であるがゆえに、時折り見せる情の深さが、部下の目にはカリスマ的な存在に映っていたらしく、ずいぶん信頼されていた。

 その頃から、次国は自身の価値観が、他の人間とは異なるのかもしれないと感じ始めていた。


 しばらくして、菫のボスと、その息子が何者かによって殺される事件が起きた。

 順当に、若頭である京鹿がボスになるだろうと、みな噂していたし、次国もそうなると予想していた。

 しかし京鹿は、組織の反乱を憂いたらしく、解体を決断した。いや、再編と言った方が正しい。

 そうして立ち上げたのが、ブラックドッグ。

 当然、京鹿を殺すことだけを考えていた次国は、ファウンドという名と、黒い犬の仮面を受け取ったのである──。


「ゴハッ……」


 目を開けると、まず始めに飛び込んできたのは、美しい満月だった。


「……眩しいな…………」


 体はピクリとも動かず、息苦しい。胸部からは滝のように鮮血が溢れ出ている感触があるが、もはや痛みはない。

 視線を足元に向けると、そこには、幼い少女と、スナイパーライフルを構えた赤髪の女が、眉根を寄せて佇んでいた。


「そうか……俺は──がっはっは! そう構えるな。俺の負けだ。テメェらごときに勝てないようじゃ、どうせヴェルマを殺すなんてのは夢のまた夢だったんだ……グハッガバォァ……」


 喉元に押し寄せる多量の血を吐き出すと、さすがに息が長くないことを察したらしく、女たちは警戒を緩めた。


「この薬を打った時点で博打だったわけだしな」


 改良され、完成に近づいたFRC。バーストしている者が使用した例はないため、どのような反応を示すか未知であることから、京鹿には絶対に使うなと忠告されていた。やけにしつこかったのを覚えている。


 薬を調合している科学者たち曰く、刑務所の受刑者と同じく、ランペイジ状態になり、死に至る可能性が高いと言っていたが、どうやら彼らの推察通りだったらしい。


「あぁ……」


 やっとの思いで手のひらを持ち上げて見てみると、そこにはなにもなかった。空っぽだった。


「悔いは……ねぇか…………」


 まばたきをした次の瞬間、目の前には父がいた。


「親父……」


 顔は靄がかかっているようでよく見えないが、間違いなく父だった。


「次国。すまなかった」


 懐かしい声だった。一緒に天体観測をした、あの頃の父だった。


「父さん…………」


「次国……」


 幼少期に戻った感覚に陥った次国は、思わず父の胸に飛び込んだ。


「俺……俺…………」


「いいんだ。償いはこれからゆっくりすれば、それでいい」


 強く抱きしめられた。

 その腕は、思いがけないほどに温かかった。


 その温もりさえあれば、それだけでよかった。ほかのものなど、どうでもよかった。


 だが、気づきを得るには、あまりにも遅すぎた。

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