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 真壁華澄の鼓膜をわずかに揺らしたのは、花染の声だった。


『おまたせ。外にいる構成員は掃除したわ』


 依然として音響爆弾のノイズが聴覚に纏わりついており、このままではファウンドに押し負けるという状況に、蜘蛛の糸が垂らされたのだ。


「物部さん!」


 真壁はこれまでにない声量で、燐仁に呼びかけると、彼女も意図を察したらしく、鋭く頷いた。

 即座に室外へ飛び出し、林へ一時撤退。


「なんだなんだあ! 逃げても無駄無駄あ! 撃たれて死ぬだけだぜえ!」


 ファウンドは攻撃の手を止め、急ぐ素振りも見せず悠然と歩いてくる。幸い、彼はまだ、外で銃を構える構成員が掃討されたことを知らない。

 その隙が功を奏し、真壁と燐仁は無事に闇の中に溶け込んだ。


「師範……どうしますか」


 木陰に身を寄せた燐仁が、ひそやかに口を開いた。湿り気を帯びた空気が、呼吸のたびに肺をざらつかせる。


「そうですね……まずは聴式の回復を待つしかありません。あとは花染さんの援護次第と言ったところでしょうか。両耳、鼓膜は破れていませんか?」


 真壁の声は落ち着いていた。だがその眼差しは、わずかな風の動きすら見逃すまいと張り詰めており、全神経が目の前の一瞬に向けられている。


「すみません……左耳はもう使い物にならないみたいです……」


 燐仁は唇を噛みしめながら答えた。悔しさと無力感が、抑えた声の端々から滲み出る。


「そうですか。あれだけ爆弾に近かったのですから、仕方ありません」


 非難ではなく、淡々と事実を受け止める口。

 ふたりの会話は、風の音にすら溶けてしまいそうなほど小さい。


 そして──突如、静寂を引き裂くように、森の向こうから怒声が轟いた。


「あぁ? どうなってんだ? おおいお前らああ! なにしてんだああああ! 二人そっちに行ったろうがあ! 撃てよおお!」


 ファウンドの叫びだった。獣のように怒り狂い、状況を理解できずに苛立ちを爆発させている。しかし、どこからも応答はない。


 次の瞬間、彼は橙色のオーラを放った。


「なんだ……くっせぇな。血か?」


 仮面の鼻の部分をつまんだファウンド。どうやら花染の狙撃によって霧散した鮮血の悪臭が漂っていることに気づいたらしい。彼が嗅式でなければ、もう少し時間を稼げたかもしれないが、それは結果論か。


「臭うな」


 ファウンドは野犬さながらに鼻をひくつかせ、執拗に空気を嗅ぎ取った。そして、ダムがそびえる北方へと、獣じみた鋭さで顔を向ける。


「はっはァッ! いやがんなそこにいいい!」


 吠えるように叫んだかと思うと、爆ぜる勢いで地を蹴った。斜面をものともせず、重力すら振り払うかのごとく、異様な速度で駆け登っていく。


 だが、その進路は、真壁たちがひそんでいる位置とはまったく異なる方向だった。一瞬、胸に違和感が灯ったものの、真壁はすぐにその意図を察した。


『花染さん! そちらに向かっています……!』


 無線越しに警告を送ると、すぐさま応答が返る。


『あたしは大丈夫。華澄は隙があったら斬って』


 背景には、サプレッサーを装着した狙撃銃の、低く重い発砲音が断続的に響いていた。


「物部さん! あなたはここで待機していてください!」


 真壁が声をかけると、隣で膝をついていた燐仁が、目に燃えるような決意を宿して訴えた。


「師範……! 私も行かせてください!」


 一瞬、ためらった。だが、燐仁の真剣な眼差しを見て、真壁は静かに頷く。


「……分かりました。無茶はしないでください」


「承知!」


 聴覚機能も、幸いなことにかなり回復していた。周囲の音はかつての澄んだ感覚を取り戻しつつある。いまならまだ、渡り合える。

 ただし、問題はファウンドが所持する音響爆弾の残弾数だ。再びあの衝撃を受ければ、今度こそ立ってはいられない。ならば、次の一撃に全てを賭けるほかない。


 真壁は、風にざわめく木々の合間を縫うように疾走した。耳に届く後方の軽快な足音から、燐仁の聴覚もまた、ある程度回復していると察する。


 遠くの方で、鉄と鉄とがぶつかり弾ける甲高い音が鳴り、森を震わせた。花染にとって、近接戦闘は圧倒的不利。射手は本来、標的との距離を保つものだ。

 焦燥を胸に抱きつつ、金属の軋みが絶え間なく続く場所へと一気に駆けた。

 鬱蒼たる林を抜けると、そこにはぽっかりと木々のない空間が広がり、スポットライトのごとく月の光が差し込んでいた。


「テメェ! なかなかやるじゃねぇか!」


 月光に縁取りをされた舞台で、ファウンドが歓喜に震えていた。

 その手に握られた殺戮の槌──ハンマーアックスを、花染は驚くべきことに、巨大なスナイパーライフルの銃身で受け止めていた。しかも、易々と。


 真壁は、その光景を前に己の浅慮を恥じた。

 花染が背負う巨大な狙撃銃は、単なる射撃のための道具ではなかったのだ。

 本来、狙撃手とは遠方の獲物を撃ち抜く役割。発砲するたびにポジションを変え、接近戦などもってのほか。しかし、ニュークと対峙するとなれば、そんな常識は無意味だ。

 一瞬でも油断すれば、敵は風のように距離を詰めてくる。

 花染は、その致命的な弱点を見事に克服していた。

 彼女のライフルは、放たれる弾丸の凄絶な威力に耐えうるべく、極めて堅牢な素材で造られていると聞く。だからこそ、ハンマーのごとく振るってもびくともしないのだ。

 くわえて、バーストによって手にした、常軌を逸した筋力。それらをもってして初めて成し得る、荒業。


 彼女が無線で見せた余裕は、これのことだったと理解した真壁は、機を待つべく林の陰に身をひそめたまま、息を殺した。隣には、緊張を滲ませた燐仁が控えている。彼女もまた、耳を澄まし、目を凝らして、森の舞台を見守っていた。


 闇の中、月光に白く浮かび上がるふたつの影。

 ファウンドの振り上げたハンマーアックスが唸りを上げ、花染の巨大なスナイパーライフルが、それを真正面から受け止める。

 火花が飛び散った。金属と金属がぶつかり合う鋭い音が、夜気を裂いて森の奥深くまで木霊する。


「見ない顔だが、やっと骨のあるやつがきたなあ!」


 依然として、ファウンドが歓喜している。眼は爛々と輝き、獣のような笑みを浮かべていた。

 対する花染は、余計な声ひとつ発さず、全神経を槌の重みに集中させている。その細い腕からは想像もできないほどの、研ぎ澄まされた筋力と集中力が滲み出ていた。


 真壁は、喉の奥で驚嘆を押し殺した。

 ただ撃つための道具と思われたあのライフルが、今や鉄槌を受け止める盾であり、時に矛と化している。

 重厚な銃身を軸に、花染はしなやかに、そして正確に動いていた。ファウンドの狂気を孕んだ攻撃にも、決して押し負けない。

 燐仁が、かすかに息を呑んだのが分かった。彼女もまた、目の前の高次元の激戦に呼吸を忘れているのだろう。

 ただ、いま林から飛び出せば、かえって花染の動きを封じかねない。

 ここは、ふたりの拮抗を利用し、ほんの一瞬──わずかに生まれる隙を見逃さず、叩き込まなければならない。


 闇に紛れて、真壁は静かに体勢を低くした。燐仁もまた、微細な呼吸で、それに倣う。森を渡る夜風が、草葉を揺らし、わずかにふたりの影を乱した。

 だが、ファウンドも花染も、真壁らの存在には気づいている様子はなく、ただ互いを撃ち砕くために全身全霊をぶつけ合っていた。


 貨物船上で戦った時のファウンドもそうだったが、防御や回避が間に合わないと察するや否や、潔く武器を手放す。重厚な武器ゆえの鈍さをカバーする的確な判断力を備えている。それは花染も同じだった。

 それらを鑑みるに、おそらく彼女が敗北を喫することはない。だが、押し切れるとまでは言い切れない。だとすれば、あとは条件が整うのを待つだけ。

 ファウンドが武器を手放し、花染の猛攻を回避するために跳躍する瞬間。武器もなく、着地するまで次の動きに転じることができないその一瞬を、斬る。

 仮にその機を逃しても、三対一という数的有利で押し切れる。いや、その確証はない。むしろ花染の足手まといとなり、形勢が傾く可能性もなきにしもあらず。

 それならばやはり、次の一太刀で全てを終わらせるべき。


 そうして闇に溶け込んでいると、ついに時が来る。


 花染が振るったライフルを回避すべく、ファウンドはハンマーアックスを手放し、後方に跳躍した。

 すかさず陰から真壁が全速力で飛び出すと、後方から燐仁が続く。二人は、まるで一体の生物のように、同時に左右から肉薄した。


 真壁の一閃──月光を纏った刀身が、光の矢のようにファウンドの左肩へと突き進む。


 だが──。


 花染を見据えていたはずのファウンドと目が合い、予想に反して彼は驚くべき速さで体を捻った──斬撃は空を切り、無力な風のように消える。その眼差しは、ただ一点の光すら逃すことなく、真壁の動きに対応していた。


 彼が身に纏う橙色のオーラを見て、真壁は痛恨のミスを犯したことに気付く。嗅式であるファウンドには、真壁と燐仁が近くにいることなど、初めから悟られていたのだ。

 しかし焦る必要はない。まだ二の矢がある。


 真壁の逆サイド。

 燐仁の刀が高く舞い、横一文字に振るわれた。その太刀筋は、ファウンドの右腕から胴体にかけて両断する──はずだった。

 燐仁が振るった刃は虚しくも、鉄に激突したような甲高い音を響かせ、弾かれてしまった。ファウンドの衣服の切れ目から、銀色の鉄が露呈。


 彼の右手は、義手だった。


「っ……!」


 燐仁が呻き声を呑み込む間もなく、ファウンドの巨大な裏拳が振るわれる──燐仁の身体は無慈悲に叩き飛ばされた。そして大木に衝突し、地に転がり込んだ。


「物部さん……!」


 真壁は無意識にその名を叫び、燐仁のもとへ駆け寄った。

 その間、ファウンドは真壁に一瞥もくれることなく、その足を花染に向けて踏み込んでいく。その冷徹さは、幾多数多の歴戦の修羅場を越えてきた歴戦の兵士。

 しかし花染は、不意打ちに失敗したことに狼狽えず、ライフルを激しく回転させ、牽制の一撃を放つ。その隙間に真壁は体勢を立て直し、再び戦いに身を投じる。


 燐仁は血を吐きながらも、なんとか膝をついて立ち上がろうとしている。彼女の体は傷だらけだが、その意志はまだ折れていない。


 戦える──。


 真壁は燐仁の姿を見て、再度三人で一斉に仕掛ける決意を固めた。


「三対一か。燃えるなあ! 一気に来い!」


 戦いに娯楽を見出だしているファウンドは、地面に突き刺さったハンマーアックスを引き抜き、担ぎ上げた。


 彼の希望通り、真壁らは三人同時に動き出す。


 右──花染は異常な俊敏さで地を蹴り、突進。逆手に構えたスナイパーライフルを、空気ごと裂く勢いで振るい上げた。火花とともにファウンドの腕をなぎ払い、巨体のバランスがわずかに崩れる。


 左──燐仁は地を滑るように接近し、太腿を狙って一閃。今度は義肢ではない。肉を裂き、赤い鮮血が吹き出す。


 正面──真壁のその瞳は、ファウンドの凶暴な眼光を真正面から射抜いたまま揺るがない。恐怖はなかった。あるのは、ただ一点を見据える集中。


「そこッ!」


 鋭く伸びた白刃が肩口を斬り裂く。分厚い肉と義手の構造に守られてなお、その攻撃は確かな綻びを生む。


「おもしれぇ……!」


 ファウンドが笑い、ハンマーアックスを旋回させる。暴風のような旋回軌道。凄まじい風圧が周囲を撫でるように吹き抜け、木々が唸った。

 三人とも、迫る凶器から逃れるべく飛び退く。だが、攻めの手は止めない。


「次ッ!」


 鋭く指揮を執る花染が、間髪入れずに跳びかかる。ライフルの柄でアックスを弾き返し、ゴウンッと巨響。その反動に耐えながら、肘でファウンドの顎を撃ち抜く。


「っのぉッ……!?」


 巨体が仰け反る。すかさず燐仁が踏み込み、袈裟斬りの一撃。


「ハイッ!」


 覇気。

 肩から胸元へ、黒い血を飛ばしながら斬り裂く──巨体の動きが鈍る。


 呼応するように、真壁が両手に握る白刃を、風のようにしなやかに走らせる。鋭く、重く、そして美しい。その軌道は稲妻のように死角を穿ち──。


 ズブリとファウンドの腹部に深々と突き刺さった。

 その瞬間、彼の瞳がわずかに揺れ、腹から黒い血が滲む。


 予想に反し、三体一の攻防はあっさりと幕を閉じた。真壁一突きにより、誰もがそう思った。


 だが次の瞬間、真壁はファウンドに突き飛ばされ──思わず刀を手放してしまう。

 後転しながら体勢を立て直した彼女の目に映ったのは、腸に日本刀を突き刺されてもなお立ち続ける、狂気じみたファウンドの姿だった。


「……クク……はははッ!」


 ファウンドは肩を揺らし、不適な笑いをこぼした。それは快楽に近い興奮。敗北の影など一片もない。


「ここだなぁ……!」


 そう言ってハンマーアックスを地面に突き立てた。


「よぉし……! ここだあ! 俺の踏ん張りどころはここなんだろおオッ! なあ親父! そういうことだよなあ!」


 一人で騒ぐファウンドに、容赦なく花染の重い打撃が叩きつけられる。が、彼はそれを義手で軽々と弾き返し、ポケットを探り始めた。


「音響爆弾ッ……!」


 意図を察した真壁はその直感に従い、素早く燐仁の腕を掴んで引き、反射的に距離を取った。

 だが、彼女の読みは外れた。


 ファウンドが取り出したのは、小さな注射器。


「俺は、まだ死なねええええ゛え゛……!」


 一瞬の躊躇もなく、その注射器を自らの首筋に突き刺した。そしてフラりと体がぐらつき、俯いたファウンド。


 どんな企みがあるのか見当もつかない真壁らは、さらに後退し、未知の展開に備える──。

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