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 仁志尋芽は、両親と妹の四人で暮らしていた。

 しかしそこは子供にとって非常に劣悪な環境だった。

 服は脱ぎ捨てられ、シンクには無数に食器が重ねられている。それらの乾ききった汚れが、長らく同じ状況であることを物語っていた。部屋の薄暗さは、まるで家庭環境を表しているかのよう。


「あなたのせいでしょ!?」


「はあ!? 黙れブス!」


 ──父と母の喧嘩は、日常茶飯事というより、日常そのもの。

 両親の気に障ることがあれば、子供二人は容赦なくぶたれたり、蹴られたり、外に放り出されたりしていた。

 本来、静かでリラックスできるはずの彼女の家には、常に緊張感が漂っていたのである。


 唯一、尋芽の希望であり、生きる意味をもたらしてくれる存在だったのが、年子の妹である由衣(ゆい)。彼女のことは両親の暴力からも、可能な限り守り、極力、両親から遠ざけるよう努力していた。

 とにかく由衣がいてくれるだけで、頑張って生きようと思えた。


 そんな劣悪な家庭でも、週に一度、嵐がおさまる日があった。仲の悪い両親が、嘘のように仲睦まじくなるのだ。それはもう夫婦円満、家族団欒と。いつもは暗く、口を開けば罵詈雑言の嵐を巻き起こす両親が異常な優しさを見せるのだ。

 調子がいい日なんて、家族四人揃って夜遅くに近くの公園で鬼ごっこをすることもあったくらいだ。

 幼い頃の尋芽は、そんな週に一度の褒美こそが愛なのだと思っていた。だがそんなものは褒美ではなく、ただの気まぐれでしかなかったと、彼女は知ることとなる。


 尋芽が中学に入学してすぐのことだ。とある授業で、薬物の中毒性とその危険性を学ぶ機会が設けられた。

 虚ろで焦点が合っていない目。極度な過食や拒食。情緒の不安定さ。発言における一貫性のなさ。異常な手の震え。

 授業で紹介された数々の事例は、まるで両親ことをさしているのかと錯覚してしまうほど酷似していた。

 週に一度の褒美、両親からの愛。そんなものは幻想。希望的観測でしかなかった。

 上機嫌になるのは、薬物を摂取したことによる一時的欲求の満ち。日が経つにつれ、子供への当たりが強まってゆくのは、飢えゆえの禁断症状。


 授業を受けた夜、思い切って母に問うた。薬をやっているのかと。

 しかしどうやら、聞くタイミングが良くなかったらしく、母は怒り狂い、いつも以上に暴力を振るわれてしまう結果に終わった。ただ、薬に手を出していることは認めた。

 そしてその日は、家を閉め出され、近くの公園で一夜を過ごす羽目になった。


 一人がゆえに、尋芽はいろいろと思案した。たまに訪ねてくる児童相談所に相談すべきか。いや、結局両親が追い払うだけだ。警察に相談するのはどうだろうか。いや、児相と同じで、大して役には立たないだろう。いずれにしても、告げ口した自分に対する報復が待っているだけだ。


 そんなこんなで一夜明け、学校に行くために一旦荷物を家に取りに帰った。

 玄関の扉を開け、恐る恐るリビングに足を踏み入れると、そこには瞑目した由衣が横たわっていた。

 どうして自分の部屋ではなく、リビングで寝ているのか、疑問に思った。なぜなら自室以外で寝てしまうと、父が激しく怒るからだ。

 しかし彼女は、堂々とソファを占領して眠っていた。


 奇妙な悪寒を感じ、由衣の元へ駆け寄った。

 その姿は、まるで壊れた人形。唇は紫がかって乾いていた。腕にはいくつも青黒い痣が重なり、膝には裂けたような傷跡が走っている。


 尋芽はそっと、彼女の頬に手を添えた。冷たい。ひどく、冷たい。

 そうこうしていると、なにやら調理をしているらしく、キッチンの方から母が顔を覗かせた。


「なにあんた。帰ってきたの」


「うん……ママ、由衣が……」


 妹と同じくらい蒼白になった顔で、尋芽が母に状況の説明を求めた。すると彼女は、鼻で笑った。


「その子、もう死んだよ。ちょっと強く叩き過ぎたみたい」


 悪びれる様子など微塵もなく、淡々と告げられた。

 尋芽は自身の耳を疑った。そして母の態度を疑った。実の娘を殺めておいて、平然と朝食を作っているという異常に、脳が追い付かなかった。


「ママ……どうするの……?」


「どうするってなにがよ」


「いや、由衣のこと……」


「知らないわよそんなこと。パパが帰ってきたらあんたが話なさいよね」


 まるで他人事のような口ぶりだった。


 結局、ほどなくして父が帰宅した。娘が死んだことを嘆くかと思いきや、彼もまた、興味を示さなかった。それどころか、尋芽に対して、由衣を庭に埋めるよう指示してきたくらい。


 生きる希望を失った。

 由衣がいてくれるだけで、生きていたいと思えていたが、それすらも奪われてしまった。

 ぽっかりと空いた心の穴を塞ぐことなどできるはずもなく、尋芽は感情を失った。父の指示通り、庭に穴を掘り、由衣を埋めた。

 小さな体を抱きかかえ、そっと穴におろした時、由衣の手からなにかが落ちた。

 尋芽がプレゼントしたミサンガだった。手首に結んであげた時の記憶が蘇る。


「お姉ちゃんが、自由になりますように!」


 無邪気な笑顔で、由衣は言った。そんなおかしな願い事に、尋芽は頬を膨らませた。


「なにそれ。自分の願い事を言わないとダメじゃんかー」


「ううん! これが由衣の願い事だよ!」


「そっかそっか。ありがと」


 心の底から嬉しく、涙がこぼれおちそうになりながら、由衣の頭を撫でたのを鮮明に覚えている。

 千切れたミサンガを拾い、瞑目した由衣に土をかけながら、尋芽はあの時流し損ねた涙を、ボロボロとこぼした。同時に、母と父に対する憎悪が、最高潮に達していた。


 翌日、現実を受け止められずにいたところ、青ざめた様相の母が家に走り込んできた。薬が切れて禁断症状が出ているのだろう、と悟った尋芽は、逃げるように自室へ戻ろうとした。

 しかしどうも母の様子がおかしく、なにやら大慌てで彼女は押入れの奥の方を弄り始めた。


 ほどなくして、扉がこじ開けられ、見知らぬ男が一人、土足で上がってきた。


「おいババぁ! 金おろしたのは分かってんだぞゴラァ!」


 なにが起きているのかさっぱり分からない尋芽は、部屋の隅に丸まって怯えていた。

 サングラスをかけた若くてイカツイ男が一人、下品な叫び声を上げながらリビングに入室。明らかにヤクザだった。

 それ続いて入ったのは、小綺麗なスーツを身に纏った、透き通るような青い目の男だった。妙な上品さが漂っていた。


「お願いです! お金はもう持っていないんです……!」


 母親が滑り込みながら額を床に擦りつけた。

 そんな謝意など無視し、サングラスの男が母の横腹を蹴った──呻き声を上げながら、母がダンゴムシのように丸まった。


「もういい。探せ」


 冷たく落ち着いた声で、青い目の男がもう一人に指示を出した。下品なヤクザは「うっす」と首を揺らし、部屋中を荒らし始めた。


 その後、青い目の男は、リビングのソファにゆっくりと腰かけ、足を組んで尋芽をジッと凝視し始める。


「あ、あの……」


 目を逸らすわけにもいかず、尋芽はおずおずと声を発した。

 男もまた目を逸らさないものの、返答がない。


「あの……母がなにか……」


「あぁ? うっせぇんだよガキ!」


 青い目の男に問いかけたつもりだったが、サングラスの男に怒鳴られた。頭を抱え、萎縮する尋芽。

 恐る恐る顔を上げると、さきほどまでソファに腰を据えていたはずの品のある男が、いつしか目の前にしゃがみこんでいた。


「母親がなにかを隠すのを見なかったか?」


 見た目だけでなく、素振りまで上品な男に、尋芽は一瞬見惚れた。しかしすぐに我に返り、恐怖が心を蝕んだ。


「あ……あの……私は…………」


「怖がらなくていい」


 男は一切表情を変えず、冷たい視線を浴びせてくる。しかしどこか温かみのある声色だった。


「えっと……」


 尋芽は迷っていた。

 もし押入れになにかを隠したことを告げれば、後々、母親にぶたれるどころの騒ぎではなくなる。さりとて、この男たちに隠し事をすれば、それこそどうなるか分からない。


 どうするべきか、葛藤するなか、彼女は素朴な疑問を抱いた。

 なぜ、憎い母を庇う必要があるのだと。

 なぜ、憎い母を庇おうとしている自分がいるのだろうかと。


 そんな疑問が彼女の心に浮かんだ時、覆いかぶさっていた暗雲がパッと晴れ渡った。


「取り引き……してくれませんか…………」


 唐突の交渉だったが、相変わらず男は表情一つ変えなかった。ただ、拒否しないあたり、内容次第では交渉に応じるのだと、尋芽は直感した。


「もし、場所を教えたら、母と父を殺してください」


 震えながらも、涙ぐむ目に力を込め、強い意志を示した。


「なにバカなこと言ってんのよ……!」


 ずいぶん静かになったため、気を失ったと思っていた母親に睨みつけられた。しかし尋芽は視線を逸らし、眼前の男と目を合わせた。

 やはり男は、眉一つ動かさない。立場を弁えるべきだったのだろうかと、尋芽が弱気になりかけたその時、低い声が響いた。


「条件がある」


「…………な、なんでしょうか……」


「お前の母は、多くの借金を抱えている。その借りを、お前が背負うのなら、取り引き成立だ」


「分かりました。私が返済します」


 尋芽は即答した。もはや両親に対して、感謝の心は持ち合わせていない。むしろ借金を肩代わりするのだから、感謝されるべきだ。

 返済額がいくらなのか知らない。ただ、この家で、最悪の家庭で暮らすのはもう、うんざりだということだけが、頭に広がっていた。


「もう一つ」


 即答した尋芽に付け込むつもりなのか、男は条件の追加を提案。


「な、なんですか」


「お前の手で、母親を殺せ」


 そう言って、男は拳銃を差し出してきた。

 いまさら断れるはずもなく、尋芽は殺傷能力抜群のその武器を受け取る。


「──っ!」


 想像以上の重さに驚き、落としかけたが、両手で握り直し、かろうじて落下を防いだ。


「引き金を引けば、弾が出る。殺れるか?」


 尋芽は深く頷いた。非現実が重なり、もはや正常な判断ができなくなっているせいか抵抗感はなかった。


「押入れの奥の方です……」


 そう告げると、男はサングラスをかけた部下らしき人物に顎をしゃくって合図を出した。

 部下は「へい!」と威勢のいい返事をし、押入れに足を向ける。


「やめてええええええ! お願いします! なんでもしますからあああ!」


 うずくまって母が、突如叫びながらサングラスの男の足にしがみついた。むろん、蹴り飛ばされ、壁に衝突する。


「やめて……ください…………」


 頭部から血を流している母が、小声で懇願している。そんな彼女のみすぼらしい姿を見て、尋芽は内心喜んでいた。ざまあみろと。


「兄貴! ありました!」


 ほどなくして、押入れの中から封筒が掘り出された。すると青い目の男はゆっくりと頷いた。


「お前は車に戻れ」


「でも、どうするんすかそのガキ」


「これから判断する」


「そっすか。じゃ、先戻ってますねー」


 サングラスの男は、母に唾を吐き捨てた後、去って行った。

 その後、青い目の男は母の元に歩み寄り、髪を鷲掴みにし、尋芽の前まで引きずってきた。


「やめ……! やめて!」


 母は必死にもがくが、男の腕力は異常で、一切歯が立たない。

 そうして床にねじ伏せられた母と目が合う。


「尋芽! この男を撃て! 誰の金で飯食ってこれたと思ってんのよ! あんたみたいな汚いガキがいままで生きてこれたのは、私たちのおかげでしょ!?」


 母の態度に、尋芽は感謝していた。

 両親との決別を決意したばかりだが、いざ、その状況に直面すると、気が引けてしまったのが本音だ。しかし、その憎たらしい目つきと言動で、易々と踏ん切りがついた。


「さぁ、撃──」


 男の指示を聞き終える前に、なんの躊躇いもなく、目の前に突っ伏する母の頭部をめがけて引き金を引いた。発砲の衝撃で、後方にのけ反った。

 撃ち放つ瞬間に鳴り響いた乾いた銃声により、耳鳴りが纏わりついている。

 気がつけば、母はこちらを見たまま動かなくなっていた。血の池に顔を浮かべて。


「はは……はははっ!」


 どういうわけか、笑いが込み上げてきた。


「ざまあみろ! このクソババァ! 死んで当然だ!」


 自分でも気付かぬうちに、母に対する鬱憤が蓄積されていたらしく、清々しくて仕方なかった。


「ははは! ははっ……はは…………」


 一時はスカッとした感情が心を支配していたが、その波は一気に引いていった。次に押し寄せたのは、罪悪感だった。


「私……」


 やってしまった。高ぶった感情のまま、人を殺してしまった。

 その罪の重さを痛感し、吐き気がした。

 このまま自分の頭も撃ち、全て終わりにしようかと思ったその時、頭頂部に温もりが広がった。


「辛かったのだな。お前も」


 青い眼の男に、頭を撫でられていた。

 いつぶりだろう──と思ったが、そもそも頭を撫でられた記憶がない。冷徹な過去を持つ尋芽にとって、その温もりは計り知れなかった。


「お前の覚悟は十分理解した。少し待っていろ。父上に話してくる」


 そう言って尋芽から銃を取り上げた男は、ポケットからスマホを取り出しながら庭へ出た。

 本心は、もっと頭を撫でてほしいと思っていたが、そんな欲を出せず、尋芽はじっと待つことにした。


 目の前に横たわる母が視界に飛び込み、嘔吐感が押し寄せたため、キッチンへ走り込み、水道水で喉を潤した。

 その後すぐ、誰かが玄関から入ってくる足音が聞こえた。


「おーい帰ったぞー」


 父だった。


「なんだお前かよ。アイツはどこ行った?」


 彼が言うアイツとは、リビングで血を流す母のこと。


「はぁ!?」


 すぐに父は、母の異体を見つけ、声を上げた。


「尋芽! お前がやったのか!?」


「え……私は…………」


「お前……」


 即座な父の顔が真っ赤になった。そしてドスドスと足音を立てながら迫り来る。


「お前か、アイツを殺したのは」


「いや……」


 歯切れの悪い返事をしたせいか、父親は尋芽の首に手をのばし、鷲掴みにした。


「パ……パパ…………やめて……」


 酸素が足りず、意識が朦朧とする。

 その瞬間、母を撃った時の映像が脳裏によぎった。

 そうだ。この男も自分が殺さなければならない。そうでなければ意味がないのだ。

 その意志がゆえか、死にたくないという意志がゆえか、彼女の全身に、強烈な電流が駆け抜けた。

 自分の首に巻きつく父の手を引き剥がすのをやめ、彼の右目を親指で押し潰した。


「ぐぉぉうぁああああアアァッ……!」


 悲鳴を上げながら、父親は尋芽の首を投げ捨るように解放した──尋芽は尻餅をつく。


「お前……なにしてくれてんだよいてぇなあ!」


 父の怒りは最高潮に達した。


「ごめんなさい……」


 リリースしたことなどつゆ知らず、尋芽は頭を抱えて謝罪した。しかし父は止まらず、拳を振りかぶった。

 思い切り殴られ、鈍痛が走ると思い、防衛本能のせいか目を閉じる。

 ──だがなんの音沙汰もない。


 ゆっくりと目を押し開くと、そこに父の姿はなく、代わりに青い眼の男が立ち代わっていた。そして足元には、首が180度回転し、すっかり大人しくなった父が崩れ落ちていた。


「すまない。怖い思いをさせた」


 そう言った男に、優しく抱き寄せられた。その時、尋芽は人生で初めて、愛情を注がれた気がした。


 そして、恋をした。

 京鹿御門に──。


 ふと目を開けると、見慣れた庭で座り込んでいた。しかし体は全く動かない。

 目の前には、ボロボロに傷を負った青年が。


「尋芽。どうしてお前、触式の警戒を解いたんだ」


 天若陽暈。彼は思った以上に強かった。


「別に……」


「単純な打撃は触式に通用しないって知ってんだよな」


「…………」


 自分でも分からなかった。なぜ最後の最後に、単純な打撃を選んだのか。あれほどワイラーに触式の強みを忠告されていたのに、なぜ。

 自分なりの反省──初めて自分を、心から好いてくれた碧への懺悔なのだろうか。


「陽暈くん。お願い。御門様のことは、どうか救って……」


「分かってる。でも、約束はできない」


 陽暈はそう言って去っていった。

 彼には家族を殺された恨みがある。そう簡単に許せるはずはない。だが陽暈の心の優しさは、短い間だが知っているつもりだ。

 それに縋ること以外、いまの尋芽にはできそうになかった。

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