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震える月乃の声が、倉庫の冷えた空気を揺らした。
「天若くん……!? どうして!?」
陽暈の登場に、犬の仮面をつけた四人の男女が一斉に振り向いた。帰宅した飼い主に反応する犬のように。もっとも、彼らには可愛げなど微塵もなく、飼い主というより獲物を睨む捕食者の目であるが。
「最近起きてる誘拐事件ってのはあんたらの仕業だな」
視界に映る四人だけで満足せず、陽暈は周囲の陰影に潜む気配を探りながら、月乃の元へゆっくりと歩を進める。
「誰だお前。子供が首を突っ込んでいい話じゃねえよ。帰ってママのおっぱいでもちゅってな」
フードをかぶった男が面倒そうに吐き捨てると、他の犬たちも同調するようにくぐもった笑いを漏らした。
陽暈はその嘲笑を無視し、膝をついて月乃の傍に身をかがめる。
「天若くん。違うの。これは──」
「もう大丈夫」
月乃の背中にそっと手を添え、揺るがぬ声音でそう告げた。頼りない背筋に、一筋の芯を通すように。
「痛ええ! こいつマジで痛え! 漫画の読み過ぎだろ! ヒーロー気取りかっての!」
フードの男が突然腹を抱え、転げ回るように笑い出した。その夾雑な嘲笑が他の犬たちにも伝播し、倉庫内に不快な空気が充満する。
「なんか知んないっすけど、もう帰りますよ。ほら行くぞ」
月乃の手を引いて立ち去ろうとした瞬間、帽子を後ろかぶりにした男が突如として殴りかかってきた。
「調子のってんじゃねえぞゴラァ!」
陽暈は即座に膝を落とし、飛んできた拳を易々と回避。そのまま反動を活かして右拳を相手の顎に叩き込んだ。
「ふんっ!」
その一撃は人形のように男の体を宙へと浮かせ、背後の錆びたラックへと叩きつけた。金属音が甲高く鳴り、舞い上がる粉塵が夕暮れの光に霞む。
「おぉ!? なんかすげえぞ今日の俺! ちょっと痛ぇけど!」
無意識に放った拳の威力に、驚きと興奮を隠せなかった。
しかし、次の瞬間──。
「なにイキッてんのよッ!」
後方からポニーテールの女が飛び蹴りを仕掛けてきた。その掛け声は軽やかに、だが鋭さを帯びていた。
陽暈は反射的に体を捻ってそれを躱し、すれ違いざまに両手を組んで女の脇腹へ叩き込む。
「どぅらぁあッ!」
高所から突き落とされたかのように、女の身体がコンクリートに激突。うつ伏せのまま、もがくことすらままならぬ様子に、手応えが確かに伝わってくる。
「動くなクソガキ」
冷たい鉄の感触が、こめかみに触れた。視線を横にずらすと、先ほどまで地面に座っていた短髪の男が、銃を構えていた。
「すんませんしたあああ!」
陽暈は即座に足の力とプライドを捨て去り、地面に額を擦りつけて土下座。どれだけ調子が良くても、銃弾には敵わない。こればかりは本能が理解していた。
「なんだこいつダセえな。兄貴どうしま──」
「なんつって」
男の目線が外れた隙を突き、すばやく足払いを仕掛けた陽暈は、倒れ込む相手の鳩尾に肘を叩き込んだ。
これまた並外れた威力で、男の身体はバウンドしながら数メートル先の壁へ激突──そこでようやく停止。仮面の奥で瞼は閉じられ、意識を手放していることが見て取れた。
「どうだ! これが中国四千年の歴史!」
胸の前に左手、腹の前に右手を添えて、どこかで見たような型を真似る。もちろん、彼に中国武術の素養など一切ない。どこかで聞いたことのあるフレーズを引用しただけである。
「ブラボー!」
フードの男がゆっくりと拍手をし、乾いた音が倉庫に響く。仮面の奥に浮かぶ感情は読めない。賞賛か、あるいは嘲りか。
「さっきは悪かったな子供扱いして。まさかお前もリリースしてるとは知らなくってよ」
「リリース? なんじゃそりゃ」
「大人の怖さってのを教えてやるよ」
首の筋を軽く鳴らしながら、男が戦闘態勢を取る。陽暈もまた、いかにも中国拳法風の構えを取り、身を固めた。
「だめ! 天若くん! その人は──」
「大丈夫! 俺がお前を守ってやるから」
背後から投げられた月乃の警告を、陽暈は遮った。だが、その声に耳を傾けるべきだった。
まばたきをした次の瞬間、目の前にいたはずの男の姿が消えていた。刹那、あごに強烈な衝撃──強烈なアッパーが振り上げられ、陽暈の身体がふわりと浮く。
そして放物線を描き、背中から着地し、反動で後頭部を強打。視界がぐらりと歪み、思考が散乱。何が起きたのか分からず、ただぼんやりと、倉庫の高い天井が揺れて見えた。
立ち上がろうとしても力が入らない。腹筋に力を込めても、すぐに抜けてしまう。
たった一撃──それだけで完全に沈められた現実が、じわじわと脳内に染み込んでくる。
「天若くん……!」
隣で月乃の声がした。助けるはずだった少女に心配されている──それが、悔しくて、情けなかった。
自分がやらなければ。清隆に言われた、自分の役目。絶対に逃してはならないのに。
「くそっ……ダメだ…………」
体を横に転がし、地面に手をついて上体を起こそうとするが、力は続かない。先の一撃が、想像以上に深く全身に刻まれているらしい。
「……陽暈くん。これ持ってて」
月乃の声と共に、胸元に何かが押し当てられる。言われるままにそれを受け取った。
「はぁ。許さない」
月乃の口から小さく溜息が漏れ、声が変わった。低く、冷え切って、凍りつくような狂気を孕んだ声色。
「あぁ?」
フードの男の気取った声が、足元から響く。
「あたしのヒーローに手を出したこと。許さないって言ってんのよ」
間違いない。確かに月乃の声だった。しかし、その言葉の温度と色には、別人が乗り移ったかのような威圧があった。
陽暈は混濁する視界をなんとか押し開き、隣に立つ少女の姿を捉えた──その瞬間、目の前の光景に思わず息を呑んだ。
艶やかに伸びていた黒髪は乱雑に巻き上げられ、水色のヘアゴムで団子状にまとめられている。髪で造られた壁が取り払われたことにより、額からあごのラインに至るまで、その素顔をさらけ出し──造形の整然さに気づかされる。
古臭い眼鏡が見当たらないと思えば、いまや陽暈の手に握られていた。普段、彼女の目は曇りガラスに遮られていたせいか、いま見えるその瞳は、湧き水のごとく澄み切っており、瞳孔の奥には、これまで見たことのない力強さが宿っている。
改めて言うが、確かに月乃だ。だがもし月乃ではないと告げられたならば、陽暈は容易に信じてしまいそうだった。それほどまでに彼女の変貌は、圧倒的で、どこか神秘的でもあった。