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蓮水碧は、小、中と、学校の人気者だった。
彼の歪な天然パーマと、だらしない風貌など、いじりがいがありながら、リアクションも申し分ないからだ。
とはいえ、いじられるばかりではない。芸人に憧れていた彼は、自発的にボケたりツッコんだりして、笑いの渦を巻き起こしていた。
そうして中学校という狭い空間において覇権を握っていた彼が、満を持して臨んだ高等学校は、思っていたものとは全く違った。
まず、スタートダッシュが全てだと勘違いしていた碧は、入学早々、教師にツッコミを入れ、行き過ぎたボケを披露し、完全に空回りしていた。
結果、クラスメイトには『面白くなくてうるさいやつ』という印象を与えてしまう。
その後も挽回を試み、全く絡みのないグループに突入し、会話の主導権を握ろうと右往左往。もがけばもがくほどに、泥沼に呑まれていくだけであった。
彼がそのジレンマに嵌まった所以は、おそらくこれまでの順風満帆な人生。
小学校は、気さくで勢いのある碧は、必然的に人気者になった。そして受験などをしなかった彼は、近くの中学に進学。
むろん、彼以外のほとんども同じ進路であり、中学と言えどホームグラウンドのようなものであった。それゆえ、いつもの調子で彼の笑いを提供すればいい話。
だが、高校は初対面の生徒ばかりで、アウェーと言っても過言ではない。むしろその心づもりで挑まなければならなかった。
入学後、一ヶ月ほどが経過したある日、負けじと登校した碧は自席に着こうとしたが、机がひっくり返しされていた。誰の仕業かは分からなかった。だが彼は、その程度のことで屈することはなく、虐めではなくイジリと解釈し、大声でツッコんだ。
「おーい誰だよこれやったのー! まだギャグもしてないのに、机が笑い転げてらあ!」
その声は、虚しく教室に響き渡った。笑ってくれているのは机だけ。
そこでついに、碧の心が折れた。一ヶ月間、絶えず笑いを取ることに挑戦し続けた結果、気づかぬうちに過剰なストレスが彼を蝕んでいたのだ。
机を直して着席し、それ以降は声すら出せそうになかった。すっかり大人しくなってしまった碧が滑稽だったのか、クラスメイトによるイジ《・・》りもとい、虐めは、その後も続いた。
虐めといっても、じゃれあいと言われればそう思えなくもない、絶妙なラインの陰湿な嫌がらせがほとんどで、大事になるようなことはなかった。
担任の前でも、平然と行われていたことから、教師も碧に対する虐めを認知していたと考えられるが、学校側からのフォローは一切なかった。その時点で、教師に相談をしたところでなにも変わらないと悟った碧は、諦めて耐える以外に選択肢が見当たらなかった。
むろん、家族には話していない。小、中、と人気者だった自分を見せてきたこともあり、落ちこぼれたと知られることを、プライドが許さなかったのだ。
しかし体は正直だった。
入学して半年ほど経った頃、毛髪が抜け始めた。円形脱毛症だった。
初めて症状がでたのは側頭部で、髪をかぶせれば隠せる場所だったのだが、同時期に一箇所、症状が出た。それは頭頂部であり、隠しようがなく、クラスのみんなからイジられる日々が続いた。
そのストレスにより、さらに別の個所の髪が抜ける。という悪循環に陥る。
家族のみなには、あえて自分から脱毛箇所を見せ、原因がストレスだと言われているが全く心当たりがないと強がって見せた。父も妹も笑い、すぐに治るだろうと楽観視してたが、母親だけは憂いた様相を浮かべていた。
ある日、ふと碧の頭によくない思考が流れた。もはや生きることが辛くなっているいま、自身で終わりにするのはどうだろうかと。
なにも考えず『自殺 方法』で検索してみると、厚生労働省が運営するSOSダイヤルとやらがトップに表示された。どうかSOSを聞かせてくださいと添えられていた。
こんなもの、わざわざ連絡するやつがいるのだろうか。そう思いながらスクロールしていくと、最も多い手段は男女共に『首吊り』であるという文字が視界に飛び込んだ。
やはりそういうものか。
そう思いながら、用済みとなったスマホをテーブルに置いた時、テレビにとある芸人が映った。
漫才の賞レースで優勝したコンビのボケ担当で、陽気な男である。そんな彼は、学生時代の虐めについてトークを繰り広げていた。
芸人という職業に就いている者でも、虐められていた過去を持っていることに少し驚いたが、話を聞いていくうちに、さらなる衝撃を覚えた。
それは、テレビの中にいる芸人と、碧の境遇が、酷似していたからだった。
小、中と人気者であったが、高校では上手くいかず虐められていたこと。そのストレスにより毛髪が抜けたこと。なにもかもが、まるで自分の人生を語ってくれているかのようだった。
ただ、一つだけ大きく異なる点があった。彼は負けなかったのだ。様々な圧力を跳ね除け、笑いを愛し、晴れて芸人となった。
では自分も、テレビに映る彼のように、強く生きられるのだろうか。芸人とまではいかなくとも、前を向いて歩けるのだろうか。
そう懐疑心に苛まれていると、碧に向けたメッセージかのような芸人の言葉が聞こえた。
『とにかく笑っていればいい。いまの辛さはいまだけ。将来はほぼ忘れてる。笑えないなら俺が笑かす』
そう言って、相方に髪型を整えてくれと頼み、荒れた髪型で振り返って、『たぶん禿げてるよねえ!』というボケで笑いを取っていた。
思わず碧は吹き出してしまった。辛い思いをしてきたはずの彼が、こんなにも人を元気付けられるのだと、感嘆した。
とはいえ、残念ながら自分が彼と同じように強く前を向いて生きられるかどうかの結論は出なかった。
だが一日──。
もう一日、生きてみようと思えた。
もしかすると、そのタイミングで、あのテレビ番組が放送されていなければ、碧は自身の命を終わらせていたのかもしれない。しかし、彼は生きた。そして人生を大きく左右する出来事に、命が繋がれた。
翌日、それはバイト先のコンビニで起きた。
放課後、学校からその足でコンビニへ行き、レジ打ちをしていた時のことだ。その日は、共にシフトに入っていた小学生時代の友人の母親が、私情により遅刻するという話を聞いており、一人で店番をしていた。
時刻は夜の八時。ちらほら仕事終わりのサラリーマンが夕食を買いに来る程度で、忙しいと言うには程遠い閑散ぶりだったため、一人でも問題はなかった。
タバコの品出しをしていると、小学校低学年ほどの男児と、その母親が手を繋ぎながら入店。なにやら乾電池を買いに来たらしく、早々にレジへ来ると思いきや、男児に手を引かれた母親は、アイスケースに誘われた。夕食を終えたお子様は、デザートのアイスをご所望なのだろう。
碧は何の気なしに、その親子を眺めながら、レジを打つために待機していた。
そこへ、勢いよく男が押し入った。目と口の部分に穴が開いた、ザ・強盗犯といったデザインのマスクをかぶっており、手には包丁が握られていた。
「全員動くなああ!」
入店するや否や、男が叫んだ。
商品棚で出入口が見えていなかった親子は、レジ側に寄って叫び声の方を覗き込むと、ようやく状況を理解したらしく、母親が男児を抱き上げた。
「金だ。ありったけの金を入れろ」
碧の方へ駆けよった男は、担いでいた黒いボストンバッグをカウンターに投げ込み、包丁を構えた。
「分かり……ました…………」
とにかく犯人を刺激しないよう、碧は震える手を押さえながら『替』ボタンを押下し、レジを開けた。とはいえ、焦りはしなかった。
こういう場合の対処法は、緊急通報ボタンを押し、冷静に現金を渡すこと。そもそもコンビニのレジに収納している現金は数万円。その程度の現金を守るために命を張るのは割に合わないというもの。
そうして現金をバッグに移し替えようとした時、小さな戦士が現れた。
「おいおまえ! わりいやつだな!」
さきほどまで、ケースに並ぶアイスの山に釘付けだったはずの男の子が、自前のプラスチック製の剣を構え、強盗犯のすぐ傍に立っていた。
「あぁ? うっせぇんだよガキ! 黙ってろ!」
幸い、覆面の男は子供を相手にしなかった。すぐさま母親が駆け付け、男児を抱きかかえ、ササッと後退。
「もたもたしてんじゃねえ! さっさと詰めろ!」
勇敢な戦士に見惚れていた碧は、つい手を止めてしまっていた。さっきより包丁の刃先が迫ったため、急ぎで現金を移し替える。
「おれとたたかえ! わりいやつ!」
いつの間にか、母親の手から逃れた男児が、再び剣を突き付けた。そして驚いたことに、男児は碧に微笑んで言った。
「そこのひと! おれがたすけるから、もうだいじょうぶ!」
「大丈夫ってお前……! 危ないからお母さんと一緒に下がってろって!」
「だいじょうぶ! ぼくには、だれかをまもれるつよさがある!」
テレビで見たヒーローかなにかに憧れているのか知らないが、碧にとってはとてつもなく頼もしく思えた。小さいながらも凛々しい彼の笑顔が、安心感を与えてくれたのだ。
「うっせぇっつってんだろ! どっか行ってろ!」
怒声を飛ばすものの、強盗犯は男児に包丁を向けようとはしない。あくまでも金が目的なのだろう。
その後すぐ、再び母親が少年を担ぎ上げ、飲料品が立ち並ぶ奥側に退避した。
「あの……これ…………」
恐る恐る、碧は現金を詰め終わったバッグを差し出した。しかし男は、バッグを受け取らない。
「裏にまだまだあんだろ。それも全部出せ」
「たぶんありますけど……俺の権限じゃ開けられないっす……」
二時間後くらいに来るであろう店長がいないと、バックヤードの売上金の金庫は開くことができない。当然のことだ。
しかし正常な思考ではないらしく、男は引き下がらなかった。
「つべこべ言ってんじゃねぇ! どうにかして出してこい! ぶっ殺すぞ!」
「そんなこと言われても……」
膠着状態になったところで、ようやくパトカーのサイレンが聞こえ始めた。緊急通報ボタンを押した時は、なんの反応もないように思えたが、どうやらしっかりと通報できていたらしい。
「クソが……!」
サイレンが近づき、異常に焦り始めた強盗犯は、碧からボストンバッグを奪うように受け取り、店の出入り口に足を向けた。
そこには、警察でも警備員でもなく、ヒーローが立ちはだかった。
「かんねんしろ! おまえはもうにげられない!」
コンビニの奥側、酒やジュースが陳列されている冷蔵庫前を駆け抜け、ATMの前で曲がり、出入口に先回りしていた少年が、再び剣を構えていた。
今回もまた、強盗犯は子供など相手にせず、逃走を図るだろう。そもそも彼からすれば一刻を争ういま、ヒーローごっこに付き合っている暇などない。
碧はそう考えていたが、男は想像以上にパニック状態に陥っていた。パトカーのサイレンがそうさせたのかもしれない。
「しつけぇんだよこのクソガキが……!」
苛立ちを見せた男は、包丁を振りかぶった。
その時、碧の体が勝手に動き出し、カウンターを飛び越えていた。
「やめろおおオオオ!」
少年に包丁を振り落とそうとする男の背後から、ラグビーさながらのタックルをお見舞い。
「ぐぉあっ……!」
斜め左に、うつ伏せに倒れ込んだ男は、呻き声を漏らした。碧もまた、体勢を崩し、男と共に転がり込んだ。
「てめぇ……」
いまや現金の入ったバッグなど気にもとめず、男は包丁を握り直して立ち上がった。
殺されるかもしれない。死ぬかもしれない。そんなおぞましい感覚が碧の全身に吹き流れると、膝がプルプルと震え始めた。
昨夜、自殺をも考えていた自分が、いま、死にたくないと思っていることに驚きを隠せなかった。
「うぉぉぉおおおおああああ!」
咆哮した男が、刃を構え、駆け出した。
碧は、とにかく包丁を手放させることだけに集中しようとした。しかし、切っ先の軌道がおかしいことに気づく。
強盗犯の狙いは、碧ではなく、小さき戦士だったのだ。むろん、プラスチックの剣でやりあえるはずがない。
咄嗟に碧は、男児に覆いかぶさった。
「いっ……!」
背の腰に近い箇所に、激痛が走った。もちろん包丁で刺されたことは理解していたが、想像を遥かに超える痛みであった。
剣を握った少年は、心配そうにこちらを仰ぎ見ていた。碧は、テレビで見たお笑い芸人を思い出し、必死に笑顔を取り繕う。
「大丈夫。次は俺の番だ」
背に刺さっていた包丁が、引き抜かれ、さらなる痛みが襲う。
「くっ……!」
一瞬顔を歪めたが、再び微笑み、男児を安心させようと試みた。
「大丈夫……」
その後、強盗犯の方へ振り返り、少年に背を向けながら忠告する。
「お前はもう下がってろ……」
ここで、ようやく少年は事態の深刻さを理解したらしく、母親の元へ後退した。おそらく碧の背から流れ出る鮮血を見たからだろう。
「へへ……やんのかよてめぇ……」
人を刺したせいか、明らかに男の目が変わっていた。開き直っているというべきか、なにか吹っ切れた様子だった。
「望み通り殺してやらぁぁあああ!」
狂気的な目をした男は、今度は包丁を胸の前で構え、刃先を碧に向けたまま突進してきた。死という得体の知れない恐怖が、目の前に迫ったその時、彼の心が叫んだ。死にたくないと。
瞬間──全身に凄まじい電流が走り抜け、総身に流れる緋色の液が、勢いを増し、一瞬にして体温を上昇させた。
迫る刃をひらりと躱し、引き込んだ拳を、全力で男の頬に叩き込む。
「うぉぉおおおらああッ!」
その威力は、自分でも引くほどの衝撃波を起こし、強盗犯は宙を舞った──やがてコーヒーメーカーに激突し、沈黙。
「はぁ……はぁ……はぁ…………」
どういうわけか、それほど動いていないにもかかわらず、激しく息が乱れていた碧は、必死に酸素を肺に流し込んだ。
「おにいちゃんありがとう!」
いつの間にか駆け寄ってきていた少年が、満面の笑みを見せた。碧は少年と目線を合わせるべくしゃがみこみ、彼の頭に手を添えて応える。
「おう……無事でよかった…………」
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます……!」
駆けつけてきた母親に、何度も何度も深々と頭を下げられた。
その傍らには、無事に守り抜いた少年の笑顔。あどけなく、まっすぐなその瞳に、自分の全てが救われたような気がした。
芸人にはなれないが、自分にも人を救える瞬間がある。誰かの役に立てる道がある──。
碧はそのことを、心の底から誇らしく思った。今日まで生きてきてよかったと、初めて心から思えた。
だがその直後、麻痺していた痛みが、冷水のように背に蘇った。脳内に溢れていた多幸感は霧散し、焼けつくような傷の痛みに意識が揺らぐ。
視界がかすみ、身体がぐらりと傾いた。
「お兄ちゃん……! お兄ちゃん!」
少年の叫ぶ声が、遠くなる。手を伸ばそうとした指先に、もう力は残っていなかった。そのまま、碧の意識は、すうっと深い闇へと沈んでいった。
二日後、病室で目を覚ました。隣には、父が驚愕の表情を浮かべ、石のように固まっていた。
傷は深かったものの、幸い臓器には達しておらず、命に別状はないが、目を覚ますのが遅いため医師も憂いていたのだとか。だが無事に意識が戻り、コミュニケーションも取れることが分かり、父も母も安堵していた。
入院期間中、コンビニで助けた幼い戦士が、母親と共に訪ねてきた。
その戦士は言った。
「きみは、ヒーローだ。ぼくといっしょに、せかいのへいわをまもろう!」
あんなに怖い経験をしてもなお、彼は戦士だった。
冗談でもなんでもない──碧は、差し伸べられた小さな手を握り返した。そして、ヒーロー同盟を組んだ。
周囲からすれば、ただのごっこに過ぎなかったかもしれない。だが碧にとっては違った。気がつけば、涙がこぼれていた。
後日、怪しげなスーツの男が尋ねてきた。それが零士だ。
そうして彼に特執に勧誘され、人の役に立つという目標の元、入局を決意した。交わしたヒーロー同盟に、恥じぬよう──。
「──尋芽……たん…………なんで……」
胸に突き立てられたナイフの冷たさを、碧はどこか他人事のように感じていた。血の温もりが逆に現実感を薄れさせる。
そんな中、彼はただ純粋に、目の前の彼女に問いかけた。
声は震えていたが、責める色はなかった。碧の目には、尋芽がいつもより遠くに見えた。いや、まるで別人のようだった。
「なにがー?」
返ってきた声は、無邪気すぎて、碧の胸に小さく刺さった。碧は息を整えようとしたが、肺の奥にある鉄の重みがそれを許してくれない。
「せっかく付き合ったのに……デートも行けてない……」
苦しさを押し殺して言葉を紡ぐ。
彼女との日々。短くても、確かに過ごした記憶──それが偽りだったとしても、碧にとっては大切だった。
「は、はぁー? あんたなんかとデート行くわけないでしょー?」
尋芽の言葉に、冷たく突き放された。だが、それでも碧は笑った。
「俺のこと……好きじゃ……なかったのか…………」
脚の力が抜け、碧はその場に尻餅をついた。世界が滲んで、視界の端が暗くなっていく。けれども彼は、彼女の顔だけを懸命に見つめ続けた。
「バカじゃん。好きなわけないし。芝居よ芝居」
芝居。
その言葉に、ほんのわずか、心が軋む。でも、それでも──彼には忘れられない記憶がある。
「でも……照れてたじゃん。いつも……」
あの顔の赤み。しどろもどろな言葉。芝居だったと彼女は言う。でも、あれは──。
「な、なに言ってんのよっ! そんなわけないでしょ! 別にあんたに告られても嬉しくないし!」
赤らめた頬、早口になる声。演技かもしれない。でも、それでもいい──そう思った。
「はは。やっぱり照れてる……」
「うっさい! さっさと死ね!」
彼女は走り寄り、すでに突き刺さっていたナイフをさらに押し込んだ。鋭い痛みと共に、温かい血が口元を濡らす。
「うぐっ……」
碧はそれでも、笑っていた。たとえ本心が聞けなくても、たとえ全部が偽りだったとしても、それでも心には届いていた気がした。
「そっか……尋芽たん……」
「なによ!」
「いままで、ありがとう……」
意識が薄れていく中、ふと浮かぶのは、あの芸人の言葉だった。
とにかく笑っていればいい。いまの辛さはいまだけ。
だから、最後まで笑っていた。
「なに笑ってんのよ気持ち悪いっ!」
「嬉しいんだ……やっぱり俺は、尋芽たんが好きなんだって分かったから……」
「バカじゃないの! そんなの……そんなの──」
言葉の続きを、碧は聞くことができなかった。視界が、音が、感触が、すうっと遠ざかっていく。
胸の痛みは、もうなかった。
ただ一つ。
碧の心は、確かな幸福で満たされていた。




