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「おんどりゃぁぁあああ!」
無数の銃声を背に、千劉凱亜の拳が塀を撃ち抜いた。厚みのある壁面がバキリ、と乾いた音を立てて崩れ、粉塵が舞い上がる。その隙間から中庭の闇が覗き込んできた。
破砕された壁を肩から突き破り、凱亜が一番に飛び出す。巨体をしならせ、土煙を巻き上げながら強引に通路を抜けていく。
「大丈夫かチビ助!」
振り返れば、綱海がすぐ後ろにいた。身軽な体で軽々と瓦礫を越え、金髪が跳ねていた。
「問題ないっす先輩!」
ニカッと笑う彼女の顔には、いつも通りの八重歯。戦場にあってなお、彼女の眼差しは明るいままだった。
掃射から難を逃れた凱亜と綱海。
平然と縁側に座して二人を待ち構えていたのは、ライムグリーンのショートヘアーの女だった。
「うるさそう」
面倒そうに呟いた女。黒装束に身を包み、やけに短いスカートで、白い太ももが露呈している。顔は黒い犬の仮面に隠されているが、気怠げな空気はそのまま伝わってくる。
彼女のすぐ傍には、人間ほどのサイズの鎌が立てかけてあった。
「おお? お前さんがルージっちゅうやっちゃな。写真で見たことあるわ」
凱亜が興味深そうに歩み寄ると、ルージはわずかに身じろぎを見せた。
「やっぱりうるさい。……はぁ、なんで僕、いつもこうなんだろ」
「僕? 男か? でもスカート履いてるよな。やっぱ女か?」
「うるさい」
その言葉と同時に、ルージは鎌を引き寄せた。空気が一変した。次の瞬間、緑色のオーラが勢いよく解き放たれ、肌を刺すような圧が広がる。
「先輩! 来るっすよ!」
「おう。分かってる。気抜くなよ、チビ助!」
「おいっす!」
綱海が飛び出す。素早く、低く構えながら足元を跳ねるように駆け、視線を翻弄する。凱亜はその後ろからナックルを握り直し、風を切ってルージの懐へ飛び込んだ。
刹那、ルージの鎌が横薙ぎに振るわれた。鋭く、重い。だが、凱亜は上体をひねって避け、反動で渾身の右拳を叩き込む──鎌の柄が防いだが、凱亜の力はそれを押し切る。金属音が響き、ルージの身体がかすかに後退。
「こっからやァ!」
連撃──。
綱海が足元に潜り込むと、ルージは鎌を振るもタイミングがずれている。地面に大きな傷が走るが、刃は空を切るばかり。
凱亜は拳を振るい、綱海は飛び跳ねて撹乱。序盤の主導権は完全にこちらにあった。
だが──。
「もういい」
ぽつりと呟くや否や、ルージは的外れな場所に鎌を振るい、斬撃を放った。直後、中庭の照明がすべて落ちた。闇。深く、完全な闇が全てを飲み込む。
「チッ……!」
目が利かない凱亜と綱海。対して、ルージのバーストアビリティは聴式。つまり目が見えなくとも音が聞こえれば戦える。これほどまでの不利はない。
すぐ傍で、踏み込む足音が聞こえた凱亜は、咄嗟に身を捻るが、見えざる攻撃は容赦がなかった。肩に強烈な痛みが走った。
「くッ……」
凱亜と同じく、綱海にも刃が振るわれたらしく、彼女の呻き声が漏れた。
「アァ゛ッ……!」
「チビ助!」
呼びかけるが、返事はない。聞こえるのは、自分の荒い息と、足元を掠める鎌の風切り音。
「あなたたち、バーストアビリティもなしにここへ来たの?」
闇の中から、ルージの声が反響する。
「そんなに甘くないよ」
ルージの声は、聞こえる度に位置が変わっている。常に動き続け、凱亜の感覚を翻弄してくる。
「でもよかったね」
声の鳴る方へ振り向くと、次の言葉はその反対側から響く。もはや遊ばれているようだった。背後を取られ続けるのは、なかなかに恐怖。
「バラバラにされちゃうけど、人の役には立てるんだし」
「チビ助! 返事せえ!」
ルージの挑発には耳を傾けず、凱亜は綱海の状況把握を急いだ。しかし、やはり返事がない。
「知ってる? 人の骨髄はグラム二百万円もするんだよ。でもいいよね。それで白血病の人が治療できるんだから。あなたは体が大きいから、骨髄もたくさん入ってそう」
「さっきからなにを言うてんねや! 正々堂々戦わんかえ!」
「正々堂々? どうして?」
依然として動き続ける声の持ち主は、白々しく問い返してきた。
「そらそんな有利な状況で勝っても嬉しないからやろが!」
「勝ち負けに嬉しさなんてないよ。それに、二対一で戦うことは正々堂々と言えるの?」
「あぁ? あれ……確かにそれは卑怯かもしれんな」
「もういいや。めんどくさい。うるさい」
相変わらず綱海の声が聞こえないのが心配だが、凱亜は、この状況を打開する策を、すでに思いついていた。彼は見た目こそ筋肉バカなのだが、意外にも頭がキレる。16パーソナリティズでは何度試しても論理学者という結果が出てくるのがその根拠である。
「もう死んで」
冷徹な死神は、その言葉を機に、気配を消し去った。
「来いや」
凱亜は一世一代のギャンブルに出た。右手を後ろ首に回し、左手を心臓の前に添える。まるで寝違えた首を庇うようなその姿勢には、しっかりとした理由があった。
まず、灯りを消される以前のルージの攻撃は、鎌を横に振るうものばかりだった。もちろんそれは自然なことである。雑草を刈る時、葉を握り、横に倒した刃を引き寄せるのが通常の使用方法。誰もがそうするし、それを想定した設計だ。
この暗闇の中、全てを終わらせるとすれば、鎌で両断するのは首。問題は、どの角度から斬られるかということだ。
喉元からか、はたまた側面、或いは後ろか。ざっくり考えると四択になるが、終始、背後を取りたがっている様子を鑑みるに、刃が最初に触れるのはおそらく、後ろ首。
あとは凱亜の愛用武器である鋼鉄のナックルが、その刃を弾き返してくれると信じ、後ろ首に手を添え、念のため心臓を突き刺されないように左手を添える。これこそが、命を賭した博打なのだ。
そして数秒後。
ガキンッ──。
予想的中。右手の指にはめ込んだナックルが叫んだ。
瞬間、衝撃から逆算し、ルージがいるであろ右側に首を回した凱亜は、二の矢を放つ。
「なんでやねえ゛え゛えええええん゛んん!」
化け物じみた呼気圧を持って、全身全霊の叫び声を発した。日々の過剰なまでの筋トレのなかで、無意識のうちに鍛えられていた強靭な肺機能から実現したその声量は常軌を逸していた。
爆発にも似た彼の声が水源林に轟き、やがて静寂が息を吹き返した。もはや虫すらも爆音に驚いたのか、何一つ音が聞こえない。
爆音のツッコミから間もなく、凱亜のすぐ目の前でドサリという音が聞こえた。
「ふぅ。やり過ぎたか」
一呼吸おいて、凱亜がスマホのライトを地面に向けると、そこには、鎌を握りながらも痙攣しているルージが倒れていた。
仮面をずらして素顔を拝んでみると、白眼を剥き、泡を吹いていた。
「おーおー。効果抜群やなこれ。いっぺん試してみたかったんよなあ。すまんな嬢ちゃん」
人間の鼓膜は、150デシベル以上の音で破れると言われている。くわえて、人が出せる最大の声量は120デシベル強。
本来なら、肉声で鼓膜を破るのはほぼ不可能に近い。だが脳の制限を解除し、かつ鍛え抜かれた凱亜の声帯から放たれた咆哮が、ルージの鼓膜を破るのは朝飯前だったのだ。
「あ、あれ……あーし、なんで……」
凱亜の背後で、綱海の声が鳴った。すぐさま振り返り、スマホの灯りを向ける。
座り込み、虚ろな目をした綱海の姿か闇に浮かび上がった。
「チビ助! 大丈夫やったか!」
「凱亜先輩……」
「とりあえず、もう終わったわ! 立てるか?」
「ごめんなさいっす先輩。あーし、顎にモロに一発食らったみたいで、意識飛ばしてたっす」
どうやら、奇跡的に刃の餌食にならずに済んだらしい。なんたる豪運。
その後、念のためルージにインヒビターを装着しておこうと、凱亜は振り返り、心許ないライトをかざす。
「あぁ!? おれへんやないか!」
さきほどまで、泡を吹いて倒れていたルージの姿が消えていた。
「えぇ!? どういう状況っすか先輩!」
「お前も照らせ! スマホ持ってるやろ!」
「了解っす!」
そう言って慌てて綱海がスマホのライトを点灯させると、彼女の目の前には死神が。
「やばっ……!」
再び咆哮して、鼓膜を破るという荒業をするのもなしではなかった。しかし凱亜は、綱海もその被害に合う可能性を考慮した。そもそも、ルージの鼓膜は完全に破れており、もはやいくら叫び声を上げても効果がない可能性もある。
「そりゃぁぁああああ!」
凱亜は即座に叫びを上げながら、綱海の横合いから突進し、死神が振るう鎌の軌道から強制的に退避させた。むろん、彼女が刃の軌道上から外れた代わりに、自分がそこに立つことになることは百も承知。
左横腹に、強烈な痛みが走った。ズブリという生々しく、痛々しい音を伴って。
「ふんっぬぐぉ……!」
腹筋に全神経を注ぎ込み、筋組織を圧迫。鋼鉄の鎧かのごとく、硬化させる。幸いと言うべきか、腹は両断されず、鎌の切っ先が刺さっている状態でとどまった。
「先輩……!」
すぐさま凱亜は右手を振るい、目の前にいるであろうルージを、闇のなかから掘り当て、鷲掴みにした。見えないが、おそらく触れているのは首。左手で鎌の柄を握り、これ以上のダメージを受けまいと固定。
「もう逃がさへんぞぉ……」
「うるさい……バケモノ…………」
かすかにルージの声が聞こえた。そして凱亜は悟った。まだ鼓膜は破れていない、或いは、片耳が生きていると。
腹部の激痛など意に介さず、大きな口を開けて大量の酸素を肺へ送り込む──装填完了。
右手に掴んだルージの頭部を引き寄せ、発射。
「もう゛え゛えわあ゛あ゛ア゛ア゛アアあッ!」
この際、どちらの耳の鼓膜が破れているかなんて、どうでもよかった。
凱亜が喉から絞り出した声──それは音というより、衝撃そのものだった。全身全霊をぶつけた叫びが、ルージの左耳から突き刺さり、頭蓋を震わせ、脳の奥で暴風のように暴れ狂う。
その瞬間、手の中から生の感触が抜けた。ルージの身体がふっと力を失い、首がぐにゃりと折れ、凱亜の手をすり抜けて地面へと崩れ落ちた。
だが、勝った安堵など微塵も湧かなかった。
凱亜の膝もまた、重力に引かれるように落ちた。もう、踏ん張れなかった。
深々と腹に突き立ったままの鎌が、呼吸のたびに内臓をかき回すように疼く。彼は丁重に柄を握る手に力を入れ、ぐっと歯を食いしばって引き抜いた。
「げっはぁ……」
口の端から伝った鮮血が、首筋をつつつと這い落ちる。ぬるりとしたその感触が、どうしようもなく不愉快だった。
大概の負傷は、気合いでなんとかなる。しかしここまで深い傷を負ったのは、ずいぶん久々だった。
抜き取った鎌を、苛立ちのままに脇へ放り投げる。ガラン、と乾いた音が響く。血でぬめった手が、震えていた。
「先輩! 大丈夫っすか!? あーしのせいで……!」
綱海の声が飛ぶ。責任を感じているのが一目で分かった。
「大丈夫や、これぐらい……腹に力入れてたらすぐ血も止まる」
そう言った声は、いつもの調子を保ったつもりだったが、明らかに震えていた。痛みが、呼吸に紛れて滲み出る。
「……あきませんって! 動かんといてください! あーしが処置します!」
泣きそうな声に、少しだけ気持ちが緩んだ。まだ倒れるつもりはないが、ほんの少しだけ、間を欲する自分に、従うことにした。




