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八人乗りのSUV車──エスパレード。
分厚い装甲に包まれた漆黒の防弾仕様車は、アメリカの総理大臣を守ってきた実績を持つ。
そんな強靭な車両の後部座席に、陽暈は腰を据えていた。
ステアリングを握るのは零士。助手席には花染が座り、二列目には陽暈を中心にして、巨体の凱亜と痩身の悪立が並ぶ。三列目のシートでは、真壁、燐仁、綱海の三人が身を寄せ合っていた。
本来なら、あの体格の凱亜が運転する姿がしっくりくるはずだが、残念ながら彼は免許を所持していないという。
なお、之槌の率いる公安捜査員たちも、少し間をあけて後続車両で随行している。
首都高に乗り、七王子ICを降り、都道をひたすら進む。目指すのは、西戸摩郡奥戸摩町にある大河内ダム周辺の水源林。
ちなみに水源林とは、水源涵養機能を保全すべく、あらゆる観点から整備されている森林のこと。健全な森の働きにより、その土壌が絶妙なバランス感覚で雨水を貯えたり放水したりする、涵養機能を守ることで、洪水を防いだり、安定した水源の供給が行えるらしい。
その原生の森の一隅に、件の敵組織──ブラックドッグは根を張っているという。
幸いにして本拠は地下に築かれてはいない。花染の狙撃が活かせる余地があることは、わずかだが光明と言えるだろう。
警戒すべきは、京鹿を筆頭とした幹部たち。レイニー、ワイラー、ファウンド、ルージ──そして最悪の想定として、FRCなる薬剤が既に完成している場合、戦力の全容はまさに霧中である。
今回の最重要目標は、月乃の救出。次いで日下部や京鹿の拘束。他の幹部の確保は、可能であればという注釈付き。柳生は、幹部たちの忠誠心からして、京鹿さえ落とせば組織は自壊すると読んでいるのだとか。
とはいえ、敵の全容が掴めぬ以上、こちらが取るべきはあくまで隠密行動。
どれほど精鋭を揃えたとはいえ、敵の牙城へ踏み込む以上、その一歩一歩が綱渡りだ。
深夜の車内。
誰もが口を噤み、緊張の糸が張り詰めていた。窓外を流れる景色は闇に沈んでいる。だが、見守るように光り輝く満月だけが、この無音の空間にかすかな温もりを与えていた。
やがて、車は水源林の近辺へと到着。
山道への入り口には、犬面を被ったブラックドッグの構成員たちが数人、警戒に立っていた。
正面突破は避け、エスパレードは何食わぬ顔で通過し、道脇のスペースに滑り込むように停車。
エンジンを切り、ヘッドライトも消灯した零士は、ダッシュボードに備えていたタブレットを取り出した。
「じゃ、最終確認ね」
タブレットの灯りで、みなの表情が闇に浮かび上がる。画面には、ブラックドッグの拠点を、暗視カメラで上空から捕らえた画像が表示されている。江戸時代の大名屋敷を彷彿とさせる建造物群だった。
「公安のドローンで偵察した時に撮影できた写真なんだけど、これ以上接近するのは難しいんだって。敵に勘づかれるのだけは一番避けないといけないからね。で、ブラックドッグの拠点までは全員でいく。到着したら散開して潜入。チームは四つに分ける。まずは俺と陽暈くん」
零士と目が合った陽暈が頷く。
「俺らは日下部のGPSが示す位置を真っ直ぐ目指す。次に凱亜とツナ」
双の拳に装着されたナックルを、鋼がぶつかり合うような音を立てて鳴らす凱亜と綱海。火花が散るような衝突の音に込められたのは、無言の闘志と覚悟だ。
「二人は拠点の全体を把握しながら、潜入できそうならいっちゃって。次、カスミンと、おりん」
真壁が手の中の日本刀を握り直す。鍔鳴りと共に、刃がわずかに軋み、鋭気が周囲の空気を裂いた。
その隣で、燐仁もまた視線に凄みを宿し、じわじわと戦気を高めていく。
このペアもまた、師と弟子。長年の積み重ねがあるだけに、戦場での呼吸は自然と噛み合う。技量も性格も異なるが、それがかえって互いの動きを補い合う。
「二人も凱亜たちと同じ感じで。あだっちゃんは一人の方がいいよね」
「おー」
良くも悪くも、緊張の色が見えない悪立。周囲の空気に呑まれることなく、どこか飄々とした態度はいつも通り。
協調性など最初から求めていない彼にとっては、単独行動に近い今回の配置こそが、もっとも適した舞台だ。
型にはまらぬ彼の動きが、想定外の突破口を切り開くこともあるだろう。
「あだっちゃんはとにかく撹乱。敵戦力を引き付ける役目だから、正面から好きなだけ暴れちゃって」
「うい」
「梨紗ちんはいつもどおり、後方支援ね」
「りょーかい」
いまのところ、彼女は武器を手にしていない。それもそのはず、花染の愛用武器であるスナイパーライフルは、車内には持ち込めまい。
ちなみにそれは、局を発つ際にトランクへ積み込んでいた。
「みんな、今回の任務は生半可な覚悟じゃ生きて帰れない。できれば殺しは、なしでお願いしたいけど──」
「んなこと言ってるとすぐに死ぬだろーが」
切りつけるような目で、悪立が吐き捨てた。相変わらず態度が悪いが、誰も指摘しない。
「そうだね。あだっちゃんの言うとおり、少しでも情けをかければ、自分はもちろん、仲間の死に繋がるかもしれない。だから今日は、容赦なく行こう」
みな、深く頷き、行動を開始。之槌たちは別の車両で待機し、必要に応じて動いてくれるとのことだ。
静かにドアをスライドし、各自車を降りた。花染がライフルをトランクから取り出し、全員で林へ飛び込む。
水源林へと続く山道の入り口。五人の警備が認められたところで、悪立が真っ先に動き出した。
『俺がやる』
無線イヤホンから悪立の声が聞こえるや否や、凄まじい速さで黒い影が疾走した。そして一人、また一人と、ブラックドッグの構成員がバタバタと倒れていった。
『クリア』
一瞬の出来事だった。かろうじて、月光を反射させる漆黒の刃が、かすかに見えただけだった。
引き続き、警戒を強めつつ歩を進めると、今度は水源林の出入り口、大きな看板が立てられている場所に、またもや警備が三人。
『ここは私が』
次に名乗りを上げたのは真壁。彼女に続き、燐仁も動き出した。
『私も行きます!』
今度は銀色に煌めく刀身が二本、音もなく帳を切り裂いた。三人の構成員もまた、首を刎ねられて崩れ落ちる。
『クリア』
真壁の冷たい音声がイヤホンから響く。
人が死ぬ。まるで、それが当然の出来事であるかのように。
目の前から命が消えていく光景に、もはや陽暈の心は波立たなかった。
先日──あの刑務所で、数多の受刑者を手にかけた時点で、何かが壊れたのだろう。情が鈍ったのか、麻痺したのか、それすらもう分からない。
ただ確かなのは、誰かを斃すたび、自分の奥底に冷たい沈殿がひとつ、またひとつと積もっていくことだった。
そんな自分が、心底嫌だった。それでも今は、立ち止まることは許されない。
任務を遂行する。それだけを支えに、陽暈は感情を封じ、前を見据えた。
そうしてついに、一行は水源林の奥へと足を踏み入れた。
灯りこそないものの、地面は不自然なほどに均されており、明らかに人の手が入っていることがわかる。
この先に、ブラックドッグの本拠地がある──誰の目にも明らかだった。
やがて、前方に柔らかな暖色の灯りがほのかに浮かび上がる。
ひっそりと広がる低層の木造建築。その重厚な梁は歴史を物語るようにどっしりと構え、どこか古寺のような厳かさを漂わせていた。
『中の構造が分からないから、慎重にね。じゃ、みんな──散開して』
零士の低く冷静な声が、夜気の中に溶けた。
合図と同時に、事前に編成された四つのチームが静かに動き出す。音を立てぬよう、拠点を取り囲むようにしてそれぞれの持ち場へ。
ほどなくして、陽暈と零士は、敷地を囲う塀の手前へと辿り着いた。
高さはおよそ二メートル半。老朽化した木材の表面に苔が這い、ところどころ剥がれた漆喰が月光に照らされていた。
軽々と塀を飛び越え、ついに本格的にブラックドッグの本拠地への潜入を開始。
塀を越えると、こぢんまりとした庭が広がっていた。石畳の細い小道が縫うように伸び、周囲は木々の静けさに包まれている。
昔ながらの風情ある木造建築が立ち並び、格子状の窓を繋ぐ和紙の温もりが、触れずとも伝わってきた。連なる長屋造りの構造は、内部での迅速な連携を前提として組まれたものだろう。
「……零士さん。静か過ぎないっすか?」
「うん。確かに妙だね」
敷地内に足を踏み入れたというのに、屋敷は死んだように沈黙していた。
風の音すら遠ざかり、空気がわずかに重たくなったように感じる。警備の姿は、一人もいない。まるで最初から空だったかのように。
『こちら悪立。正面から入ったが、誰もいやしねぇ。どうなってんだ』
『ワシや。西側から入ったけど、こっちにも全然人おらへん』
『真壁です。こちらも同じくです』
次々と入る報告。
室内には確かに灯りがともっている。ならば、誰かがいるはずだ。それなのに、まるで気配がない。不在というより、空虚と呼ぶべき感覚。言い知れぬ不気味さが背筋をなぞった、そのときだった。
パァン! パパパパパパパパッ──!
遠くで、雷鳴にも似た連続した銃声が炸裂した。乾いた破裂音が森に跳ね返り、重なるように、さらに数発の爆音が響く。
『クソが……! 囲まれてやがる!』
通信越しに聞こえた悪立の声には、明らかに焦燥が滲んでいた。直後、別方向からも立て続けに銃声が轟く。
『こっちもや!』
『こちらもです!』
凱亜、真壁の両チームも襲撃を受けている──。
そして、もちろんその弾丸は、陽暈と零士にも迫っていた。
「陽暈くん!」
零士の声が空気を裂いた、その瞬間。
右頬に何かがかすめ、世界が一瞬、ゆるやかに引き延ばされる感覚に包まれた。時間が、歪む。思考が追いついたときには、弾丸が目前を通過していた。
「っと……!」
瞬時に身を翻し、さらに一発、二発と迫る殺意を、スレスレでかわす。再び時の遅延が起こり、肌の上を、冷たい鉄の指先がなぞるように通り過ぎていく。
射線は、建物ではなく、むしろ逆──先ほど飛び越えた塀の上から撃たれていた。
陽暈は咄嗟に身をねじり、空中で体をひるがえす。バク転で弾道をずらしながら、庭に設置された巨大な岩の陰へと滑り込んだ。
「大丈夫かい」
零士がすでに岩陰に退避していた。暗がりの向こうで、再び銃声が重なりはじめる。
「ど、どうなってるっすか!?」
「分からない。でもどうやら、奇襲は失敗したようだね」
依然として、銃弾は岩に叩きつけられ続けていた。硬質な音が連続し、遮蔽物としての命も、もはや風前の灯火だった。
岩肌には無数の傷が刻まれ、削れた破片が足元に散っている。
「さてと」
零士がひょいと岩陰から顔を出し、すぐさま引っ込めた。
「中に入れってか……どのみちこのままじゃ袋のネズミ。二手に分かれて、屋内に突入するよ陽暈くん」
「了解っす」
零士は三本の指を立て、折るたびにカウントダウンを示す。中指、人差し指、そして親指──瞬間、二人は同時に駆け出した。
零士は左から、陽暈は右から飛び出す。
飛び交う弾丸は一瞬、的を見失ったかのように軌道がブレたが、すぐに修正され、二人を追随。しかし、陽暈の内心には奇妙なほどの平静があった。
触式を使えば、弾丸など触れた瞬間に回避行動へと身体が動く。たとえ被弾しても、それが致命に至ることはない。
零士も同じく、視式を持ってすれば、弾丸を回避することくらい容易い話。強いて言うなら、灯りが乏しいため、弾丸を見逃す可能性があることだろう。
そうして二人とも、ほぼ同時に障子を突き破り、木が弾け飛ぶ音を鳴らしながら室内に転がり込んだ。
割れた木片が弾け、空気を裂きながら舞う。滑るように転がり込んだ先は、思いがけず整えられた空間だった。
和室──。
陽暈の視界を満たしたのは、畳が隙なく敷き詰められた、上質な一室。い草の香りがふと鼻先をくすぐり、いつしか銃弾の雨も止んでおり、奇妙な静けさが肌にまとわりつく。
正面の壁には掛け軸が掲げられ、墨で書かれた力強い書。その下には、よく研がれた日本刀と長刀が並べて飾られている。刀身がかすかな光を反射していた。
だが──その和の美意識を破壊する異物が、真ん中に鎮座していた。
「うわぁ……最悪のコンビが来ちゃったぁ…………」
甘ったるく、どこか挑発的な声音。白いスーツに、桃色のツインテール。その見慣れた風貌に、陽暈の表情が引きつる。
「尋芽……お前……」
ブラックドッグの象徴である仮面などかぶっておらず、堂々たる姿で座しているのは、紛れもなく仁志尋芽だった。




