70
局に到着した陽暈は、零士と共にバーストアビリティを解放し、全身の感覚を研ぎ澄ませた。だが、そこに広がるのは異様な静けさだった。
廊下には局員たちが佇んでいるものの、誰一人として動こうとはしない。見えない鎖でその場に縛りつけられているかのように、息を潜め、怯えた目でこちらを見ている。
「九頭さん……」
不安に震える声が響いた。振り向くと、一人の女局員が身を寄せてくる。
「どういう状況かな」
「いま、司令室に犬の仮面をかぶった三人組がいます。たぶん柳生司令もそこにいると思います。私たちは局内のアナウンスで、避難せずにその場で待機しろと指示され、動くことが許されていません……」
「零士さん。急ご」
「あぁ」
不吉な沈黙が支配する廊下を駆け抜け、司令室の扉の前に立つ。零士がゆっくりと扉を押し開けると、異様な光景が広がっていた。
司令席の中央には、ヴェルマが悠然と腰掛けている。青い瞳が冷ややかに光り、デスクに肘を乗せ、あごの前で手を結ったその姿は、支配者然としていた。
その脇には、白い犬の仮面をかぶったレイニーが立ち、目隠しを施された月乃を姫抱きしている。さらに反対側では、黒のスーツを纏うワイラーが、黄色いマッシュヘアの丸眼鏡をかけた男を片手で担ぎ上げていた。
三人とも、赤、白、青、各々のオーラを放っている。
一方、司令用デスクの前に置かれたソファには、柳生が腰を下ろしていた。彼女には縄も手錠もない。それなのに、抵抗する素振りすら見せず、ただ静かに座っている。
異様な沈黙が支配する室内。張り詰める緊張が肌を刺す。
「遅かったな」
ヴェルマが低い声で陽暈たちを迎え入れた。
「月乃!」
思わず陽暈が彼女の名を呼んだが、気を失っているらしく、反応がない。
「おいヴェルマ! その子は関係ねぇだろうが!」
「下手な真似をしなければ傷つけん。なにやら便利なオーバーアビリティを持っているという噂が気になったのでな。そんなことより、今日は少し話をしにきた」
「お前と話すことなんかねぇ! つか柳生司令! なんで月乃のことちゃんと見てなかったんすか!」
「すまない……」
ばつの悪そうな面持ちで、柳生が陳謝した。
「落ち着いて陽暈くん。人質を取られてるんだよ」
いまにもヴェルマに飛びかかりそうな陽暈の前に立ち、背中を見せた零士。その言葉で、陽暈はかすかに冷静さを取り戻した。
「ところで、サーカスは楽しんでもらえたのだろうか?」
気を荒立てる陽暈には興味を示さず、ヴェルマは零士に視線を滑らせた。
「あぁ。ずいぶんと楽しませてもらったかな」
「それはなによりだ。受刑者はどうしたんだ?」
「全員殺したよ」
零士の即答に、ヴェルマの瞳は微塵も揺れなかった。
「それはまた、思い切りのいい判断だな」
ふざけた態度のヴェルマに、陽暈の堪忍袋の緒が刺激される。
「あれはいったいどういうカラクリなのかな」
「カラクリ? あぁ、受刑者がランペイジ状態になった所以か。簡単な話だ。我々が造り上げたFRCを試験投与するために、受刑者の昼食に混入させておいたのだ」
「FRCってのは?」
「フォースド・リリース・コンパウンド。服用した者を強制的にリリースさせる合成化合物だ。しかしあれは未完成。実際に見た貴様らなら分かると思うが、服用するとランペイジ状態に陥り、理性が損なわれてしまう。そしてその反動に耐えられず、数時間で死に至ることがほとんどだ」
やはり受刑者が自分の意思で暴れていたわけではなかった。それを知った陽暈は、心が張り裂けそうになっていた。救いを求める彼らを、容赦なく殺めた重責に、押し潰されそうになっていた。
「全員が死ぬと分かっていてお前は薬を混入させたのか……!?」
黙っていられず、零士の斜め後ろから陽暈が声を荒げた。
「いいや。全員が死ぬかどうかはまだ分かっていない。これまで試験投与してきた分母が乏しいからな。しかし今回、約三千の試験体を元にデータが取れる。はずだったのだが……」
言葉が詰まったのか、あえて間を空けたのかは分からないが、ヴェルマはゆらりと首を横に数回振ってため息をついた。
「貴様らが皆殺しにしたせいでデータは取れないだろうな。わざわざGPSを打ち込んだというのに……」
わざとらしく口惜しむヴェルマの様相が、再び陽暈の怒りの業火に油を注ぐ。
「お前は……お前はいったい何なんだ……」
これでもかと、拳を強く握り込んだ陽暈は声を絞り出した。
「たくさんの人の命を弄んで! お前はなにがしたいんだ!?」
いつしか、握りこぶしで頬を支え、退屈そうにしていたヴェルマが、呆れた様相を浮かべた。
「いい機会だ。貴様に教えてやろう。
いま、この世界で最も重要で強力なのは財力。金があれば大抵のことは揉み消せる。だがそれは命の保証のうえに成り立っているにすぎない。
財力に対抗できるのは、武力。自分の命を天秤にかければ大抵の人間は降伏を選択せざるを得ない。もちろん、武力と言っても公のものではない。裏社会における武力だ。
FRCが実用化に至れば、SATなどとは比にならない強靭な軍が完成する。そこにいる日下部の知能があれば、すぐに実用化できるだろう」
そう言いながら、ヴェルマはワイラーが担ぎ上げる囚人を見やった。
「そして私は、この国の実質的統治を達成するのだ。力以外の上下関係は要らない。強い者が上に立ち、弱い者はそれに従う。人間は知能を持ってしまったがゆえに、無益な争いを広げている。
他の動物はどうだ? 弱肉強食。それこそがこの世の理。本来、人間もその理に従うべきなのだ。知能は弱者が強者に勝るための武器の一つでしかない」
「くだらねぇ。それは間違ってる」
この世の憎悪をかき集めたような強大な存在に屈せず、陽暈はその邪気を跳ね返した。
「弱者に手を差し伸べることができたからこそ、人類はここまでの文明を築き上げたんだ。お前の思想は古臭い」
「古臭いのはこの世界だ。貴様は親にこう教わらなかったか? 世界には食べたくても食べるものがなく、老若男女問わず多くの人間が餓死している。だから食べ物を粗末にしてはならない。と」
いったい何の話を始めたのだ、とでも言いたげに陽暈は眉に皺を寄せた。そんな彼に構わず、ヴェルマが続ける。
「とある場所の飢餓を我関せずと盲目になり、さもそれが常識であるかのごとく我が子に説く。弱者に手を差し伸べる強者がいてもなお、そんな常識が定着したと言うのか? 狂気の沙汰。滑稽。滑稽至極」
ヴェルマは憎たらしく鼻で笑いながら反論を呈した。
「それは強者が弱者に手を差し伸べていない理由にも、差し伸べる意味がない理由にもならない!」
「いいや、その最たる例だ」
「俺たちには……!」
重ねられるヴェルマの論をねじ伏せ、陽暈は感情をさらけ出した。
「俺たちには未来がある。夢がある。それが力によって踏みにじられるのは、絶対にあっちゃならねぇ! お前の勝手な都合で、他人を無下にするな!」
「……そうか。分かったぞ。私が貴様を嫌悪する理由がようやく分かった」
ヴェルマは椅子の背もたれに身を寄せた。
「貴様のその張りぼての正義感だ。見え透いた綺麗事が、腹立たしくて仕方ないのだ」
「綺麗事なんかじゃ──」
その時、救いを求める受刑者の顔がよぎった。
そう。自分は彼らの未来を、夢を、踏みにじった。その行動は正に、ヴェルマの目指す世界そのものだった。
気づいてしまった陽暈は、言葉を詰まらせてしまった。
「もう貴様に、そんな理想を口にする権利はない」
「…………」
心の底から悔しいが、陽暈には反論することができなかった。ヴェルマの言葉が、その通りだと思ってしまったのだ。
「さて、子供との話はこの辺にしておこう」
歯噛みする陽暈を一瞥し、そう言ったヴェルマは、あろうことか仮面をゆっくりと取り外した。そしてデスクにそっと置いた。綺麗な青い目と、整った顔立ち。
その行動の理由が見当もつかない陽暈。柳生も疑念を抱いた様相だったが、その場で唯一、過剰に狼狽して見えたのは、零士だった。
「み……御門…………」
「久しいな。零士」
「どういうことっすか。零士さん」
すかさず、陽暈が問う。
「あぁ。彼は俺の幼馴染み。京鹿御門。もう何年も会っていなかったんだけどね……」
側頭部を掻きながら、零士が打ち明けた。
「零士。覚えているか。私をここに誘ってくれたことを」
「もちろん覚えてるよ。でもきみは断ったよね」
「あぁ。断った。だが私は嬉しかったんだ。罪を犯した私を拒絶しなかったのは、零士と父上だけだったからな」
「だったらどうして来なかったのかな」
「なぜだろうな。羨ましかったのかもしれないな。いや、それは違うか。妬ましかったんだ。正義感の強いお前が、自分の道を真っ直ぐ進むお前が」
「御門。きみがなにを考えてるのか分からないけど、もうやめにしようよ」
「いや、もう私は汚れた。いまさら振り返ることは許されない。だからこそ、今度は私の番だ──私と共に来い。お前も薄々気づいているはずだ。特執がどう足掻いても、本当の平和は訪れないと」
予想外の提案を持ちかけた京鹿。
いつもの零士なら、鼻で笑いそうなものだが、表情ひとつ変えずに問い返した。
「平和? きみは平和を目指しているのかい?」
「そうだ。私はこの日本国が好きだ。だが莫大な資産を有する一部の権力者によって支配されている。それが許せない。全てを裏から力でねじ伏せ、私が平和を作る」
「その平和は、きみに都合が良すぎるかな。平和というものはもっと、海のように広いものであるべきだよ」
「それは絵空事だな。何事にも限界がある。自分の手が届く範囲に、平和があればそれでいいのだよ」
「変わったね。御門」
「互いにな」
言葉数が減ってきたところで、レイニーが京鹿に耳打ちした。
頷いた京鹿は、デスクに置いた犬の仮面を手に取る。
「零士。私はいつでもきみを歓迎する。また会おう」
「そうだね。また会うことになりそうだ」
「零士さん。このまま逃がすんすか」
「ツッキーが人質に取られてる以上、見送るしかないね」
そう言った零士は、ウインクをして見せた。どうやらなにか策があるらしい。
「相変わらず冷静な男だな。天若陽暈。次会う時は、相手をしてやろう」
「受けて立つ。今度は人質を取るなんて卑怯な真似すんじゃねぇぞ」
できることなら、いますぐにでも京鹿の顔面に拳を叩き込んでやりたかった。しかし、月乃の命が握られているうえ、局内で戦闘になった時の被害が計り知れないため、無闇に動くことはできない。
なにやら企みがある様子の零士に、ベットするほかに道はないのだ。
その後、当然のように司令室から出た京鹿らは、怯える局員が大勢立ち並ぶなか堂々と闊歩した。そんな彼らの後ろに、陽暈と零士が続く様は、まさに異常。
みな嵐が過ぎ去るのを、息を殺して待っているようだった。
そうして来客を見送るように、陽暈たちは京鹿らの背を見届けたのであった。
絶対に救出する。いまだ気絶したままの月乃を見やった陽暈は、心でそう誓った。
「零士さん。なにか策があるんすよね」
先刻、司令室で取ってきたアイコンタクトの理由を、陽暈が問うた。
「うちの監獄に収容されている囚人の体にはGPSチップが埋め込まれてる。もちろん連れて行かれた日下部って男にもね」
「ってことは!」
「うん。全然見つからなかったブラックドッグの本拠地が割れるかもしれないかな」
頼みの綱は繋がれた。グッと堪えて大正解だったのだ。
「ツッキーを人質にとったのは未来予知が目的だった風だから、彼女が殺されるってこともなさそうだし、とりあえず落ち着いていこうか」
「はい……!」
今後の展望も見え、ホッと一息ついたところで、特執が有する白いバンが走り込んできた。なにやら慌ただしく、バックドアが開かれ、担架が飛び出した。
そこに横たわっていたのは、赤い体躯の巨大な怪鳥。といっても、いつものような鮮やかな赤ではなく、毛並みも立体感を損なっている。それは至る所から湧き出る鮮血による影響だった。
「アキラ……!」
陽暈は咄嗟に駆け寄った。担架の上で、わずかに嘴が動いた。
「ヒガサ……スマン…………マモレン、カッタ…………」
「なに無茶してんだよバカ!」
「タノム。ゼッタイ……ゼッタイ、ツキノヲ、タスケテクレ……」
「当たり前だろ! だからお前は死ぬな! お前がいてくれねぇと俺は……!」
「ウルサイ……」
アキラのか細い声が、陽暈の叫びを切り裂いた。だがその響きは、いつもと変わらぬ彼らしさを宿していて、胸の奥を締めつけた。
「すみません! 離れてください!」
鋭く飛んできた声に、陽暈はハッとして身を引いた。直後、担架が滑るように搬送されていく。
その背を、陽暈は黙って見送った。
「アキラ……ずっと月乃の近くで見守ってたんだな。じゃあ次は俺の番だな」
呟きとともに、陽暈の胸に熱が灯る。流れ込んでくるのは迷いなき覚悟──。




