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目頭にひそむ熱を友人たちに悟られぬよう、陽暈は無事に最後の授業をやり過ごした。すでにテスト期間に入っており、生徒たちは早々に校門をくぐり、それぞれの帰路へと散っていく。
帰りのホームルームでは、担任教師が低く厳しい声で告げていた。
「近頃、都内で誘拐事件が多発している。一人で帰ることはなるべく避けるように」
その言葉の隙間から、女子クラスメイトたちのひそひそ話が聞こえてきた。知り合いが被害に遭ったのだとか。
それこそテレビで誘拐や殺人などのニュースをよく目にする。あくまでも他人事だと思っていたが、どうやら対岸の火事でもないらしい。
自分の家族が殺されたことも踏まえ、世の中に対する認識は改めるべきなのかもしれない。
とはいえ、男が拉致されるなど考えにくく、陽暈は一人静かに下校の道を歩んでいた。
ほどなくして、人影もまばらな商店街の入り口が視界に入る。もちろん、そこを通るつもりはなかったが、一人の女子高生が躊躇いもなくその薄暗いアーチをくぐった。
彼女は陽暈と同じ高校の制服を纏い、肩を少し落として背筋を丸めながら、どこか自信なさげに歩いている。
「朝顔。また一人かよ。これはパイプマンチャンスだな」
没収されていた漫画が返却され、熱く燃え上がる展開を読み終えたばかりの陽暈。憧れのヒーローに心を奪われたまま、迷わずその商店街へと駆け出した。
小走りでアーチをくぐり抜けた直後、三十メートルほど先で、突如として黒い犬の仮面をかぶった人物が脇から飛び出した。
「え、犬!?」
三匹の犬たちは月乃の背後に忍び寄り、黒光りする袋を乱暴に彼女の頭に被せると、軽々と担ぎ上げて走り去っていった。
「誘拐ってマジだったのかよ!」
焦燥に駆られ、陽暈は足を回転させる。その瞬間、身体に異様な感覚が走った。
「なんだ!? 俺こんな走るの速かったっけ!?」
踏みしめる一歩一歩がこれまでとは比にならない力強さを帯びていた。地面を蹴る力は何倍、いや何十倍にも膨れ上がり、歩幅と速度は人間の限界を遥かに凌駕する。
時速65キロと言われる人間の最高速度など、この感覚の前では子供の遊びに過ぎなかった。ただただ、自分の筋力とは明らかに異質な未知の力が体内に満ちていることだけが確かだった。
だがしかし、犬の仮面をかぶる連中もまた、常軌を逸した速さで商店街を駆け抜けている。陽暈は負けじと追い縋るが、その距離は決して縮まらなかった。
やがて誘拐犯たちは商店街を抜け出し、大通りへ飛び出した。そこで待ち構えていた黒いバンに月乃を乱暴に放り込み、エンジンを唸らせて猛然と発車。
数秒の遅れを経て陽暈も大通りに飛び出し、追跡を続ける。
レースゲームのように、三本の車線を巧みに縫うようにバンは疾走。陽暈は側道を真っ直ぐに駆ける。
並走するバスの運転手に二度見されたため、片手でサムズアップを返した。歩道の群衆も爆速で駆ける彼に息を呑み、釘付けになっているが、なりふり構っていられない。
しばらくして、大きな交差点に差し掛かった。そして運命は敵に味方する。
バンが走り去った直後、信号が赤に変わったのだ。
対向車線も含めれば六車線にわたる交差点は、交通量も多く、信号無視は事故を免れない。
このままでは追いつけないと悟った陽暈は、ふと考え至った──走るだけでは効率が悪い、と。
「飛べない人はただの豚!」
信号の変化を待つ暇などなく、陽暈は全力でアスファルトを蹴り上げる。想像を遥かに超えた跳躍力で、ふわりと宙に舞い上がった。
だが力加減を誤り、気がつけば信号機の高さまで羽ばたいてしまう。
「あ、やばくねこれ」
三十メートルもの道路を飛び越え、青い主要施設の案内看板に激突。非常出口の名もなき彼の気持ちを汲み取り──落下。
即座に体勢を立て直し、空中で一回転を決めた陽暈は軽やかに着地し、両手を高く掲げてYの字のフィニッシュポーズを決めた。
「ドヤッ」
終始ゼロ点の演技だったが、終わり良ければなんとやら。
「って、してる場合かって!」
自分の尻を叩き、陽暈は爆走するバンの追跡を再開した。
だが結局、追いつくことは叶わなかった。ただ、バンの終着点を見極めることには成功。月乃が連れ込まれたのは、古びた倉庫だった。
巨大な鉄扉のわずかな隙間から中を覗き込む。
「悪くねえな。いもくさいが金にはなる」
フードを深くかぶり、黒い犬の仮面をつけた男の声が響いた。怯えた月乃の顔をじっと覗き込んでいる。
その周囲には、ツバを後ろに引いた帽子を頭に乗せる男、地面に腰を下ろした短髪の男、そしてバンの運転席のドアを開け放ち、腰かけるポニーテールの女がいた。みな、犬の仮面の下に素顔を隠している。
フードの男は月乃の全身を舐めるように観察し、やがてその手を月乃の胸元へ滑らせようとした。
「天若陽暈、ドカンと参上!」
重厚な鉄の扉を押し開けた陽暈は、中二病全開の決め台詞を高らかに放った。ちなみに、ドカンと参上というフレーズは、彼の憧れ──パイプマンの決め台詞。