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陽暈は、この世の地獄を見た。いや、地獄すら生温いと思えてしまうほど、残酷な現実だった。
そこかしこに転がる遺体。いたるところにこびりついた赤黒い斑点。真っ赤に染まった自身の掌。
網膜はカラカラに乾燥しており、涙で心を洗い流すことすら許されない。
数えきれないほどの受刑者の命の火を吹き消した。
最初に手にかけた人物の容姿や表情、そしてどのようにして息の根を止めたのかまで、事細かく鮮明に覚えている。
年齢は二十代の若い男。もしかすると自分と同じくらいの年齢だったかもしれない。
垂れた目元からは優しさが溢れ出しており、罪を犯したとは思えないような青年だった。
彼の充血した目には涙が浮かんでおり、救いを求めるようにも見えた。しかしそんな男の首に、問答無用でナイフを突き立て、勢いよく横にスライドさせた。
多量の鮮血が湧き出るように零れ落ちた。衝撃が加わった炭酸ジュースの缶を開けた時の、泡が噴き出る様に酷似していた。
名も知らぬ男はゴボゴボと、うがいをするような音を鳴らしながら崩れ落ちた。そして身動ぎ一つしなくなるまで、彼は一度も目を逸らすことはなかった。
あの世に行っても目の前の男の顔を忘れず、一生呪ってやると言わんばかりの執念を感じた。
ただ、最後、目を閉じる瞬間だけは、どこか安堵した表情に見えたのは、陽暈の心が壊れないように、脳が勝手にそう解釈しただけかもしれない。
いったい何人、どれだけの受刑者を殺しただろう。いまとなっては人を殺すことに何の抵抗も持てていない。
言うなれば工場のライン作業。受刑者らは呼ばなくても牢獄から飛び出して、襲いかかってくる。迫ってくれば殺す。殺しては次の受刑者を待つ。再び迫り来る受刑者を殺す。
戦場では、狂気に満ち溢れた笑みを浮かべる悪立が、縦横無尽に駆け巡り、凄まじい勢いで受刑者を殺してまわっていた。碧から聞いた、ニュークを殺した人数が桁違いだという噂は、真実だったらしい。
もっとも、いまとなっては陽暈も同じだが。
そんな悪立の無慈悲さえも、異常だと思えないほど、陽暈の感覚は麻痺していた。
相手取る人数が多過ぎる場面があり、何人か取り逃がしそうになったが、崩壊した塀まで近づくと例外なく頭を吹き飛ばされてその場で膝から崩れ落ちていた。
どうやら、零士が言っていた狙撃手とやらは、かなり腕が立つらしい。仮に狙撃を逃れたとしても、塀の外にも捜査官が大勢待ち構えているため、逃げ果せることはまずありえない。
後に駆けつけたSATの応援もあり、今のところ一人も逃走を許していない。
特殊部隊と言っても、普段相手にしているのは少々危険な一般人。だがしかし、特執は、人間離れした力を有する犯罪者が相手だ。そんな化け物を、蟻を潰すかのように殺して回る陽暈たちを目の当たりにしたSATの隊員らは、恐ろしくて仕方なかっただろう。
文化祭の監獄ツアーに参加し、所内の施設見学をしている人々が大勢殺されたが、取り払われた塀から避難できた者も多い。亡くなった人は悔やまれるが、最小限の被害に抑えたと言えるだろう。
れいの爆発から約二時間後、北側の塀周辺に捜査官が集められた。心をどこかに捨ててしまったような虚無感を感じつつ、陽暈は周辺を見回した。
そこには、自分が知る人は一人もおらず、殺人鬼の集団かと勘違いしそうになったが、自分もその集団に属していることを悟り、頭を垂れずにはいられなかった。
人間らしい温かみや迷いは影を潜め、そこにあるのは深い静寂、そして凍てつくような冷徹さだけ。
これではどちらが正義で、どちらが悪なのか分からない。
その後は、零士の指示により、バーストしている捜査官は収容棟を回り、ランペイジ状態にある受刑者が残っていないか確認することとなった。もはや焦る必要もないため、もし紫のオーラを纏った受刑者と遭遇した場合は、可能であればインヒビターを活用して身柄を確保するようにとも言われた。
ちなみに、他の捜査官は引き続きSATと協力して周辺の包囲と一般人の避難誘導を任されていた。
指示通り、陽暈は重い腰を上げ、収容棟を巡回した。
数えられる程度だが牢内には受刑者が残存していたものの、そのほとんどが虫の息で、好戦的な者はいなかった。
瀕死状態で牢内で倒れている者や、牢は出たものの力尽きて横たわっている者など、状況はそれぞれ異なるが、共通して言えるのは、みな高齢者であるということ。
原因は判明していないものの、高齢者はランペイジ状態となる負荷に耐えられなかったのかもしれない。
そう仮定すれば、今回一人も逃がすことなく事態を収拾できたのは、社会的問題である少子高齢化の影響が、刑務所内にも及んでいたことが大きな要因だったという考え方もできる。
巡回を終えた陽暈は、備えつけのベンチに腰掛ける。思わずこぼれたため息にうんざりしながら俯いた。
「陽暈くん」
声をかけてきたのは、両手に缶コーヒーを握った零士だった。
「零士さん……」
数時間前に受けた脅迫まがいの説教を思い出した陽暈は、まともに彼の顔を見ることができなかった。
「さっきはすまなかったね。怖がらせてしまって」
「いえ……」
陽暈の隣に座った零士は、二人の間に缶コーヒーを置いた。数時間前の恐ろしさは見る影もなく、いつもの彼に戻っているようだ。
「これ、飲んでいいよ」
陽暈は軽く会釈をして、すぐ隣に置かれた缶を手に取った。火傷しそうなほど熱かったが、心も体も冷え切った今の彼には丁度いい温度。そうして二人でカツッとプルタブを起こすと、苦味のある芳ばしい香りが鼻腔を通りすぎる。
「陽暈くんは奢る奢らない論争知ってる?」
突拍子もない問いに、陽暈は「え?」と聞き返すことしかできなかった。
「女の人は美容にお金かけてるから、食事代は男が出すべき、とかさ、それを言うなら男は車買ったりしてるし最近はメイクしてる人だっているんだから平等に割り勘にするべき、とかさ。そういう論争あるじゃん?」
「あぁ……あるけど……それがなんすか」
「人ってさ、そんなくだらないことでも正解を出したがるんだよ。この世のほとんどに正解なんてないのにね。でもさ、実際に女の人と食事に行った時は、自分なりの回答を出さないといけないじゃん? 奢るか割り勘にするか。あ、あと奢ってもらうってのもあるか」
「そうっすね……」
一口コーヒーを啜った零士は空を仰ぎ見た。
「人を助けるために人を殺してもいいのか。そもそも、殺す以外に方法が無いか模索していないまま、判断していいのか。今日は、きみだけじゃなく、他のみんなも色んな葛藤を抱えたと思う。それが普通だからね」
ここでようやく、奢る奢らない論争の話を出した理由を陽暈は理解した。
「俺にも分からないんだ」
空から視線を落とした零士は、両腿に肘を乗せ、手に握るコーヒー缶の食品表示を眺めながら深く息をついた。目つき以外はいつも通りに見えるが、精神的には、ずいぶん参っているらしい。
「ランペイジ状態の受刑者を皆殺しにすることが正解か不正解かなんて分からない。でもあの時、俺には他の答えが浮かばなかった。それに回答時間に猶予がなかった。ただ、何もしなければきみと同じように、俺の回答用紙も白紙だった」
早くも飲み干したコーヒーの缶を、零士は軽々と握り潰した。
「それじゃ何も得られない」
まるで紙屑のようにぺしゃんこになったスチール缶をベンチに置き、立ち上がる。
「俺らの仕事は、白紙のまま回答用紙を提出していい仕事じゃないんだ。仮にその問いに正解が存在し、自身の回答が不正解だったとしても、回答を誤ったという経験を得られる。それは将来必ず役に立つと俺は思ってる。もし自分が教師だったら、白紙で出されるより、どんな誤答でもいいから、答えてくれる方が嬉しいでしょ? だからきみも、せめて回答用紙は埋めるといいかな。もちろん時間があればじっくり考えていい。でも今すぐに回答しなければならない場面もあることを忘れないで」
「零士さん……俺らの回答は、正解だったんすかね……」
やるせない気持ちで胸が一杯になったその時、遠くの方で女の叫喚が轟いた。反射的に立ち上がった陽暈は、零士と共に叫び声の方向、東エリアを目指した。
収容棟群を抜け、運動場に出ると、明るい桃色のツインテールを揺らしながら泣き叫ぶ女が、血溜まりに座り込んでいた。
「いやぁぁだぁあああああああ……!」
「尋芽!?」
叫び声の正体は尋芽だった。陽暈の声を聞き、彼女は振り返った。
「陽暈くん……あお……んが…………碧くんが……」
涙で目元のメイクが悲惨なことになっている尋芽の腕のなか、碧が瞑目していた。
「はぁ……?」
陽暈は混乱した。
碧の腹部には、特執の捜査官に貸与される携帯ナイフが深々と突き刺さっている。
「おいおい……もう勘弁してくれよ……」
おぼつかない足取りで尋芽の元まで歩みより、跪いた。ブラウンのスラックスが、地面に広がる碧の鮮血を吸い上げるのを感じる。
「陽暈くぅん……脈がないよぉ……」
碧の首元に手をあてながら、尋芽は大粒の涙をボロボロと流している。
「嘘だろ…………碧……」
よく見ると、碧は幸せそうな面差しのまま眠っていた。尋芽に抱かれて嬉しいのだろうか。
「なぁ……碧、起きてくれよ……」
頬に触れてみると、ひんやりとした感触が指先に広がった。氷を触ったかのように、冷たかった。
「うちが来たときにはもぉ……この状態だったのぉ……」
どうやら、ランペイジ状態の受刑者との戦いに敗れたらしい。
「どうしてバーストしてないのに、塀の中に入ってきたんだよ碧……つかなんでお前、そんなに嬉しそうなんだよ……」
「碧くん……」
空気が重くなり、誰もが声を発することが億劫になった。しばらくの沈黙を経て、陽暈が震える声をこぼした。
「全部あいつだ」
「えぇ……?」
「全部あいつが悪い。ヴェルマを捕まえないとなにも終わらなねぇ」
波留と幻陽を失ったあの夜のような、煮えたぎる憤りが、陽暈の脳内を支配しつつあった。その気迫に、尋芽も怯えている様子だった。
空気の読まない零士でさえ大人しくなった最悪の空気のなか、すぐ近くの道路にシルバーのセダン車が走り込んできた。公安が有する車両だった。
「九頭殿ぉー!」
助手席の扉が開き、姿を現したのは之槌だった。次いで、運転席から降り、顔を覗かせたのは森田。
「あれ? とっつぁんどうしたの?」
車に駆け寄った零士が問う。
「緊急事態でございます。局にヴェルマ、レイニー、ワイラーの三人が侵入しました。暴れているわけではありませんが、朝顔殿を人質に取られております」
「月乃が!?」
思わず陽暈が反応した。
「えぇ。いまだ目的は判明しておりませんが。とにかく、急いで局へ参りましょう! 我々が送りますゆえ!」
「いやいい。車より走った方が速い。陽暈くん、行くよ」
ここで、凄まじい衝撃を伴いながら、凱亜が空から降ってきた。
「何事やあ!」
その巨体により、地面が大きく沈み込んだ。彼もまた、据わった目をしていた。
「凱亜。局にヴェルマが現れたらしい。俺と陽暈くんは戻るから、後は頼めるかな」
「なんやてえ!? ほんならわしも行こうやないか!」
「いや、ヴェルマがいる限り、きみは来ない方がいい」
「そうか……そうやな。しゃーない、ほなここはわしに任しとけ」
頭が固そうな男だが、存外、物分かりがいいらしく、凱亜は大人しく引き下がった。
その後、陽暈は尋芽の肩に手を置いて目を合わせた。
「碧のこと、頼む」
「うん。陽暈くんも気をつけてぇ……」
碧を弔う暇もないまま、陽暈は零士と共に走り出した。忍者のごとく、住宅の屋根を飛び渡り、最短距離で局を目指す。




